現代異界ルポライターによる添え書き

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現代異界ルポライターによる添え書き

 ベン=アリと呼ばれる人は、紀元前一世紀を生きたユダヤ教サドカイ派の元司祭だ。現代においてほとんど資料が残されていないサドカイ派の個人に対して、ここまで断定的な物言いができるのは、本書の元となった五つの書物が全て、異界の大図書館ヴェルティージニの一等書架に収められている物だからである。  三十メートルを越える大扉で有名であり、古くから観光地としても名高いヴェルティージニ図書館には、ガイドブックにも記されている通り、「めまい」の名前を持つに相応しいほど膨大な書物が並んでいる。人間ですら時間の存在を忘れられる異界での滞在で、そういえば随分時間が経ってしまったなあなんて馬鹿げた感想が言えるのは、この大図書館で本に熱中した時ぐらいだろう。ヴェルティージニ図書館の近くの路地では、よく時間を売る露天商が店を出しているが、彼らがどこから時間を仕入れているのか想像するのは難しくない。  オカルト、スピリチュアルの方面では、その世界自体が巨大な図書館に例えられることもある異界、或いは潜在世界にあって、それでもわざわざヴェルティージニ図書館にたむろしたがる者というとやはり人間が多い。私も勿論ヴェルティージニの大ファンだが、慣れ親しんだ本の形で知識が保存されているというのは、私たちにとって非常にわかりやすいのだ。むこうの国の友人には「無形で秩序無くそこから自由に読み取れる方が便利ではないのか」とよく言われるのだが、人間の私にとってはいまひとつピンとこない。友人たちはわからないことがあると、まるで仮面ライダーの変身ポーズのような動きをして、どこかから知識を取り出すのだが、そんなことをするぐらいなら、大図書館に行って堅実に知識を収集する方が確実で誤りのない情報を手に入れられるだろう。  ヴェルティージニ図書館の書架は膨大で、観光客の出入りがある入り口付近の棚など数字も振れない程末端の書架だが、三等書架区画の第三十書架あたりまで上がっていくと、だんだんと人間以外の影が目に付きだす。彼らは所謂専門家で、そういった職種に変わり者が多いのはむこうの国でも同じらしい。上の方の書架には、汎用的な知識ではなく、個人が収集した特殊な知識が納められた書物が数多く存在する。ベン=アリの書物は人間が書いたものの中では異例で、一等書架に属する第十書架に収められている。これは現代、我々が住むこちら側の世界において、彼の書物が異界について記された最初期(※注釈1)ものとされているからだろう。    ベン=アリは年老いてから、エルサレムとユダヤの教えから去り、異界に移り住んだとされている。この期に及んで今更曖昧な表現を使ったのは、改宗後の彼の通称が不明で、数多の記録に紛れてしまっているからだ。そもそも「ベン=アリ」という名前自体、日本語に訳すと「アリの子」などという出自だけを表すもので、彼自身の個人名ではない。  晩年に記された彼の詩の中では、彼が長年信じてきた唯一神の教えと、異界で広く信仰されている神の教えが相反するものではないことへの苦悩が描かれている。二つは誰がどう読んでも別物であり、彼が司祭時代に記したものの中でも「廃すべき神」として異界の教義を扱っている。しかし彼が二つを同様に扱い、更に苦悩する羽目になったのは、異界の神が教義の中で明確に彼の信じる神の存在を認め、あまつさえ異界人が「場合によっては混同しても良い」などと、歴史の先の視点から語り出してしまったからである。時間の存在を信じ、時間の流れが一方向だと思って疑わない紀元前、および我々現代人からすればたまったものではない。生まれてから死ぬまでを単一の状態として見なす異界では、「広義の意味で」の指す範囲があまりにも広すぎる。まさに混沌を信奉する異界らしい、わけのわからなさである。  私は宗教家ではないので細かい話はわからないが、異界の友人に聞いてみたところ、異界の神は全てであって全てではないらしい。人々は神のことを日本語で直訳すると「大きい者」と呼んでいて、私たち日本人ですら驚く程に、神に親しみを持って生活をしている。教義はあるが、無くても良いと聞いた時は、宗教として成立しているのか怪しんだ程だ。このように本来二極化するべきところを一つのものとして捉え、全てが同時に存在すると考えるのは、異界において常識であるらしい。友人は「全てが同時に存在するということは、全ては同時に存在しないということなんだ」と言ったので、私は自分が宗教家に向かないことを悟った。こんな初歩的なところですら頭が痛いのだから、ユダヤ教で高位の司祭職に就いていたベン=アリにとっては、さぞかし胸の張り裂ける思いがしたことだろう。  彼の晩年の書物には、彼自身が背徳者となったことを認め、厳しい罰を受けるべきであると記されている。異界に移る前に記された為に、彼がその後どのような道を辿ったのかは勿論描かれておらず、全て読む側の心に任されている。ある人の教えによれば、罰を受けて罪は許されるだろう。ある人によれば罰を受けずとも許され、他の人によれば永遠に許されることはないだろう。酷い罰を恐れて、結局は断罪を受け入れなかったかもしれない。あらゆる想像ができる。私は、妙に真面目な言動のある彼のことだから未だに苦悩を抱えているのではないかと思ってしまうのだが、ともかく様々な行く末を想像できるあたりは、元の神を愛していたベン=アリらしい締めくくり方だ。  彼は自分の神を肯定し続けていた。いまひとつ信心に疎い私にとっては、モーセ五書と言われる旧約聖書冒頭の五つの書のみに権威を置く超保守派であり、天使や聖霊、死後の世界や肉体の復活など、所謂霊的なものを否定していたサドカイ派にとって、ありとあらゆるものが存在する異界は信仰心をへし折るには十分な材料に思える。しかし、彼は年老いて消え入るまでずっと、元の神の存在を信じ続けることができたのだ。  尚、本書のタイトルを決めるにあたり、私は最初「荒野で呼ばれた言葉」と付けようとした。だが、度重なる電球の明滅、連日の悪天候、果ては幸福について説く人々との遭遇があった為、何かしらの超常的事情もあるかと怖気づき、尻尾を巻いてさっさと表題など変えてしまうことにした。  本書の監修、並びに新たなタイトルの選定にあたって、瀬名イツハク氏には多大な助力をいただいた。この場を借りて感謝を述べるとともに、氏のファンである私は、彼の「現代異界食べ歩きマップ(神灯社)」を読者の皆様に強く勧めたいと思う。 注釈1 最初期とは、本書執筆時の時代から観測した場合による。自分の生きる時代を前暦と記したくない為、年代の表記は割愛する。
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