普通のこと

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普通のこと

 これはもうエモプロがよろしいでしょうね、と主治医はこともなげに言った。   「はあ、そうですか」よく分からないが医者がそう言うのならそうなんだろう、私は曖昧に頷く。  老若男女がすし詰めになってあれやこれやと騒々しかった待合室に比べて、そこからたった一枚の扉で隔てられた診察室の中はいつも不思議なほどに静かだった。むしろ、大きな背もたれの椅子に腰掛ける寡黙な主治医と、これまた愛想のない私の間にどしりと横たわる静寂が鼻につく。   「まあ、上山さん。そう難しく考えることはないです」  やはり神経科医という職業に就く人は、私みたいな主体性のない患者の扱いに慣れているのかもしれない。今の煮え切らない返答で長期戦になるのを恐れたのか、これまで口数の少なかった彼にしては珍しく笹舟が急流を下るような滑らかな調子で説明を始めた。   「世間では操り人形だのサイボーグだの、エモーションプロターゼ(義感情)のことを誤解した情報を流す輩もおりますけどね、エモプロは義歯や義足と同じで身体の働きを補助するためのものです。上山さんの場合ね、脳から出てくる感情を伝えるための信号が弱っていて、それが日常生活に支障をきたしているわけですから、その信号をエモプロで増幅させてやって本来の感情作用を支えてやるってことですな」 「はあ、なるほど」私はそう応じた。    正直なところ「なるほど」と言えるほどその説明を理解したわけではなかった。私は会社の定期検診で引っかかり「病院に行け」と指示されたから来ただけで、日常生活に支障をきたしている自覚は全くなかった。  だけど、言われてみれば昔から情緒全体が低空飛行なところがあり、友人に怪訝に思われていた節はあった。きっとこれは私というプログラム中で見落とされたバクなんだろうと解釈していたことがこんな形で解決するなら、まあ悪くないと思う。   「処置も日帰りで済みますから」  これまで出会ってきた医者がそうであるように、私の主治医も結論を急ぐきらいがあるらしい。 「それで、最短ですと来週の水曜日になりますが、どうですか?」 「じゃあ、その日で大丈夫です」    私は仕事の予定をつけている手帳を開き、次の水曜日のところに『通院』のシールを貼った。パステルカラーのクマが注射器を振りかざしてニコニコと笑っている。  ◆   「上山さん、義感情入れたんですよね。どんな感じなんですか?」    エモプロ装着のため休みを取っていた会社に二日ぶりに出勤した私に、隣の席の風野優子が「今期のドラマ何見てます?」くらいの気軽さで私にそう尋ねたのは、誰もが黙々と弁当を箸で突いている昼休みのことだった。   「結論から言うと、空の色は人によって違うんだなって思った」 「えー、それって新鮮な気持ちで見た世界は輝いて見える、的な比喩ですか?」優子は持参したおにぎりを齧りながら、窓の外を見上げた。  生憎、今日の空は輝きとは程遠い、どんよりと重い曇天だ。   「そうじゃなくてさ。いや世界が輝いていないと断定するわけじゃないんだけど。例えばね、これって何色に見える?」    私は事務所の壁に貼られた防災を謳うポスターを見上げた。誰が替えているのか分からないが、いつも気がつくと似たようなデザインの誰の目にも留まらない毒にも薬にもならない啓蒙が静かに行われている。今は凛々しい顔をしたカバが消防車の前で仁王立ちしていた。その消防車を指差す。   「何色って、赤ですけど。トマトの赤、燃える情熱の赤」優子は怪訝そうに答えてから「そういえば、赤の他人ってなんで赤色で表すんでしょうね」とひとりごとのように呟いた。   「私もね、消防車もバラの花も赤なのは分かるわけ。でも、それって同じ色のことなのかな」 「はい?」 「私の目で見ている赤は、もしかしたら優子ちゃんの目で見た時の黄色かもしれないでしょ。私たちはそれを『赤色』って教わったから同じ言葉で認識してるだけで。何が見えているかは比べられない」 「ああ、なんとなく分かりました。空の色はひとつでも、それを見ている人の目にどんな色が映ってるか分からないって話ですね」 「そういう感じ」    優子は「なるほどですねえ」と平坦な口調で頷いて、マグカップに並々と注がれた白湯に口をつけた。あち、と小さく笑う。  私は、優子のこの「なるほどですね」という口癖が好きだ。優子は、仮に私が彼女には全く理解できないことを言った時も「なるほどぉ」と一旦は納得の素振りを見せてくれる。優子は優しい。   