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ヒンノムの谷にて
しばらくの間、泥の中にうずくまっていると、ある時遠くの方から大きな音がした。とてつもなく大きな物が叩き付けられたかのようなその音は、地響きとなってのこちらの方まで届いていた。私は恐ろしくなって立ち上がり、手に持った松明で遠くを照らそうと必死にもがいた。
少しの間そうしていたが、大きな物音の後は再び全くの静寂に戻り、誰の足音もしない。この夜中の悪い夢から目覚めるまで、その場で立ち止まっていたいと思っていると、足元の泥が蠢いて私のつま先を何度かつついた。履物の間から入り込んだ湿り気のある泥が、爪の隙間に挟まろうと押し寄せてくる。私は半ば逃げ出すような格好で、足をもつれさせながら前に進んだ。
松明は魔道具だったが、呪いごとのできない私にも扱うことができた。女たちがそうしていたように力を込めて一振りすると、松明の明かりは消える。もう一度振ると、元のとおりに光を放つ。作法を知らない者にも扱える術具を作る魔術師とは、一体どのような頭脳をしているのだろうか。異界に来るたび新しい物事に出会い、恐れ、そして感銘を受ける。私は、女たちが言ったようにただの幼子だった。今手の内にあるこの松明が、安全な物なのか、それとも恐るべき物なのか一人では判断することができなかった。
泥の中を進んでいくと、少し先に人が倒れているのが見えた。
それは見たところ男であり、黒と白の布できた衣服を身にまとっていた。髪は濃い茶色をしていたが、眉は黒い。妙な毛色の者は、異界でいくらか出会うことのある種族の人間だった。私は心配になって駆け寄り、男の元へ行ってしゃがみ込んだ。
男は仰向けに倒れており、白目を剥いて、口から涎を垂れ流していた。呼吸はしているが、それは毒を煽った時の様子に似ていた。しかし、苦しんでいる様子は無い。呼吸は遅すぎる程に落ち着いており、まるで安心しきって眠っているようだった。
声を掛けることを躊躇していると、頭上で僅かに光が明滅したのが見えた。天窓でもあったのだろうかと思って見上げると、そこには丸い小さな光がいくつかあって、そのどれもがちらちらと明滅を繰り返していた。よく見ると、どうやら暗い空間の天井から細い管が何本も生えていて、その先端から光が漏れているようである。奇妙な光景に目を奪われる。するとそのうちの一つに何かが詰まって、光が遮られるようになった。
私がじっとその管を眺めていると、それは次第に膨らんで、詰まっていたものがこちら側に流れ込もうとしているのがわかった。一体なんだろうか。注視したことを、私は酷く後悔した。管の先から泥水が噴き出す。その水圧に押されて、管から人の頭が押し出された。出産する者のように、管は人間を排出する。非常に高い所から産まれ落ちた人間は、そのまま泥の沼目掛けて真っ直ぐに落下する。大きな音と地響きが起きた。落ちてきた人間は泥の中に沈んだが、その体は破壊されることがなかった。
私は恐る恐る歩いて行って、落ちてきた人間の元へ近寄った。それは若い女だった。女は白目を剥き、涎を垂らしたまま、まるで死んでいるかのように眠っていた。
異界に滞在している間、異界の空間そのものには時間が流れていないと耳にしたことがある。ただし私たち人間は異界にいても年老いて行き、時が経てば体が脆くなり、たとえ上手く生き永らえたとしても次第に心を壊していく。時間の経過が確かに存在するのだ。それは人間の体内や自意識の中に、普段生きている世界の時間が閉じ込められ、流れているからだ。その時、私の中では長い時が流れ、おおよそにして半日の時が過ぎているように感じた。
頭上の管からは、一息ついて心を静める暇もなく、断続的に人が産まれ落ちていた。それらは男であったり、また女であったりしたが、服装が皆似通っており、ほとんどが同じ種族の人間であることが見て取れた。管は恐らく、どこかの国か、あるいは一つの出入り口に通じているように思えた。彼らがどこからやってくるのか聞いてみたいと思ったが、それらは皆同じように意識を失っており、まるで死んでいるかのように脱力しきっていた。
幾人かに対して、私はゆすったり、頬を叩いたりした。しかし誰一人として目覚めることはなく、ある者は失禁しだしたので、私は彼らと話すことを諦めた。そうしている間にも多くの人が降ってきて、泥の中に突っ伏したり、転がったりしていた。だんだんとその人数が増えてくると、そこは掃き溜めのようになった。もしかすると彼らは管から産まれているのではなく、どこかで不要になってここへ落とされるのだろうかと、良くない想像が頭をよぎった。だがそれではまるで、ヒンノムの谷ではないか。
私はその場に留まっているのを非常に心苦しく感じるようになった。自分が彼らと同じように、ゲヘナに滞在していることを思い出したのだ。
私はどこか遠くに離れて行って、そこで悪夢から覚めるのを待とうと思った。
私は泥の上に立ち上がった。すると、丁度その時頭上の管が膨らみ、一人の若者が沼に向かって吐き捨てられているのが目に入った。
若者は沼に叩きつけられた後、他の者とは違ってすぐに立ち上がった。私は驚いて、若者に声を掛けた。
「待ってください」
若者は私の声を聞かず、どこかへ歩いて行こうとしていた。それはやせ細った男で、最初に落ちてきた男と同じように、黒と白でできた衣服を身にまとっていた。彼の手には平たく大きな荷物袋があり、それは磨いた革に似た光沢のある布でできていた。
