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 私が目を開けると、そこは異国の街のようだった。真昼の太陽が、天高く昇っていた。  つい先程まで泥の沼でうずくまっていたように思うのだが、果たして本当にそうだったかと考えてみると、それはずっと昔のできごとのように思えた。私は、自分の中にあったはずの時間の流れが失われていることに気が付いた。あれからどれ程の時間が経ったのかわからず、感覚を手繰り寄せることもできない。また、一瞬前の出来事なのではないかと疑ってみると、全くその通りであるように思えた。  泥水で汚れていた筈の外套は元の白色を取り戻しており、沼地そのものが幻覚だったのではないかと心が疑い始める。しかし記憶は確かに残っており、私は沼地の出来事を思い出すごとに、体が震えること気が付いて、それ以上考えることを自分の意思に命じて禁じさせた。  足元を見ると、そこは幾重にも連なった石畳で覆われていた。つま先の近くを大きな鼠が横切っていく。鼠の体には、光り輝く宝石でできた模様が彫り込まれていた。草木の香りが漂っている。周囲に人気は無かったが、遥か遠くの方で、賑わう市井のようなざわめきが起こっていた。ここは何処だろうかと思っていると、背中のむこう側から聞き覚えのある言い回しが聞こえた。 「幼子よ、狐狸に化かされた気分はどうですか?」  二人連れの女かと思ったがそうではなく、それは低い男の声をしていた。振り返ると、私よりも頭一つ以上背の高い禿頭の男が、こちらに向かって厭らしく笑っていた。妙に手足が長く、あばらが浮き上がる程に痩せている男は、どことなく蛇を思わせる顔つきをしていた。男は私の返事を待たずに話し続けた。 「ある国の決まり文句だよ。白昼夢を見た時は、野良獣のせいにしてすぐ忘れてしまうに限る。言葉の意味は必要ない。今ここで考えるのは相応しくないのだ、幼きユダヤの民よ」  芝居がかった男の言葉は、意識の上を滑っていくので、なかなか意味として捉えることができない。恐らく口に出す言葉とは裏腹に、心の中で何か別のことを考えているのだろう。そちらの方は巧妙に隠しているので窺い知ることはできなかったが、異界の言葉遣いに倣って言えば、男が心にも無いことを言っていることだけは確かだ。私は「なるほど、これは気分が悪いな」と思った。  男は私が気を悪くしたことに気付いたようだったが、お構いなしで喋り続けた。 「あの女どもは君が嫌う類い者たちだ。深く関わらない方が良い。あれは、そうだな、悪魔だ。君がさっきまでいたあの暗い場所は、きっと地獄だろうな。人が死んだ時に行くことがある場所なのだから、君は行くべきではなかった」  あれこれ話している間もずっと、男は薄ら笑いを浮かべていた。ゲヘナと呼ばれる土地で出会った女たちのことを知っている様子なので、もしかしたらこの男も先住民の類いなのかもしれない。ただし、人間に対する態度は非友好的である。この薄ら笑いも、私を挑発しようとしているように思えてならなかった。  私たちの信仰では、人は死ぬと土に還る。地獄というのは他の派閥の者たちや、異国の者がよく口にする教えだった。心が読めるのならば、私の声も勝手に聞こえるだろうかと思っていると、男は「横着は良くない」と言った。私の心は彼に届いているようだった。  男は数歩歩いて、建物の影に身を潜めた。その姿はまるで暗闇に身を横たえる蛇のようで、私の心は落ち着かなくなる。目が彷徨ってあちこちを見回していると、人気の多い方とは反対の方角に大きな塔が聳え立っているのが見えた。  それは非常に大きく、雲の上まで届いて尚余りある程の高さがあった。壁面は緑や紫に輝く玉虫色をしており、金属のように艶と硬度があるように見えた。塔の形はいびつで、細長い角柱を無数に組み合わせたような構造をしている。よく見ると、それらの一部は階段になっていて、塔の低いところから上層階へ移動できるようだ。柵の無い建物の造りは、空を飛べない者にとって不安が多く、上ることを躊躇する程長く続いている。その塔がある所は、『空洞』のように感じる場所だった。どんな物よりも高く大きく聳え立つ建造物があるにもかかわらず、そこに大穴が空いているかのように、言い知れない虚無感が景色の中に広がっていた。  美しい色の煌きと、その虚空を眺めるような奇妙な心地に釘付けになっていると、男の声が割り込んできて言った。 「あれは神殿だよ」  私の心は、まるで呪いを施されたかのように、興味と衝動によって支配されていた。そうあれと、虚空の塔が私に語りかけてきているようだった。 「この国の神のものでしょうか?」  私は悪かった気分のことも忘れて尋ねていた。男は言った。 「その通りだとも。あれを城と呼ぶものもいる。外の人間たちがあらゆる名で呼ぶこの地にとって、あれは統治の象徴であり、信仰を意味するものでもある」  千年間約束されているかは知らないが、平和が保たれているのはあれのおかげかもしれないと男は言った。何かの嫌味を言ったらしいとわかる声色だったが、もしかすると異界特有の慣用句なのかもしれない。 「あそこへ行くことはできますか?」  私が尋ねて言うと、男はそれまでの不快な笑顔を崩して、少し驚いているようだった。どうしたのかと重ねて尋ねると、私がそこまで塔に興味を示したことを不思議に思ったらしい。