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波間に消ゆ
外海というものを目視したのは初めてだった。いや、ここから先が外海だと言われなければ分からないけれど。
見渡す限りの海が広がる。ただほんの少し強い風が吹いているように思えた。
「砲弾用意! 撃て!」
射撃訓練の時、あまりに大きな音がして驚いて腰が抜けそうだった。反動で揺れた船にそのまま尻餅をついたクリフをピアースが後ろから抱えてくれて、安全な場所まで連れて行ってくれた。
「驚いたか?」
「凄い音と振動」
「二十もある大砲が一気に砲撃するからな。それでもトレヴァーの操船なら危険な程は揺れてない」
舵を握るトレヴァーは反動を考えてか細かく舵を動かしている。それに風を読んでいるのか、少ない人でも安定した航行を行っている。
第三は地味だ、なんて言う人がいる。でも、そんな事全然ない。海の上の彼らは、とても格好いい。
砲撃訓練はトビー監修の元、滞りなく行われた。そしてそろそろ王都へ帰港する事となった。
「今日は一番後方なんだね」
夜になり、海上をゆっくりと進む船の甲板で、クリフはぼんやりとピアースに聞いた。
「ガレオンは新人と二年目、三年目で構成されている。後方で何かあれば経験不足でやられるからな。外海側を守る奴もいるんだよ」
「頼りにされてるんだね」
「くすぐったいよな」
なんて、嬉しそうな顔で笑うピアースがとても格好いい。彼を見つめ、クリフも柔らかく微笑んだ。
「ピアース、格好いいね」
「え?」
「僕、この訓練に参加できてよかった。ピアースの素敵な姿を沢山見られて良かったよ」
伝えたら、ピアースは少し恥ずかしそうな顔をする。日に焼けた肌がほんのりと色づいて、視線が泳いで。でも次にはこちらを見てお日様みたいな笑顔をくれる。昔と変わらない、勇気をもらえる笑顔だ。
「これから王都に戻るの?」
「あぁ。今もゆっくりと戻ってる。前はジェームダルの沿岸を航行していたけれど帰りは早い。ここからルテア島の沖合を横切って直進だ」
残り日程は数日だけれど大丈夫らしい。まぁ、数日遅れても誤差の範囲らしかった。
穏やかな夜風がそよぐ。そのせいか、船の進みはゆっくり。今はトレヴァーが舵を取り、ピアースが甲板に留まっている。トビーは寝ているだろう。
とても静かな夜。そこに突如警戒の声が走った。
「伝令! 左舷に所属不明のガレオン船が二隻!」
「!」
一番高いマストの上で見張りをしている隊員の声にピアースが素早く反応し、トレヴァーも緊張する。クリフの側を離れたピアースは伝令へと声をかけた。
「国旗は!」
「ありません!」
「武装は!」
「この暗がりでは……待ってください! 砲門が!」
そう慌てて声を上げた直後だった。
ドォォォォン!
という腹の底に響くような轟音の後、激しい水柱が幾筋も上がり大きく船が傾く。その揺れは訓練時の比ではなく、船縁から少し離れていたクリフは大きく体が左に傾き滑っていくのを感じて焦った。
向いた左側は海に近い。どうにか踏ん張るうちに右側へと今度は傾いて足を取られて甲板を滑る。声を上げ、マストの根元に体を打ち付け痛みに耐える間に再びあの轟音と水柱。再度左側へと傾くのに、もう抵抗もできなかった。
滑っていく。このままでは投げ出される! 恐怖に身がすくむ。声も上げられない。クリフ自身は有益にはなったものの強くなったわけじゃない。逃げる事に特化はしても握力が強くなったわけじゃない。
それでももがくように何か掴もうと手を伸ばした。がむしゃらに。落ちたら死ぬのだと分かっていて、何もしないではいられない。大切な人と離ればなれなんて嫌だ!
