◆三月の章◆ 花摘会

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「東條操」  名を呼ばれ、東條はいつもの凜とした様子のまま中央へと進んでいく。けれど、もしここに白石が残っていたとしたら、東條の顔に浮かぶ緊張の表情を読み取れていただろう。 「常陸院宗一郎様。七森明彦様」  東條を指名した者が判明したことにより、主に執事科の席の方から声がざわめいた。続けて明彦の名が呼ばれると、さらに広間全体がどよめく。同時に、椅子の倒れる物音が響いた。  執事科側の奥の席から、水島が立ち上がっていた。彼は呆然とした眼差しを、広間中央へと向かう宗一郎へと向けている。 「宗一郎……?」  水島は呆然とした様子で呟くが、宗一郎が水島へと視線を向けることはない。明彦もまた、水島へと顔を向けることができないていた。 「水島、座りなさい」  様子を見かねて松宮が注意を促すが、水島は思い詰めたような表情のまま走り出し、広間を飛び出していった。宗一郎に指名されなければ自分を指名する者はいないという事実を、もっともわかっているのは彼自身なのだ。  広間のざわめきはいっそう大きくなるが、松宮は咳払いを一つ。 「静粛に願います」  と注意を促すと、しばらく後に落ち着きが戻ってくる。広間にいる者たちの注目は、中央に立つ三人へと戻っていった。  東條は、目の前に並ぶ明彦と宗一郎を見つめた。 「俺の執事は、お前以外に考えられない」 「あの日からずっと、東條にそばにいて欲しかったんだ」  宗一郎がいつも通りの表情で一言告げ、明彦は懇願するように言葉を続ける。  二人からの言葉を聞き、東條は胸にさした白薔薇を手にする。花弁は先が反って満開に、美しく咲き誇る一輪の白薔薇。  一生涯を左右する選択を目前に突きつけられ、しかし東條が思案したのは、ほんの数秒のことだった。  東條は恭しく頭を下げ、薔薇をまっすぐに差し出した。 「宗一郎様。どうか、お受け取りください」  水を打ったように静まり返る広間。その静寂を破ったのは、明彦が脱力するように漏らした息。 「まかせろ」  宗一郎が口角をあげ薔薇を受け取ると、盛大な拍手が送られる。彼らを眺めている者達の間には、特段の驚きはない。この二択を迫られたら、ほとんどの者が宗一郎を選ぶに決まっているからだ。  明彦の表情にも、思い上がっていたとばかりに自嘲の笑いが浮かんでいた。祝福ムードの中、東條はそんな明彦へと視線を向ける。 「明彦様」  東條に名前を呼ばれるが、明彦は彼の顔を見ることを一瞬ためらった。  今宗一郎に並んで立っていることに、羞恥を感じているからだ。しかし、東條からの眼差しを感じ続け、根負けしたように東條を見返す。  正面から視線を交わし、東條は微笑んだ。 「明彦様が求めてくださったのは、執事としての東條ではなく、友人としてのわたくしであると、理解しております。わたくしは、宗一郎様にお仕えいたします。けれど……」  東條はそこで言葉を切ると、意を決したように、続きの言葉を口にした。 「もしこの身に過ぎた願いが許されるのであれば……明彦様を無二の友と、呼ばせてください」  東條の言葉に明彦は驚きに目を瞬き、告げられた内容を理解して、顔を綻ばせる。先ほどの自嘲めいたものではなく、心からの、優しい笑顔だ。 「もちろん。おめでとう、東條」  明彦は、自分でも意外に思うほど、なんのわだかまりもなく祝福の言葉を言うことができた。 「ありがとうございます」  東條は一瞬泣きそうな笑顔を浮かべ、明彦に深々と頭を下げた。宗一郎は東條の肩を軽く叩いて促し、二人は共に大広間へと移動していく。  残された明彦は、周囲から向けられる憐れみの眼差しも気にならなかった。ただ席に戻ることなく、広間を出た。  その後は特段の波乱もなく、花摘会は進んでいく。
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