愛を知ったおれたちは

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愛を知ったおれたちは

 永遠のような時間の後、夢の中でさえ嬲られていたような錯覚に呼吸が苦しくなり目が覚めた。本当に自分のものなのか疑問に思うほど重い体からミシミシ音が鳴る。もう出すものもなくなった胃からは喉を焼く程度のものしか出てこず、また飲み込むしか無かった。最早どこが痛いとかわからなくなり、殴られたはずの腹も感覚が鈍い。  見慣れたベッド、見慣れた部屋、出かける前と変わらない服と、買ったばかりのショール、一つ一つ確認して、やっと自分の部屋だということがわかった。あの部屋にいた時間はそんなに長くなかったらしく、特に変わりがない。 大分手酷く扱われた気がするが、体は清潔にされている。乱れた服も元通り、記憶にある行為と現状と結びつけるのが難しいが、満足したあと丁寧に後処理をされたのだと思うとまた嫌悪感で目が熱くなる。そろそろ涙も出てこない。 「あいしてる、か」  そんなことをうわ言のように言っていたと思う。  体も頭の中も洗い流したい気持ちでいっぱいだが、今はせめて穏やかに眠りたい。後のことは、起きれたら考えればいい。このまま死ぬなら、それでもいい 「あれだけ求めてたのに、愛なんて感じなかったな」  この時、やらなければいけないことはたくさんあったのだろう。時間が経てば経つほど、暴行の痕跡は薄れていき誰かに主張する材料もなくなるからだ。それがわかっていても尚、急激な睡魔は容赦なく襲いかかってきた。  過剰なストレスによる過眠。現状を受け入れるでもなく、抗うでもなく、ただただ眠る。いつもいつも、おれは言葉が遅かった。  どれだけ眠っていただろうか。  あれから何度か起き上がった記憶はあるのだが、また眠りにつくのを繰り返していたので、時間の感覚がない。ようやく、体が休息を終えるとスマートフォンからひっきりなしに来る通知に気づいた。ホーム画面を見ると三日しか経っていなかった。  大学の友だち、バイト先の店長、母親、妹、各方面から心配するメッセージが来ているのを確認すると心が落ち着いてきた。少し考えたが、指が自然と高熱で倒れていたと打ち込んでいた。人に話すような気分ではなかったし、早く忘れてしまいたかった。またおれは逃避を選んでいたことに胸が痛んだが、だったらどうしろというんだと架空の登場人物を責める。  今はもう傷つきたくなかった。  ぼんやりとした頭でも、一人一人メッセージを返し、相手によっては電話でも話しているうちに時間が過ぎていった。窓から差し込む光がオレンジになって来た。恐らく帰ってきてからちゃんとしたご飯を食べていない。ああそういえば、出かける前に仕込んでいた豚汁はもう駄目になっているなと気付くとその時になってようやく涙が出た。 「お腹すいた」  人間らしい感覚が戻ってくると途端に色々辛くなったが、とにかく目先の欲求を解決することにした。冷凍ご飯を電子レンジに入れて、痛んでいない野菜とハムを取り出して切り始める。フライパンいっぱいの炒飯を作って、ティーパックのお茶を淹れて腹を満たそうとした。大事なことは後回しにしているものの、何かをしていると落ち着く。  明日は普通に大学に行こう。バイトもたくさん入れて、それで、なかったことにしたかった。  呼び鈴がやけに大きく鳴った。精一杯の現実逃避も許さないといった風なそれに、強い不快感を覚える。郵便か、配達か、アパートの住人か、わからないが無視をすることに決める。人に会う顔ではないと思うし、何より怖かった。しかし、呼び鈴は責め立てるように間隔を狭めて鳴り、脅迫めいたそれに我慢ができなくなってドアノブに手をかけてしまった。チェーンロックはかけておいたままだ。 「リツ」  どうして思い至らなかったのか、ここ数日自分を責めてばかりだ。自分で帰って来た記憶などなく、気づいたら自宅の布団にくるまっていた。つまり、自分を家に送り届けたのはあの男以外いないのに。  閉めようとするよりも早く、革靴が滑り込んだ。咄嗟にドアから離れると、何が嬉しいのか男はあの時の出来事なんてなかったかのように親しげに話しかけてくる。 「三日も部屋から出てこないので、様子を見に来ました。まだ体は辛いですか?」 「誰のせいだよ…!」  まだ一枚ドアで隔たれているおかげか、睨みつける気力はあったが、どこ吹く風の様子に更に腹が立つ。 「それはもう、私のせいです。だから私が来たんですよ。流石に今のリツに無体なことはしないので、入れて頂けませんかね?この状態で会話するのは目立ってしまうので」 「入れるわけないだろ…もう帰って、二度とおれの前に現れるな」 「それは無理です。それに、少し話がしたいんですよ。あの時のリツ、私の話聞こえていませんでしたよね?」 「話なんて聞かない!警察に連絡するぞ」  そう言うと、やっと男の表情が変わる。目を見開き、驚いている様子に溜飲が下がりかけたが、今度は憐れむように見つめられてまた座りが悪くなった。 「もしかして、三日もあってまだ通報していなかったのですか?」  ドキリと、刺すような痛みが走って危うく包丁を落としかけた。紛れもなく犯罪者の男にそう言われ、通報されれば絶対に向こうが不利なのに、何故おれが追い詰められているのだろうか。 「とにかく、部屋に入れてください。私はリツに嘘は言いませんし、その、これ以上拒まれると流石に傷つくので、チェーンを壊すか、この間の写真でもネットの海に流しますが、それでも大丈夫ですか?」  