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プロローグ
小さい頃、美香子の家は賑わしく、侍女も家来もいて、大盤処の煙ももくもくと上がっていた。
庭の大きな赤松も見事な枝ぶりで、夏に裂く芙蓉のふわりとひらいた紫色の花もいくつも天に伸びて、綺麗だった。
「ねえ、母様、それ何?」
物心ついたとき、美香子は父や母が文机で、筆を動かしているのが珍しかった。
「これは、文。私の友達でね、土佐にいる子がいるの。もう、都を出てから何年も経つけど、帰れないから、こうして文を書くのよ」
母は、白いごわごわして少し透けた紙に、すりすりと擦った墨でなめらかに文字を書いた。
「文って何?」
「ことばにして、気持ちを伝えるやりとり。美香子もいずれ、大事な人から文をもらって、その人のところへ行くのよ」
「うん」
母の手紙は、侍女の手に渡り、家の用事をするおじさんに渡って、唐屋根がついた正面門から出て行った。
(わあ、文って、家から出て良いところへ行くんだなあ)
美香子は分からないまでも、文というのが、人の手に渡り、遠い場所にいる誰でも、元へ届けられるものというのを理解した。
(文っていいなあ。どこでも行けて。遠いとこよの国まで行くのかしら?)
どこまでも飛んで行って、どこまでも辿り着ける。小さいのに、とてつもなくすごい存在だと思った。
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