ロープが見える。必死に手を伸ばして掴んだ。手の平がロープに擦れて熱くて痛い。皮は擦りむけ血の臭いがする。それでも離せない。離したら終わる。必死だ。
でも、引っ張られる力には敵わなかった。
自重を支えられない手が離れる。足下はもう海だ。暗い夜の海が大きな口を開けて飲み込もうとしている。それをただ、待つしかないのかと目を瞑った。
その時、ロープではないものがクリフの腕を掴んだ。温かく、確かな肉の感触。必死に掴んでくれる強い力。
「クリフ!」
「ピアース!」
ロープを片手に、今にも落ちそうなクリフの腕をピアースは掴んでいた。離さないとする力強い腕が引き寄せる。クリフも力を振り絞ってその腕につかまった。
「よし!」
反動で再び右側へと傾き始める。宙に浮くような感覚で今度は右に。そして、掴んでいるピアースの腕の中へと飛び込んだ。
しっかりと受け止めてくれる強い腕。かき抱くような手が少し震えたまま背中へと回っている。こんな状況なのに、それが酷く安心した。
「敵船視認! 砲門開放! 装填!」
「装填了解! 狙い、敵ガレオン船! 撃て!」
ズドォォォンという腹に響く音が再びする。だがそれは自分達の足下。寝ていたのだろうトビー達が飛び起きて、砲撃を開始したようだ。
気づけば太鼓の音がしている。救援を求めるものだ。同時に信号用のランプを持った隊員が敵船へと向かい何やら信号を送っている。だが、相手方から返ってくる様子はない。
激しい水柱を双方が上げている。揺れる甲板では不慣れなクリフなど動けない。それは恐らく一年目の隊員も同じだ。これが遠洋での航海初経験、敵からの攻撃など本来は想定していないものだ。
「クリフは下に! 一年目も下に行って砲撃に参加しろ! 経験のある奴を上に頼む!」
「はい!」
ほんの少し攻撃が止んで安定した瞬間を狙い、クリフと一年目の隊員は甲板の下へと転がり込んだ。そこも大騒動ではある。敵船へと向かっている大砲には隊員がつき、玉を込めたり火薬を装填していたりだ。
「クリフ無事か!」
「トビー!」
寝ていたまま飛び起きてきたのだろう崩れた服のまま、トビーは忙しく隊員に声をかけている。早く鋭く遠くまで飛ぶ砲弾が敵船へとめり込み、小さな穴を開ける。だが位置が高いのか転覆には至らないようだ。
「経験の豊富な人に上にきてほしいそうです」
「分かった。数人行ってやれ! 一年目、打ち手やれ!」
「ですが、俺達じゃ」
「四の五の言っている間に沈められるぞ! 経験は今だ! ここを生き残れなければ全員海の藻屑なんだぞ!」
「はい!」
怒鳴られ、慌てて一年目が大砲の前に行く。そして様子を見ている隊員の合図で導火線に火を付ける。発射の反動で大きく下がる大砲にぶつかりよろめく人もいる。相手方の攻撃で大きく傾くのに足を取られる人もいる。経験の浅い人は足が震えている。
この場面を、クリフは何度も目にした。陸でも同じだ。経験の浅い隊員は目の前で起こる事に尻込みし、足は震え引きつった顔をする。怖いんだ、全てが。命を奪う覚悟も、奪われる覚悟もできていない。それどころか誰かを傷つける覚悟もない。
分かる、クリフも同じだったんだ。
でも今は、違うんだ。
「皆さん、大丈夫です! 僕が全力で皆さんを助けます! 怪我をしたなら僕がいます! 絶対に誰も、失わせたりしませんから!」
クリフに出来るのはそれだけ。戦場から医療府まで、現場で命を繋ぐ役割。例え無理だったとしても、一人では死なせない。それだけが唯一なんだ。
隊員達が驚いた顔をする。けれど次には、グッと腹に力が入ったのを感じた。
「俺達、死にませんか?」
「はい」
「……頑張ります!」
目に必死さが宿った。そして、足の震えが止まった。
現場にいる事を選ぶクリフの頭を、トビーが撫でて笑う。ニッと、明るいものだ。
「よし、気合い入った。ありがとな、クリフ」
「いいえ。僕は僕の使命を果たします」
「おう!」
ニッカと笑うトビーに笑い返し、クリフは強い目で辺りを見回した。
その時、一人の隊員が慌てて中へと駆け込んできた。
「報告! ピアース先輩が負傷! トビー先輩、甲板をお願いします!」
「ピアースが!」
驚いたトビーが飛び出していく。クリフも血の気が引け、追いかけて上へと向かう。するとピアースが甲板に倒れているのを見た。
「ピアース!」
「どうした!」
「見張りが落ちたのを助けようとしたんだ。直撃じゃないが巻き込まれた」
トレヴァーの言葉にクリフが飛び出し、伸びている見張りとピアースを甲板下へと引っ張っていく。そうして診察室へと放り込んで具合を診た。
幸い二人ともちゃんと息をしている。目撃した隊員の話を聞き、触診をすると見張りの隊員は指の骨が折れていた。
「どうしてこんな」
「余っている帆を張って受け止めたんですが、揺れて。ピアース先輩は最後まで布を張るようにしていたんですが、無理があって受け止めた時の衝撃で倒されてしまって」
「下敷きになったわけじゃ?」
「恐らく大丈夫だと。ただ、激しく打ち付けたのは確かです。あと、腕も負傷しているかもしれません」
恐らく腕はクリフを引き寄せた時だ。あの時、ピアースは腕一本で掴んでいた。それで筋を痛めたのかもしれない。
幸い脳しんとうだろう。外ではまだ激しい戦闘が続いている。二人を治療し、クリフは早くこの事態が終わるよう願う他になかった。
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