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ゲヘナ
自分が何処に立っているのかわかるようになると、すぐに足元から不快な感覚が上ってきた。何事かと思って目を落とす。足元は湿った泥で埋め尽くされていて、私はその中に呆然と立っていた。白かった外套の裾は茶色とも黒ともつかない汚らしい水気で染まっている。私の口は悪態をついた。
すると、少し離れた所から女の笑い声が聞こえた。意識がはっきりしてきても尚暗いので目を凝らしてみると、湿った足音を立てながら二人の女が私に近付いてくるのが見えた。
女たちは、私に向かって言った。
「幼子よ、道に迷ったのですか」
「ここはあなた方の嫌う場所、あなた方の知らない場所です」
二人の声は似通っていて、ほとんど聞き分けることができなかった。双子だろうかと思ったが、二人が近付いてくると歳がいくつか離れていることが見て取れた。
二人は何の質問をすることもなく、私のことを「幼子」と言った。もしやと思って自分の顔を触ったが、今日は急に若返っているわけでも、蓄えていた髭が消え失せたわけでもない。異界に来ると度々奇怪なことが起こるが、姿形と自意識が普段と変わらないままで幼子と言って指されるのは、相手が極端に人の知識に疎い者である時か、嘘をつかれている時か、「自分たちにとってあなたは見るからに幼い」と言ってくる長命な異界の先住民族たちに出会った時である。
女たちは両方とも白い肌をした人間の姿をしていたが、見たこともないような格好をしていた。ひざ近くまであるぬめった長い履物、継ぎ目の無い黒い服、鼻と口を覆うひだのある白い布。そして異界ではしばしば、出会う者の言語が私たちの使うそれとは異なっていることがあるのだが、一言目からこちらに合わせた明瞭な言語で話しかけてきたことを考えると、恐らくは利口で異界に慣れた者なのだろう。
異界の先住民たちは年齢を持たないものも多く、私たちにとっては不老不死に思える。また、人間の理解の及ぶ所よりもずっと多くのことを知っており、心を見透かされたり、未来を先回りされてしまうこともある。二人もまたそのような人々なのだろうかと思っていると、彼女たちは親切心をもって私をもてなしてくれた。
「私はマルタ、こちらは妹のマリア。私たちはヴェルティージニ大図書館の司書の家の生まれです」
「私たちとあなたがいるここは、ゲヘナと呼ばれる暗い沼地です。私たちはここに、泥を集めにやってきました。この場所にあなたが長く留まっても死に至ることはありません。また、私たちはあなたに危害を加えることはありません。幼子よ、安心しましたか?」
彼女たちは少し離れた所で立ち止まって、それ以上近寄ってくることはなかった。どうやら私が警戒し、様子を窺っていることを理解してくれているようだ。
こうしてよくわかる言語で意思を伝えてきてくれる者たちは、異界の住人の中でも人間に対して友好的な立場を取っていることが多い。少なくとも死について言及してくる者は、人間が死ぬということを知っていて、更にはその「死」という概念について理解しているとわかるので、それだけでも出会えたことが非常に幸運なことだと言える。私は彼女たちに礼節を返すべく口を開いた。
「ええ、とても安心しました。ありがとうございます、親切なご婦人方。私はベン=アリ。こちらではまだ名前を授かっていませんが、そうお呼びください」
私の方から一歩近付くと、二人は途端に笑顔を見せて駆け寄ってきた。並び立つと彼女たちは小柄で、身近にいる女たちよりもずっと華奢な造りをしていることがわかった。
「あなたは顔を隠さないのですね。幼子よ、あなたはどこから来たのですか?」
「城下町の人の間では、他人に覚えられたくないからと言って、顔を覆い隠すのが流行っているのですよ。あなたはいつの時代からやってきたのですか?」
私はその時ユダヤの民をまとめていた者の名を口にした。すると二人はお互いの顔を見合わせてから、「あなたには私たちの名の由来を話す必要がありませんね」と言った。彼女たちが何を指してそう言ったのかはわからなかったが、私は異界でよくそうしているように「私はまだ知らないことなので、そうなのでしょう」と答えた。
彼女たちは私を気に入ってくれたようで、暗闇を怖がる私のために松明を焚いてくれた。それは不思議な明かりで、松明と言っても炎は無く、触ってみても熱を感じなかった。明かりの色は小さな炎のそれではなく、輝く太陽に似た色をしていた。どうして明るいのかと尋ねてみると、彼女たちは魔術の話を始めた。
