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2 帰るべき場所
宇宙服や閘門に関する長ったらしいお説教が終わり、わたしはいよいよ音のない世界へ踏み出そうとしている。
宇宙空間にこられるのは億万長者以外にはありえない。めいめいが自分の功績を自慢しあいながら、エアロックへと吸い込まれていく。わたしは億万長者なんかではもちろんない。彼らはあり余る富の使い先として宇宙旅行を選んだにすぎない。わたしは真空の世界へ行くという目的そのもののためにしゃにむに、稼いだ。
連中とは覚悟がちがう。
エアロックが開いた。ツアーは船外活動用に張り巡らされたワイヤを伝い、ステーション外縁を周回するというものだ。わたしたち観光客はおっかなびっくり、引率の宇宙飛行士にひっつきながら真空の世界へ漂いだした。
「みなさん、偏光ヴァイザが機能したのがわかりましたか?」引率の宇宙飛行士から無線が入った。「大気を介さない太陽光は網膜のキャパシティを超えています。したがって――」
わたしはそれ以上聞いていなかった。宇宙では音が聞こえないのではなかったのか? 考えるより先に絶叫していた。「なぜ声が聞こえるんですッ!」
「ええと――?」
「宇宙では音が伝わらない。そう聞いたからこのツアーに参加したんです」
宇宙飛行士の声音には嘲りが感じられた。「そりゃ真空中は大気がないので、それを媒体にして振動する音は聞こえませんよ。でもいまあなたは宇宙服に包まれてますよね。宇宙服というのはいわば、ミニチュアの地球みたいなものです。与圧されてるんですから、当然音は聞こえる」
なんてことだ。わたしは500万ドルもかけて、小型の地球に包まれにきたのだ。大富豪たちが忍び笑いをしているのが無線越しに聞こえる。そんなことも知らずに宇宙まできたとは驚きだ、などと囁き合っている。
途端に音が気になりだした。無線を受信する瞬間の空電、落ち着くように諭す宇宙飛行士の説得、大富豪たちの侮蔑を含んだバカ笑い。
それらが混然一体となってわたしを直撃した。とうてい耐えられそうになかった。
「宇宙服パージメソッド、起動ッ!」わたしは絶叫していた。
『酸素分圧が生存可能条件の閾値を下回っています。パージメソッドは管理者権限のみ起動可能です』
「黙れ、俺がボスだ」
『管理者権限発動コードを暗唱してください』
周波数を引率者に切り替えた。「聞きたいことがある」
「どうぞ、なんなりと」
「管理者コードとやらを教えろ」
「なぜです」
わたしは凄みを効かせた。「管理者コードとやらを教えろ」
「ですから、なぜです」
わたしは近くに浮いていた観光客にしがみつき、側面のスラスターユニットを密着させた。「20秒以内に教えろ」
「管理者コードはみだりに教えられない」
「わかってると思うが、俺はスラスターを、あー、13秒後にぶっ放す。こいつの――」わたしにしがみつかれている哀れな野郎の肩を叩いた。「宇宙服はどれだけもつかな?」
「教えられないッ!」
「あと5秒」
「無理だ、宇宙飛行士の資格を剥奪されちまう」
「知らないね――噴射メソッド起動」
「D728566GHJだッ!」
わたしはその通りに復唱した。
『管理者権限発動コードを確認しました。パージメソッドを起動します。宇宙服の切り離し部位を指定してください』
「ヘルメットをパージしろ」
『そのタスクを実行した場合、酸素分圧が生存条件を下回っている環境にさらされます。本当によろしいですか?』
「なにをしでかすつもりだ?」宇宙飛行士が無線で割り込んできた。「ヘルメットを脱ぐだと? ここでか?」
「耳元でごちゃごちゃ喚かないでもらえますかね、サー?」周波数を切り替え、宇宙服の管理システムへ念を押した。「きさまは言われたことを実行すればいいんだ、いちいち疑問を持つな、ボンクラ機械」
『くり返します。現環境でヘルメットの脱離を行った場合、着衣者の生命は保証できません。本当によろしいですね?』
「やめろ、なぜ500万ドル払ってまで自殺しようとする――」
「さっさとやれッ!」
ヘルメットが首の部分から外れた。
やかましく喚き散らしていた引率野郎の声がパタリと止んだ。
直視できないほどの強烈な光輝が目を射る。
一瞬、なにも起きないかのように思われた。
咳が出た。同時に口から赤黒い塊と一緒に血が霧状に広がり、即座に蒸発していった。赤黒い塊は胃かなにかだろう。真空が体内のあらゆる物体を吸い出そうとしている。
だしぬけに視界が真っ暗になった。そっと目に触れようとしたが、そこにはあるべきものがなかった。内圧で眼球が吹き飛んだのだろう。
身体が真空に冒されていく。すべての臓器が口と肛門から飛び出そうと震えているのがわかる。
そのとき、わたしは気づいた。音がまったくしない。
光を失い、見えるのは深淵のみ、いっさい音のしない空間に浮いている。
さながら子宮に還ったかのようだった。
直観的に理解した。ここがいるべき場所なのだ。
身体は急速に崩壊している。
それでもなお、わたしは安らぎを感じていた。
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