何故この男は自分にこうも執着してくるのだろうか。やっと冷静になってきただけの頭では、提示された三択をどう処理すればいいのかわからない。だが、知人にも親にも妹にも嘘を吐いた直後では自分が言った警察という言葉さえ首を絞めた。誰にも知られたくない選択をとってしまった自分には、選べるものが少ないという事実に初めて気がついた。  にこにこと玄関に上がり込んでくる男に包丁を向けると、威嚇する猫を見るような目で男もできる限り距離を取った。手ぶらかと思いきや、男はレジ袋を片手に提げており、コンビニで売られているプリンのパッケージが透けて見えた。自分は今日、ご飯を食べることが出来るだろうか。 「本当に刺すつもりなら、刃は上を向けた方が刺さりやすいですよ」  お守りのように握り込んでいたので、手が痛い。人を傷つける豆知識をさらりと披露されると、やっぱりそういう集団の一員なのだろうか。 「リツ。私は嬉しいですけど、あんなことされて一人で居続けることは、隙というより無謀ですよ。うーん、やっぱり私の部屋に置いとくのが良いのでしょうか。帰りたがっていたので帰したのですが、心配です」 「お前さえ来なければ何事もないんだよおれは…!」  三日ぶりに大声を出したからか、あの行為で枯れたままなのか、自分のものではないような音が出て喉を抑えた。 「それは過信ですよリツ。世の中は暴力で溢れているし、そうでなくても事故や不慮の死は避けるのが難しいです。平穏だと思っていても、私のような人間は五万といます。君は魅力的なので余計にと言えるでしょう」  まるで説教するように言葉を並べ立てられれば、やっと戻って来た思考力がまた霧散し始める。一体、少なくとも今この状況の元凶はこいつなのに何を言っているのだろうか。 「家に帰してあげたのだから、通報するなり友人に泣きつくなり、親の庇護を頼るべきでした。そうでなくても、今この場でその包丁を私に刺すべきだとも言えるでしょう。であれば一撃で殺すまではいかなくても、ストーカーとして通報する時間は稼げたでしょう」  何故、被害者であるおれが責められているのだろうか。それも加害者に。 「思考力を私が奪ったというならそれはそうでしょう。怖くて休みたかったのは当然でしょう。でもそこから先を意図的に逃したのはリツですよね?」  気づいたら声を上げていた。何と言ったかは、沸騰した頭では思い返すことが出来ない。足が震えて立っていられない。力が抜けてへたり込んだおれを、男は尚も愛しげに見つめてきた。 「あの、今のは本題ではなかったんですが…リツがあまりに危機感がなくて心配になってしまいました。ご両親のこれまでの接し方に疑問を持ってしまうレベルです。でも加害者の私が言うことでもないし、意地悪だったのも認めます。すみませんでした。だから泣かないでください。そして出来ればここから先の話の方を聞いてください」  もう立ち上がる気力もなくて壁に体重を預けたままの状態だったが、それでも男は近づいて来なかった。 「私の愛人になってください」 「は?」  この間誘拐までして強姦した挙句まだストーカーを続けているくせに何だその話は。日本人に見えるが母国は別なのだろうか。話が見えなさ過ぎて本当に同じ人間なのか疑いを持つ。それともおれの理解力に問題があるのだろうか。 「セフレってこと…?」 「リツがそれを言うとなんだか興奮しますね」 「死ね」 「情交は必須ですがそれだけを求めているわけではありません。あなたの体も、出来たら心も私の側に置いてくれるのが一番ですが……結婚は現段階では難しいのでリツには他の人間には目もくれず私だけ見てくれたら良いなと」 「何であんたはそんなおれに拘るわけ…?おれのことを調べたならおれが変だってわかってるだろ?」  もう噛み付く意思も出なくなって、側から見れば懇願するように、自傷行為をするような言葉選びをしてしまう。恋人にもちゃんと言えていなかったことを、何故か散々痛めつけられた男に言う違和感はこの際捨て置いた。 「おれは、お前らと性別が違うんだよ…」  悲鳴のような言葉はどれだけの想いが込められていただろうか。告白よりも重くて手を繋ぐより緊張する。ただの言葉でしかないその音は、男にはまるでプロポーズにでも聞こえたのかもしれない。  リツの前では極力穏やかな表情を崩さなかった男が、この時初めてすっと表情を消し、無機質な本性が顕になる。それなのに笑顔の時よりも断然人間らしく、燃えるような激情を怯える想い人にぶつける。何をどう思われても構わないが、これだけは違わぬようにと祈りを込めて。 「別にリツの性別がどうであれ、関係ないんですよ。男でも女でもそれ以外でも、リツがリツであれば関係がない」  相も変わらず男は一歩も動いていないのに、耳元で囁かれるように明朗に響く言葉から逃げるように身を捩る。その後の言葉がわかるからだ。あの時何度も聞いたから。 「だって愛していますからね」  今度こそ握っていた包丁を手放してしまった。耳を塞ぎ、目を閉じて、何もかもシャットダウンしてしまいたい。この時、コヨミリツという人間は初めて死にたくなった。  この21年、ずっと切望していた言葉を一句違わず言われて、こんなにも絶望することになるとは思わなかった。 その人は、自分が最も欲していた言葉をくれたのに、自分が最も理解し得ない欲望に塗れていた。
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