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「じゃあ、僕はあっちなので」と、向こうの通りを彼は指す。
傘の柄を差し出され、大青さんを見上げた。微笑みが返ってきて、胸がギュッと苦しくなる。無理矢理笑顔を浮かべ、少しだけ会釈をする。
「今日は、ありがとうございました。いろんなお話を聞かせてくれて楽しかったです」
「そんなかしこまらないで。しずくとは同業者ですし。またご飯に行きましょう。じゃあ、また」
立ち去ろうとする大青さんへと「おやすみなさい」と手を振る。指先が雨の滴に触れ冷たくなる。
——もっと一緒にいたい。
けれどもそんなこと言ったら彼を困らせるだけだ。私と彼は恋人同士じゃないのだから。名残惜しく振っていた指先をコートの中へと突っ込んだ。そのまま駅の階段へと踵を返して、足を踏み出す。突然、長い腕がにゅっと伸び、私の身体は後ろに引き戻された。
顎を上げると、サヨナラをしたばかりの大青さんが少し困ったような顔をして、アスファルトへと視線を落としている。
「た、大青さん?」
「水たまり。危ないですよ」
彼に指摘されて、つま先へと視線を下ろした。そこには窪んだアスファルトの上に大きな水の膜が張られている。このまま進んでいたら、お気に入りのパンプスが泥水を吸う羽目になっていただろう。
「あ、暗くて気づきませんでした。あ、ありがとうございます」
もしかしたらなんて、淡い期待を抱いた私は、心のなかで思い描いた邪な期待をかき消すように大きく頭を振った。彼の腕を押し、さよならをもう一度しよう。
「じゃ、じゃあ私帰りま…」
「なんだか、しずくともっと一緒にいたくなってきました」
突如、頭の上から零れ落ちてきた、思わぬ大青さんの気持ちに戸惑う。
「あ、あの」
「あ、でも終電が……これ以上一緒にいるのは難しいですよね」
彼はひょいと顔を傾けて私の顔を覗き込んだ。懇願めいた視線を送られてしまい、困る。わざとらしく無言になった彼を見つめ、眉を下げた。私からの返答を引き出すまで、きっと彼は口を閉ざしたままだ。結局根負けして、口を開いてしまう。
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