彼が異界の先住民であるならば、心を読むぐらい簡単なことではないのか。それとも、先住民であるなどとは全くの見当違いで、もしかすると心を覗くことができないのだろうか。  いずれにせよ、彼は私の心を読むことができないようだった。意図せず、非友好的な態度への意趣返しをすることになったと自認したところで、禿頭の男は言った。 「君は今、どうだ心が読めないだろうと思って、得意になっているだろう? 君は今一度、自分の心の声によく耳を傾けるべきだ。逆に尋ねてみるが、君は自分がどうしてあそこへ行きたがっているのか説明することができるのかね?」  男はわざと険しい顔を作っているようだった。促されて心の中を探ると、私はどうして自分が塔へ行きたがっているのか、説明することができなかった。ただ心が惹かれるままに、輝く神殿へ足を運びたいと口にしていたように思えた。  私が自分のことに困惑していると、男は機嫌を持ち直して言った。 「わからないかね? 勉強不足も甚だしい。調べものならすぐそこの図書館へ行くと良い。君が目覚めるのを忘れる程、いくらでも書物を読み耽ることができるだろう」  男が指差すと、急に眼が開かれ、そこに巨大な建物があることが見て取れるようになった。入り口は百フィートもあるかという程高く、どんな巨人でも入ることができるようになっていた。古いパピルスの束が放つ、独特の渋みのある香ばしい匂いが扉の内側から漂い出ている。私は自分の心が、夢を見ている時のようにぼやけていて、欲望に忠実になりかけていることに気付いた。私は心の中で神に祈った。そうでなければ、一瞬の内に意思を見失ってしまいそうだと感じたからだ。  蛇のような男が舌打ちをした。男の方を見たが、その音が本当に彼の元から出てきたのか判別が出来ない程に、表情は平静そのものだった。「調べものは?」と男が言った。私は今や元の世界のことを思い出しており、そこが夜中の暗闇であったことや、家路を急いでいたことを自分の心に言い聞かせた。暗闇に潜んだ男の足元から、影が伸びて大きくなり始める。それは長く伸びたかと思うと枝分かれし、千切れて石畳の隙間に落ちた。それらは這って私の元に来ようとする。家の外壁を這っていた蛇たちと同じような光景が迫ってくるのを見て、私は慌てて逃げ出した。舗装された石畳の上は走りやすかったが、蛇の影はそれよりも早く足元に回り込んでくる。声を上げるのよりも早く、一匹の蛇が跳び上がり私の口に噛み付いた。痛みは無かったが、噛まれた場所が無くなってしまったかのように感じて、私は困惑した。次いで別の蛇が左手に噛み付いた。すると噛まれた場所から影が体に入り込み、やがてそこが景色に溶けて無くなっていくのが見えた。穴が空いたその場所を見て恐怖していると、次々に蛇がやってきて、私の体のあちこちに噛み付き始めた。  顔を庇うとそれを覆った手や腕が噛み付かれ、あっという間に視界が開けてしまう。両腕を失って狼狽していると、いつの間にか片足を半分以上失っていたようで、すぐに転倒する。そうなってしまうと、蛇たちは私を食い散らかすばかりになった。抵抗も出来ず、私は地面を転がっている。男は影から顔を覗かせてこちらを眺めていた。そこに感情は無く、顔形は少しも動いていない。厭らしい笑顔さえ、そこにはもう無かった。  遠くの方で塔が光り輝いていた。その姿が魅力的だったので、私はすぐに男の顔も忘れてしまって、ただその場所に留まりたかったことだけを記憶に留めるようになった。最後の蛇がやってきて、私の両目を食べた。何も見えなくなってみると、風の音がしていることに気が付いた。その音が妙に生々しいので、私の意識は急に息を吹き返した。  目を開けようとすると、眼だけではなく瞼が開いた。その動きが肉体を伴ったものであったので、先に手足の方が動き出す。私は家路を急いでいた。そういえば、履物の隙間に入った砂利を早く洗い流したいと考えていたのではなかったか。思い出してみると、私は元の現実の世界を自分の足で歩いていることに気が付いた。  あたりは暗闇に包まれていた。夜はいっそう更けており、冷気が肌を貫いている。慌てて家の中へ入っていくと、遅くまで起きていた息子の子の内の一人が出てきて、私を出迎えてくれた。 「何処へ行っておられたのですか?」  その子はいぶかしんでそのように言った。私は、デルタの丘と呼ばれる場所へ行ったのだと答えて言った。 「それは何処にあるのですか?」  幼子は繰り返し尋ねて言った。私は、私の父がそうしてくれたのと同じように、幼子を意識の神殿のむこう側へ連れて行くかどうか逡巡した。そうしていると、私の息子であり、その子の父親である男がやってきて「何処へ行っておられたのですか」と尋ねてきた。私は繰り返してデルタの丘の名を口にした。  私の息子は立ち上がって、自分の子と父の元まで行くと、両腕でそれらを抱擁した。私の息子は何も言わなかった。私たちは夜の暗がりの中、静かに抱き合って目を閉じていた。蛇たちの姿は無く、明かりはただ隙間風で揺らめくばかりだった。  私の息子は、デルタの丘を幻覚だとは言わなかった。何故なら、彼もまた異界を旅する者の内の一人だからだ。  かの地は私たちを快く迎え入れる。それは隣人たちの住まう場所。天幕一枚を挟んで重なり合う、地続きの場所である。
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