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◇◆◇
翌日は島の子供達が連れ出してくれて、少し離れた温泉へと足をむけた。
この島は元々海底火山の隆起によって出来た島らしく、剥き出しの亀裂やゴツゴツした岩はその名残らしい。中央には噴火した火口があるが、もう何百年も噴火なんてない。人が暮らしているのは山の裾野だ。
その為温泉が出る。しかも傷の痛みにいいらしく、今までも島に流れ着いた人が体の痛みを取るのに使っていたらしい。
「トビー兄ちゃん、こち!」
「待てって!」
寝たままでも出来るリハビリは行っていたんだが、それでも岩肌が剥き出しの道を歩くのは大変だ。しかもこの島に慣れた子供達が案内役ではなおさらだった。
それでもどうにか辿り着いたそこは、天然の岩場に湯が溜まったという感じで特に整備などはされていない。それどころか脱衣所もなければ男女も分かれてはいなかった。
「混浴かよ」
「この島じゃそれを気にする奴なんざいないって。皆顔見知りだからな」
保護者としてついてきたステンに言われてもどうにも「そうか」とは言えない。この辺りはやはり文化の違いなのか。
だが子供達は気にしていない。男も女もさっさと脱いで湯に飛び込んでいる。湯量もたっぷりあり、温度も高くないようだ。
トビーも脱いでそっと湯へと足をつける。心地よい湯にほっと息を吐いた。その時だ。
カミーユ……
微風が運ぶようなか細い声と、足に触れたような幻覚。水面に浮かぶのは瓜二つの少年の青白い顔だ。
「!」
心臓が締め付けられるように痛み、息が出来ずにヒュッと鳴る。怖くて震えて後退ろうとしても足場の悪い岩場で濡れている。滑って、体が後ろ向きに倒れていく。
「トビー!」
慌てたステンが駆けてきて後ろから抱き留めなければ無防備に頭を打ち付けただろう。抱き留められて、でもその腕の中で震えが止まらない。
「あ……」
「トビー、しっかりしろ!」
「ちが……トビーは……」
小さな声で訴えかけて口を噤む。引き結ぶ唇が震えている。
カミーユ……
悲しそうに、寂しそうに呼ばれるこれは幻聴なんだって理解はしている。見えているものも幽霊なんかじゃなくて幻だって分かっている。それでも震えは止まらない。犯した罪は消えない。
でももう、戻れないのかもしれない。水が怖い水兵なんて、なんの役に立つんだ。
「お前、本当にどうしたんだ」
「……わかんないよ」
綻びから溢れたものが今更襲ってくる。もう、限界なのかもしれない。
その夜、トビーはそっと家を出て海沿いにきた。月が綺麗で、風は少し冷たい。寄せる波音は心地良いと思えるのに、今はそこに足を入れる事すら怖い。
蹲るその後ろから足音が聞こえる。隠しもしない存在感に、トビーは蹲ったまま声をかけた。
「もう、死んだままでいい」
「なんだよ、らしくなく萎れて。トビー」
「その名で呼ぶな! 俺は……俺はトビーじゃない」
限界に達した何かが口を突く。言わなければ溢れてしまいそうだ。
顔を上げ、後ろを睨むとステンはとても穏やかな様子で腰に手を当てて立っていた。
「カミーユ、か?」
「! どうして」
「どうしてって。うなされてる時に自分で呟いてるぜ。なんかあるなって思うだろ」
「そう、か……」
情けない話にまた俯いてしまう。そんなトビーの隣に腰を落ち着けたステンはそのまま黙っていてくれる。話し出すのを待つみたいに。
「……聞いて、くれるか」
「おう」
「……俺は、小さな田舎の領地で、領主様に仕える爵令家の一人息子だった」
誰にも言わなかったそれは、言えない事。罪であり、鎖だ。
「爵令家?」
「爵位持ちの家令家ってのがあるんだ。ご立派な家柄の家に代々仕えている家令にはそれなりの見栄えが必要になる。だから最下位の男爵の称号が与えられている。とはいえ、実体は主に仕える人間だ。当然国からの補助なんてのはない。まぁ、帝国って爵位に対する補助金とかってない国なんだけどな」
