波布 充

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波布 充

 無意識に滑らせた手が止まる。目の前の金色の瞳が細められたのが気配でわかった。意識外での動きだというのに律儀に止まった手は別の生き物のようだと思う。理由に察しがついた男は悪かったよと片手を振ると、何も言っていませんよと相手は柔和な笑みを浮かべた。未だに目は射抜くように細められているというのによく言うものだ。  細くしなやかな黒髪を一つにまとめ、耳にかかる後毛がふわりと揺れている。少し女性的な顔に引き締まった体躯の男は、一見すると年齢不詳に見える。実際そこまで歳を重ねているわけではないが、落ち着いた雰囲気とは裏腹に他者を威圧するために光る瞳がそうさせている。この男が大の嫌煙家で、手が止まるのがもう少し遅かったらと思うと自慢の体躯を持つ男も背筋が冷えた。  波布充(ハブ ミツル)、名前からも本人の纏う雰囲気からも蛇を連想させる男だ。 「許してくれよ。最近他所のシマから流れてきた薬のせいで、数日嵐のように忙しかったんだからよ」 「ですから、何も言っていませんよ。それに、忙しいのは私も同じ思いです。気負わず息抜きできるよう、さっさと締め上げてしまいましょう」  へいへいと適当に相槌を打ちながら、珍しいこともあるものだと独りごちる。いつも口調だけは穏やかな男が、滅多になく攻撃的な単語を選んだからだ。どうやら、胸ポケットに手を伸ばしただけで刺すような目線を寄越したのは単に機嫌が悪いこともあったようだ。表情だけ見れば普段と変わらず笑んでいるので、付き合いの長い男にも今の今まで察せさせなかった。 「お? 珍しく荒れてんな。ここ最近は上機嫌だったくせに、女か?」 「違いますけど、そんな感じですね」  ひゅう、と今度は口笛が鳴る。たまに金で女を買っている程度にしか色のある話を聞かなった男に、どうやら入れ上げる相手ができたらしい。女でなければ男なのだろうかと、想像力に乏しい思考を巡らせる。 「へ〜、俺はそういうのに偏見はねえけど、あまり入れ上げて足元掬われんじゃねえぞ」  正直に言ってしまえば同性愛への理解なぞなかったが、人間味の薄かった後輩に春が来たのだから喜ばしくないわけがない。先輩風を吹かせて老人のような苦言を漏らしたが、パンパンと肩を叩いて喜びも表現した。自分は体格に恵まれ、鍛えてもいるので加減してもそこそこに効くはずだが、線の細い男は微動だにせず笑って受け止めている。仕事柄、体は頑丈であれば頑丈であるほど良い。 「もう手遅れですけどね」 「あの!」  小さく呟かれた声を掻き消すように威勢の良い声が耳をつんざく。数ある会議室の一室を無断で使用している手前、大声は避けて欲しかったが今言った所であろう。無視していたつもりはないがこっちもその手の話は得意じゃない奴だ。文字通り血気盛んな若者は沸騰寸前のやかんのように露骨に怒りを露わにしている。茶色の髪がまるで鬣のようだ。名前はトラだが。 「特に新ネタないなら、自分は見回りに戻ります」  そう言いつつ返事も聞かずドカドカと踵を返す若い男に、ちょっとした加虐心がくすぐられる。 「なんだ〜?そっちは女に逃げられたか」  半分は冗談であったが、そう聞くや否やピタッと止まり勢いよく振り返る。顔が憤怒で赤いが、人生経験がこの若造の倍はある自分には、子犬の威嚇のようにしか見えない。今年入った若造は可愛げない野郎どもばかりだったと思ったが認識を改める。こういう揶揄い甲斐のある若者がいると、歳だけ食ってった自分の存在も救われる。 「そんなんじゃありません!!」  バタンとドアを乱暴に閉める背中を眩しそうに眺めていると、隣の男はふむ、と腕を組み至極真面目な声音で呟いた。 「私も気をつけましょう」  冗談のつもりだったのだろうか、ニコッと笑んだ後スマートフォンを軽やかに操作してまた笑みが深くなる。いつもの薄い笑みに少しだけ色が混ざったそれは側から見ても危うく、親心が口から出かけたが息さえ漏れず口の中で苦く霧散した。
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