暦 李兎

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暦 李兎

 物心つくまえから、おれは他人と一線が出来ていた。  それに否が応でも気づかせたのは、他でもない母親だった 「リツは■の子なんだから、これが好きよね?」  渡されたおもちゃを前にうまく喜べなかったのは、何もおもちゃ自体が気に入らなかっただけではなかった。 「見てリツ!この服とっても似合うわ!」  鏡の前で嬉しそうにはしゃぐ母親の顔ばかり見ていて、自分が今どんな服を着ているか記憶にない。 「でも、やっぱり■の子はこの色のランドセルがいいと思うの」  そう言って差し出されたランドセルを、6年間モヤモヤしながら使っていた。おれは水色が良いと言ったのに、どうしておれの好きな色ではいけなかったんだろう。 「中学校の制服、ちょっと大きいけど、すぐピッタリになるわ」  意を決して私服の学校に行きたいと言った時も、制服は思い出になるからとにこやかに一蹴された。高校もだ。 「お■ちゃん」  かわいいかわいい妹と距離を置くようになったのはいつの頃だったか。最初から、うまく付き合っていけてなかったかもしれない。両親に「お■ちゃん」と呼ばれるのが嫌だったから。おれはリツでしかないのに、急に違う生き物にされた感覚は妹がお腹の中にいた時から付き纏っていた。 「リツ。母さんの言うこと、よく聞いてあげてくれ」  心が弱い人だから、と小声で言う父の言葉から、度々おれのことで心を痛めている母の背中が見えた気がした。  この時「もう充分、聞いてきたよ」と父に言えたら、何か違っただろうか 。  男と女という線引きが理解できなかった。  否、少し違う。理解は出来たが、自分に当てはめることが出来なかった。  物心つくまえから「おれ」はおれでしかなかった。  男女どちらか聞かれても答えられなかった。  そのことに対して、おれよりも先に周りが困ったような反応を見せた。  着替えとか、トイレとか、プールの授業とか、班分けとか。  どれもこれも「おれ」っていう選択肢がなくて、幼い頃おれはおれの立ち位置というものを理解出来ずにいた。両親も多分、薄々勘付いていただろう。それを子どもに言うことはなかったとしても。  高校までは頑張っていたと思う。母親の言うことを聞いていたと思うし、どんなに気持ち悪くなってもなるべく、その通りにしていた。  けれど所詮は子どものやることで、母親や周りを満足させることは出来なかった。母はよく、「■の子」「普通」という言葉を使っておれを矯正しようとしていた。  なるべく頑張ったんだ。なるべく。  それでも将来の不安や、長年こびりついたモヤが鉛のように全身に重くのしかかって、どんどん自分がどんな表情をしているかわからなくなっていった。 「リツももう大学生になるのね〜。あっという間に大人になっちゃうわ。リツ綺麗だから、すぐにかわいい孫も見せてもらえそう」  何気ない、普通の母親が抱いていた願望を口にしただけの一コマであったが、これが決定的となったのは間違いない。男と女のこと以上に性的なことに嫌悪感を抱いていたおれは、ここで駄目になってしまったと思う。初めて出来た恋人に関係を迫られて破局させた直後だったことも大きい。繁殖は生物の本能なのに、何故おれはこんなに気持ち悪いのだろうか。  だけどこの時もまだおれは楽観的で、気が早いよといつものように笑って部屋に戻れればそれまで通りでいられると信じていた。しかし現実はリビングを出て廊下に出たところまで行ったところで気が抜けたのだろう、そのまま派手に嘔吐してしまった。いつも気づかれないよう2階のトイレまで我慢して来たのに呆気なく無駄になってしまった。  そこから先は最悪だった。心配した母が慌てて救急車を呼んで仕事中の父さんまで呼び寄せて騒ぎになった。吐くのはいつものことだから大丈夫と言えるはずもない。  幸い、単なる受験のストレスということになり、おれが何も言わなくても勉強のせいということになった。それ以上理由を聞かれることもなかったので、妹と母には慣れないことをするものじゃないねとおどけて笑って見せた。我慢して我慢して、結局取り繕えなかった恥ずかしさも隠したかった。  もう潮時だろうと悟った。病院の帰り道、父を誘って少し散歩に出た。もっと早くに決心がついていれば、こんな大事にならなかったのかもしれない。おれはいつも言葉が遅かった。 「おれ、高校卒業したら一人暮らしする」  父は子育てのことは母に任せ切りで、大体のことは「母さんと相談しなさい」と言っていた。今回もそう言われる不安があったけど意外にもすんなり頷いてくれた。きっと父も、おれという存在を抱えきれなくなったのだろう。 その後、父と母とで何度も言い争いが生まれただろうが、もうおれにはどうすることも出来なかった。  18年一緒だった家族や家と離れてみると、驚くほど楽になった。好奇の目や、からかわれることはあったが、所詮その程度だとしか感じない。どうやら思っていたよりも自分は図太がったらしく、誰かに何かを言われて必要以上に傷つくこともなかった。胸に少しの寂しさと罪悪感を抱えつつも、一人になることがこれほど安心できるものだとは知らなかった。  それでも引っ越した直後はせっかく実家から離れて選んだ大学の一限目の講義に間に合わないほど寝過ごすことが多く、自分ではコントロール出来ない日々が続いた。病院は忌避してきたが、一人で追い詰められると自分と無関係な人間に話して楽になりたい気持ちになった。家と大学の中間くらいの距離にある精神科を受診してみたが、どうやらおれは過度なストレスから逃避するために過眠傾向に陥りがちらしい。その後も視線や言葉にさらされて疲れた時、ふらっと行って、先生と近況を話してたまに漢方薬を貰ってくる程度で過眠は改善した。 そんなこんなで、嘘のように普通の生活はやってきた。食べるだけ食べて、寝るだけ寝て、たまに知り合いと馬鹿やって、バイトでお金を稼ぎ生活する。  たまに人恋しくなることはあったが、今までの日々を思えばそれでも手放しがたい平穏だった。自分のことをまるごと愛してくれる人を見つけるのは難しいかもしれないが、少し普通から離れた所にいたとしてもなんとかやっていけるんだと思えていた。
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