「で、なんの話でしたっけ」 「エモプロを入れてから、感情が補強された感じはするんだ。外をウキウキ散歩する犬を見て胸がキュってなったり、暗いニュースで心臓がギューってなったり」 「感情は、胸が圧迫されることで発生するのかもしれませんね」優子はたまに、適当な返事もする。彼女のそういう瞬間を見つけた時、私は愉快な気分になる。   「で、この変化が、本当に一般的な人間に近づいたってことなのかが分からないんだよね」 「ああ、気持ちの大きさは人と比べられないからですね」  優子は色の見え方の例えから理想通りに私の意図を汲んで、大きく頷いた。「そりゃあ、そうですよね」と。    自分でも不可解なこの話を、そんな風に受け入れてもらえたことに、私はどこか安堵していた。それと同時に、そんな気持ちになった自分に対して新鮮な驚きがある。今まで私が気が付かなかっただけで、普通の人は、他人と話をする度にこんなに忙しくあれこれと考えているのだろうか。   「こうやって毎分毎秒、胸がキュッとなったりギューっとなったりするのが本来あるべき普通ことだったんだな、たぶん」 「なるほどですねえ」    私たちが大した結論には至らないまでも、なんとなく納得しようとした時、デスクを挟んだ背後から大声がした。 「おい、風野! これはどうなってるんだ!」  呼ばれた優子がびくりと肩を震わせた。 「ちょっとこっち来い」    恐る恐る振り向くと、険しい顔をした部長が優子に手招きしている。またか、と私はため息をついた。  あの男はどういうわけか、世代の違いや性別の違いでは説明できない次元で優子と馬が合わず、上下関係の権力差も相まって毎日のように優子を呼び立ててはフロア中に響き渡る声で叱責を繰り返している。  一度目をつけられたら最後、一挙一動に難癖を付けて歩く。人間の社会性に対する天災のような男だ。   「おい、この申請書はなんだ」 「あ、はい、部長のご指示で去年導入した、進捗管理システムの更新費用が……」優子の声は震えていた。 「なんで俺に相談なくそういうことをするんだ!」    部長のあまりの声量に、事務所の中が静まり返る。フロアの全員があの男の動向を窺っている。   「いえ、これは定期更新なので必ず発生するので、その」 「そんなこと俺は聞いてない!」 「いや、でもそれは去年……」 「風野お前、俺のこと舐めてんのか? 上司に黙って勝手なことをするなんてどういう神経してんだよ。普通に考えれば分かるだろうが!」 「……はい、申し訳ありませんでした」    この場の王であるあの男にとって、我々のような平社員が正当性を主張することなど許されないのだ。優子はすっかり萎縮して、頭を下げた。  ただ、がなり立てる部長の言葉は、私の胸の内を疼かせるのに充分だった。   「……『普通に考えれば』?」  更に間の悪いことに、私の体内で活躍の時を今か今かと待ちわびていた義感情がむくむくと暖機運転を始めたのが分かった。  タイミングの問題ではあった。  ちょうど私と優子が、人間の持つ「普通」という言葉の非対称性について話していたところだったこともあるし、私は私の中に生まれた感情というやつの操縦方法をまだ習得している途中だったから。  部長のがなり声が、フロアに響く。 「あのさぁ、いつまでも新人気分でいられちゃこっちも困るんだよ。お前が入社してから何か成長した要素があるか? それともアレか? 結婚して辞めるまでの繋ぎだから適当に仕事してんのか?」 「いえ、そんなことありません。申し訳ありません」  今にも泣き出しそうな優子の横顔を見て、私は胸の内側からグラグラと熱いうねりが噴き出し始める。  ああ、私は今、猛烈に怒っている。  理不尽に暴言を吐き、相手を傷つけるために嘲笑する、仕事という大義名分でもって弱い者を痛めつけて喜ぶ輩に対して、信じられないほどの怒りが湧き上がっている。  これが普通の感情を持った人間の気持ちなのだろうか? きっとそういう事なのだろう、それなら私が『普通の』感情に従うことに躊躇う理由はないのではないか?   「……部長、ちょっとよろしいでしょうか」    私は、事務所の皆が注目するなか優子と部長の間に割って入った。  そして二人が何か言うより早く、握りしめていた右手を部長の頬目がけて一気に突き出した。私に殴られた弾みで、部長は驚いた表情をしたまま椅子ごとひっくり返る。    普通の生活では到底感じる機会のない、密度の高い頬肉の感触が無性に面白く思えて、私は笑い声を抑えきれない。    ああ、なるほどなるほど。  たしかに、世界は輝いている。
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