帝国では爵位に対しての補助金はない。そのかわり、爵位に対する増税もない。爵位は見栄えと同時に国の外に有益な人材を流さない措置であり、保護である。なので小貴族と呼ばれる男爵や子爵はそれなりに多いのだ。まぁ、侯爵辺りからグンと減るのだが。
「帝国の貴族の仕組みって複雑だよな」
「まぁな。小貴族なんてのは案外あちこちにいるし、平民みたいに暮らしてる。王都の西にどっかり邸宅構えてるような大貴族は一握りだが、それ以外は案外いるよ」
「んで? お前はその爵令家の息子だったんだろ? そこから騎士団に入ったのか?」
「……騎士団に入りたかったのは、俺じゃないんだよ」
問われ、呟いて。ぼんやりと眺めた海はとても静かだ。
「騎士になりたかったのは俺じゃない。俺がお仕えしていた同じ歳の領主の息子のトビー様さ」
案外すんなりと出てきた言葉に苦笑する。そして、ちょっと懐かしかった。
「トビー様は俺に凄く似ていた。だから俺はトビー様の影武者で、従者で、親友だった。歳の近い子供がいなかったから余計にべったりで、それこそ寝るときも一緒がいいと我が儘を言われて一緒に寝た事もあった。そんな俺達を見て、穏やかな領主夫妻も俺の父親も『双子みたい』なんて言って笑ってたな」
なんとも微笑ましい時間だった。
勝ち気で明るく人をグイグイ引っ張っていくような性格だったトビー様。いつも手を引いてくれたのは、あの人だった。
「……お前の、名前は?」
「……カミーユ・ヘイゼ」
もう十年以上名乗っていない本名。捨てた名前を口にしたら、少しだけ軽くなった。そうしたら、何もかも言いたくなった。
「俺の家は片親で、母親は死んでいた。だから親父と俺は領主様の屋敷に住んでいて、穏やかで優しい領主一家はそんな俺達も家族みたいにしてくれた。トビー様は活発な方で、俺はいつも振り回されていたけれど、楽しかったのは確かだ。騎士になりたいって夢も応援していた」
「領主の息子なのにいいのかよ」
「歳の離れた姉上がいて、少し大きな街の学園に通っていたんだ。ゆくゆくは結婚して領地を継ぐ為にね。トビー様は年を取ってから出来た子供だったから、けっこう甘やかされてた」
本当に穏やかだったんだ。まるでぽかぽかの日向みたいに。
八歳の夏までは……。
「……八歳の夏。領主一家と俺と親父で川遊びに出たんだ。川幅はあったし、中央まで行けば深いけれど浅瀬は足首程度の川で、水が澄んで綺麗で魚なんかも泳いでいる川だった」
その日も暑くて、領主夫妻は川から少し離れた草地で笑って見ていて、親父は比較的川の近くにいて、俺達は足を川に浸して遊んでいた。
『深い所に行くなよ!』という親父の声に『分かってるよ-』と二人で返して笑って、冷たい水を楽しんでいた。
なのに、悲劇は突然だった。
「……」
「……何があった?」
「……鉄砲水が出たんだ」
「鉄砲水?」
眉根を寄せたステンに、トビーは静かに頷いた。
「原因は、上流にあった貯水池の堰が限界に達し、老朽化もあって決壊したこと。泥や流木混じりの水が一気に、何の前触れもなく流れ込んできた。俺達はそれに巻き込まれたんだ」
それは、一瞬の出来事だった。
突然ゴゴゴゴゴッという轟音と共に木がへし折れるミシミシという音が混じって近づいてきた。それからたった数十秒後には、壁のような水が目の前にあった。
領主夫妻の悲鳴と、親父の声と、側にいたトビー様の手を握って背中を向けた。そこから、記憶が途絶えている。
「元々川から離れていた領主夫妻は無事だったけれど、親父とトビー様は死んだ。俺は奇跡的に近くの木に引っかかって、流されて見つかった」
隣でステンは押し黙ってしまった。それが申し訳ないような気がしてくる。こんな話、好んで聞きたいわけもないんだから。
「……そんで、カミーユ。どうしてお前がトビーになったんだ」
「……領主様の、奥様が精神を病んでしまったから、かな」
思えばそれが、更なる罪の始まりだった。
「年を取ってから授かったトビー様を、奥様は殊の外愛されていた。だから、息子の死を受け止められなかった。俺が目を覚ました時、奥様はトビー様に瓜二つの俺をトビー様だと思い込んでいた。領主様が否定しても認めないし、ヒステリックになって暴れる。そして俺も、親父が死んだ事で未来が見えなくなってた」