曰く、松明は入れ物で、中に無数の非常に小さな者たちが閉じ込められているのだという。それらは二つの組に分けられている。小さな者たちは、お互いが存在することを知らないが、魔力によって作られた広間に通されると、初めからそうであったかのように本来あるべき自分の形を思い出す。彼らはぶつかり合い、混ざり合って一つの者となる。不要になった体は剥がれ、彼らは元の姿を取り戻す。剥がれ落ちた体は新たな魔力となり、魔力は光の形を成す。こうして松明は明るく灯るのだという。
まるで原初の物語を聞いているような心地になり、私は眉を潜めた。呪いを行う者たちは物事の始まりをすぐに語ろうとする。人の心に取り入る時にそうするのだ。私が再び彼女たちが何者なのか怪しんでいると、二人はまた喉の奥で笑い声を立てた。
「そう難しいことではありません。私たちにとってはただ、足元が明るくなるというだけのことですよ」
「正直なところ、この松明は光の魔術が得意な者から買い受けたのです。私たちにはこのような呪いごとはできません」
彼女たちの内マリアの方が、つま先で泥の上に文字を描いた。私にはそれを読むことができなかったが、棒と四角を組み合わせた一文字と、数字を三つ数えた軌跡と酷い癖字のザインの文字を組み合わせたようなもう一文字であることが見て取れた。これは何かと尋ねると、光の魔術師の名であると彼女は言った。
「太陽の昇る方角に、その日差しを好む植物が集まって生えている様子を表す名です」
「光の魔術師らしい名ですね。何と読むのですか?」
彼女たちは根気よく、何度もその名を口にして教えてくれたのだが、異界で出会う人々の言語は、そのままの発音で聞くとどれも非常に聞き取りにくい。幾度も口真似をしながら繰り返し尋ねる様子は幼子そのものだろう。元の国では老齢と言われる私も、ここでは何の比喩でもなくあまりにも幼い。見聞きすることの全てが新しく感じられる、力の弱い赤子と同じだ。
オゥシア。トーオーシィーアー。極力ゆっくりと発音してもらうと、何とか近しい言葉を口にできる。するとマリアは控えめに拍手をして微笑み、私を褒めてくれた。
「幼子よ、あなたは人の立場に驕ることなく、異界の知識に染まるのですね。司祭ベン=アリよ。あなたは人の世界で蔑まれますが、やがて私たちと共にこの国の神を褒め称えるでしょう。あなたの魂はこの国で救われます」
彼女は光あれと囁いて、松明を私の手に握らせた。私は恐ろしくなって顔を強張らせた。彼女は今、何と言っただろうか。人の心を見透かし、未来をも予見する者たちの口は、何を言ったのだろうか。
恐る恐る尋ねようとした私の前で、二人の女が同時に同じしぐさをした。彼女たちは自分の唇の前に人差し指を立て、幼子を眠らせる時のように歯の隙間から声を吹いて、静かにするようにと促していた。何かの呪いを掛けられたかのように、私の体は動かなくなった。彼女たちは続けて言った。
「それは神を指す言葉elを冠した魔道具です」
「いいえ、勿論冗談です。それは、あなたに差し上げます」
「幼子よ、また会いましょう」
「いいえ幼子よ、私たちは過去から未来永劫ずっと顔を合わせたままなのです」
松明を握ったまま酷く怯えていると、彼女たちの姿が徐々に暗闇に溶けていくのが見えた。衣服も、肌も、声も。全てが糸を解くように掻き消えていく。気が付くと、女だったものの所には何一つ残っておらず、物音の一つもしなくなっていた。そうなって初めて私は息を吹き返し、泥の中にうずくまって身を丸めることができた。
私は声を押し殺して震えた。幼子が恐ろしいものに出会った時、どうしたら良いかわからなくなるのと同じように、静かに、なるべく物音を立てないよう緊張しながら、涙を零して身を小さくしていた。彼女たちが本当に異界の先住民だったのか、未来を見通していたのか、嘘を言っていなかったのかはわからない。しかし、言いようのない恐怖が私の心を打ち砕いていた。
「神よ、私は決してあなたを裏切りません。私はあなたと共にありつづけます。私の魂は、あなたの国においてのみ救われるのです」
声を出してしまったことで、心は絶望を感じた。
私は、神に従い生きている今、自分の魂が救われていないと感じていることを、自分の言葉で言い表していた。私は泥の中に手をついて、しばらくの間咽び泣いていた。
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