若者の足取りは非常に重く、老人の足でも十分に追い付くことができた。駆け寄ってみると、若者は目に丸いガラスをつけており、強く叩きつけられたはずのそれには、不思議なことにひびの一つも入っていなかった。若者は左腕を持ち上げ、袖を捲くって銀の腕輪を見る。彼の口が小刻みに、早口で動いた。
「はやく行かないと怒られる、はやく、はやく」
彼は酷く焦っているようだった。しかし一方で、彼の足はまるで足枷に繋がれた人のように緩慢で、自由に動かせないようだった。私は彼に尋ねた。
「あなたは何処へ行くのですか?」
すると彼は振り向いて何事かを言った。
言葉は異国のもののようで、上手く聞き取ることができなかった。しかし私の耳はそれを、働く場所、神殿、あるいは高名な司祭の行う講話、そして家、食堂、仲間のいる所と同じ言葉で聞き取った。突然、同時にいくつもの言葉が聞こえたので、私は驚いて声を上げた。若者は私からすぐに顔を背けて、どこかへ向かってまた歩き始める。彼は口を引き結んでいた。しかし彼と同じ声がずっと続いて流れている。行きたくない、帰りたい、眠りたい、疲れた。彼の足取りは重い。もしかすると彼の体は、沼に落ちてきた他の者と同じく、本当はその場から動きたくないのかもしれない。私はまた、若者に向けて声を掛けた。
「あなたは何故そこへ向かうのですか?」
若者は再び振り向いて言った。
「行かなければいけないから、行くんです」
若者は、私にわかる言葉ではっきりと言った。どうして聞き取れたのだろうと深く考えてみると、私の意識は起き上がり、幼い頃父に習った異界言葉の使い方を古い記憶の中から掘り起こした。
元の世界では、他の事を考えながら言葉を話すことができる。しかし異界で他の事を考えていると、それは意味となって相手の耳に届いてしまう。だから異界では、正確に物事を伝えたい時に、口から発する言葉を心の中でも読み上げなくてはならない。書物を一人で読みふける時のように、心の中でも発音する必要があるのだ。すると二つの言葉は一つの意思になり、相手の耳に明瞭な形で届く。これは異界において礼儀であり、これを欠くことを嫌う者は多い。
それに倣って言えば、若者は心の中でも、声に出す言葉の上でも、そのように思っていたということになる。「行かなければいけないから、行く」。それが本心ならばと思うと、私の背筋は冷たくなった。彼がそこへ行く理由は、そのまま返って、そこへ行かないという選択肢を予め禁じ、動かない足を動かす為の強力な呪文である。
待ってくださいと、私はもう一度声を掛けようとした。しかし私の声は喉の外に出て行かなかった。その前に、声を封じる地鳴りが起こったのだ。
地面の底から突き上げるような振動が起こり、私は眩暈を起こした。すると視界が一回りし、泥の色が全て苔のような饐えた緑色に変わった。それと時を同じくして、あちこちから柔らかい物の破裂音や、苦しみ呻く声が沸き立つ。大声で叫ぶ者もいた。泣き声が上がった。それらは皆、人ではなく獣の鳴き声のようだった。私が呆然としていると、前を歩いていた若者の体が崩れ落ちた。彼の体はいくつもの肉片になって、分かれて散らばっていた。血と穢れが泥に滲んで広がっていた。私は慌てて逃げ出したが、あちこちに同じような人々がいるので、どこにも身を隠すことができなかった。
ある者は顔を紫にし、糞尿を垂らしながら死んでいた。ある者は関節や首をあらぬ方向に曲げ、頭から髄液を流して息絶えていた。泡を吹いて倒れ伏している者がいた。腕や首から血を流して、動かなくなっている者もいた。その一方で、相変わらず眠っているような美しい姿のまま、土に還ろうとしている者もいた。あたりは初めからそうだったかのように静まり返っていた。私の他は、誰一人として生きている者はいなかった。
死人たちの内、一つに見知ったものを見つけて、私は自分の目が暗くなるのを感じた。その人はぶよぶよと膨らんでおり、顔は何者とも判別がつかない程に腐敗していた。皮膚はいくらか剥がれていたが、衣服はそのままの形で体にまとわりついていた。それはいつかヨルダン川で見た、友の死体によく似ていた。私は彼の悲しみを取り去ることができず、また彼は自分の神を欺いた自己への失望から立ち返ることができなかった。ある者が「彼は神を愛しており、最後に自らの命をもって殉じたのだ」と言った。私は酷く憤慨し、多くの人々を困惑させた。
水辺で命を落とす者は数多くいる。その僅かな部分が自ら命を絶ったものであり、そうでない者も多いだろう。私は、周囲にある沢山の死んだ体のことを、友と同じように自ら死を選んだ者だと考えることをやめたいと思った。天井に生えたいくつもの管が人を産む時、まるでこの暗闇に人々を誘い込むように、引きずり込むように、彼らに吸い付いていたことを忘れたいと思った。私の目からは涙が流れ落ちていた。悲しいとも恐ろしいとも思うよりもずっと以前の、言葉にならない感情が直接血液に滲み出ているかのように、私は自分がどうして泣いているのかわからなかった。私の心は周囲の者たちに親しみを覚えた。
私は泥の中にしゃがみ込んで、しばらくの間、またただひたすらに泣いて過ごしていた。
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