怖かった、何の後ろ盾もなくて。頼りだった親父は死んで、仕えていた主は守れなくて。何の力もない弱虫で非力な自分だけが生き残ってしまった。八歳だ、何も分からない。ままごと遊びみたいな主従ごっこしか経験がない。
「そんな状態が一ヶ月くらい続いた時、領主様が俺にお願いしてきた。トビー様として生きてくれないかと」
「な!」
この事実にステンは思わず立ち上がって睨み付けた。それに、トビーは力なく笑うしかなかった。
「奥様の精神状態の安定の為だ。そして俺は、偽物でも家族が出来る。領主家の息子なら路頭に迷う事はない。家は継がなくていい。俺も、安心が欲しかった」
「それで入れ替わったってのか!」
「……あぁ」
事故で死んだのはカミーユとして届け、主を守って亡くなった尊い父子として領主家が手厚く葬ってくれた。そしてそこから、しがない男爵の子は領主の息子のトビーとなった。
「そこからはまぁ、安定してたな。トビー様になるよう、思い出しながら演じている間に身についた。奥様は穏やかな笑顔を取り戻した。領主様だけは申し訳ない顔をしていて、戻られた姉上も事情を知って泣きながら謝っていて……俺はこの事実を封印した」
だってこれは立派な罪だ。知れたら何かしらの咎めがある。だからって真実では誰も幸せにはなれなかった。
少なくとも、当時は。
「それから成人して、俺はトビー様がなりたがった騎士になった。もう、カミーユの頃の自分なんて思い出せなかった。第三に入って、船に乗って、今までも水に落ちた事なんかはあったけれど平気で。なのに突然、今になって聞こえるんだ。トビー様が、俺を呼ぶんだ」
それはいつも水の中。触れる手は死んだときと同じくらいの小さなもの。寂しそうで、悲しそうで。それがまるで恨んでいるように思える。
当然だ。トビー様からしたらカミーユは自分の人生を盗んだ事になる。本当は歩むはずだった未来。カミーユのままならどうなっていた。領主が保護してくれたとしても騎士なんて考えなかった。
「俺、恨まれてるんだろうな。人生奪ったんだ、当然か」
「違うだろ! 死んだのはそいつの運命でお前のせいじゃない! その後の事だってお前に選択の余地なんてなかっただろ!」
「だとしてもさ。生死については運命でも、その後のことについては違う。俺も、選んでそう振る舞ったんだ」
「八歳のガキだぞ! 生きるのに必死になって何が悪い! お前は自分を生かすのに選んだんだ!」
「分かってる。分かってるけど……じゃあなんで今更、俺の前に現れるんだ。なんで責めるんだよ。断罪だって思って当然じゃないか」
忘れるなって、言われているみたいだ。自分を踏み潰していった罪を忘れるなと。夢に出て、水に出て。このままでは騎士団にも戻れない。騎士団を出たら、どうなるんだ。今更どんな顔をして領主様の前に出ればいい。これ以上、紛い物の家族を続けていくのか。
答えが出ない問いかけを続けている。でもこれでは進めない。生きているなら食べなきゃ死ぬし、食べるためには何かしらしなければいけない。
「……もう、いっそさ。死んだ事にしてここで生活していこうか」
思わず呟いた弱音。トビー様なら言わないだろう言葉。騎士団に居た頃は言わなかった言葉。でもずっとどこかで、カミーユは叫んでいた。怖い事を怖いと、痛い事を痛いと。悲しい事を辛いと。
弱く笑ったトビーの腕を、不意にステンが引き寄せて腕の中に入れてしまう。強い力は守られているように思う。弱くなった気持ちは、これを心地よく思ってしまう。
「いいぜ、それでも」
「え?」
「居たいなら好きなだけ居ろ。傷が治った後も」
「……いいのかな?」
「いいぜ、カミーユ。お前一人くらい、俺がどうとでもしてやれる」
「ステン……」
強い男の声に何処かほっとした。それは一つ、縛られていた鎖が綻び切れた瞬間だった。
この日、名前を封じた少年はようやくトビーからカミーユに戻ったのだった。
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