藤代咲

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藤代咲

 夏の日差しも随分柔らかくなり季節が秋に差し掛かろうとしていた頃、広いキャンパスの一角、もう随分と慣れた講義室の窓際の席で藤代咲(フジシロ サキ)は大きくため息をついた。逃げる幸せを追いかけるように項垂れると明るい茶髪に先日入れたオレンジのインナーカラーが同調するように揺れる。  彼女は今人生で最大の悩みを抱えていた。将来の進路も今日の晩御飯の献立も悩まない彼女がである。華の20代、当人にとってみれば一番重要な課題と言っても良い。時計を見ると次の講義開始まであと10分もなく、横の親友をそろりと見やる。  大学入学してすぐから親交のあるこの友人は、呑気に自販機で買ったばかりのほうじ茶の蓋を開けていた。明るいピンクベージュの髪に水色の瞳が印象的な親友は、少々変わっているもののサキの心の支えでもある。今日は白のフレアスカートに黒いゆったりとしたローゲージニットと女性的な格好である。そろそろ朝や日が沈む頃は冷えるが寒くはないのだろうか。 「そうじゃなくて」  脈絡のない一人ツッコミをいつものようにスルーする親友にありがたさを感じつつ、今は拾って頂きたかったと恨み言も出る。自分の悩みを聞いてもらうことも大事だが、親友に話を聞き出すことも大事だ。 「リツ、あんたさ、恋人できた?」 「できて、ない」  付き合いもそろそろ長くなって来たこの親友はとにかく嘘が下手だ。愛すべき素直さと言って良い。目線は明後日だし手は蓋の空いたほうじ茶を意味もなく横にゆらゆら振っている。 唐突に何故そんなことを聞くかというと、もちろん確証があるからだ。 まずわかりやすかったのはリツが身につけているもののランクが上がったこと。週4でバイトしているものの1人暮らしの学生であるリツの持ち物にしてはハイブランドなアクセサリーが増えたのだ。今日も黄色い石のついたピアスが明るい髪の隙間からキラキラ輝いている。ブランドにそこまで興味がないリツが無理して買うデザインでも色でもない。大学につけていくものでもない気がする。  加えて、ここ1ヶ月様子もおかしいのだ。真面目な部類の親友が1限に間に合わないことがちょくちょく出てきたし、だるそうに体をさすっているし、月に数回しか見かけなかったタバコの本数も増えた。何よりバイトもないのに親友であるサキの誘いを断ってくるのだ、これは何かあると思わないでいられない。  しかし、恋をしているにしては表情が暗く、体調も悪そうだ。もしかして悪い人に捕まったのだろうかと勘繰ってしまう。この親友を大事にしたいサキにとってそれは一大事である。 「え〜?でもさあ、あんたにしては珍しくスマホのメッセージ気にしてるし、アクセも高そうなの増えたし、なんか物憂げなため息増えたし?どうして?私には言えない?」  異変にはすぐに気付いたものの、そのうち相談やら報告やらしてくれるかと思っていたのだが、いざ聞いても困ったように笑うばかりだ。 「うーん、本当に恋人とは違うんだよ」  そう言われてしまうと寂しさもあり、同時に人生最大の悩みも相談しにくい。もう一年以上前の話だが、リツはある日突然当時の恋人と別れた。詳しくは聞けなかったがその時の疲弊ぶりが凄くて、それからはあまり露骨に恋人の話はしないようにしてきた。それがやっと吹っ切れたのかと思ったのだが、本人に違うと言われると切り出しにくい。  講義まであと数分、うーんと頭を捻っているとやっとほうじ茶の蓋を閉めて笑いかけてくる。今時の若者であるにも関わらずスレた所がなく、お人好しで、大体のことはいいよと笑ってくれる親友は、今日も自分のことはそっちのけでサキのことを優先してくれる。 「別におれに気を使わなくても、サキの相談くらいいつでも乗るよ」 「し、親友〜〜〜〜〜〜!」  ニットに化粧がつかないよう泣きつく真似だけしてはしゃいでいた若者たちに、年配の先生が控えめに咳払いしたところで、この時の会話は打ち切られた。  女に逃げられたのか。  真実ではない。 まだ、と言うべきなのかもしれないが、事実にはなっていない。自分はこんなにモヤモヤしているというのに、当の相手は今日もメッセージアプリにおはようと太陽の絵文字付きで送ってきた。それには朝届いた時の通知で気づいていたが、既読もつけられず本物の太陽が中天に昇り切ってしまった。  相手は今、大学で友人と昼食を摂っている頃だろう。今返してやれば、向こうもすぐ気づく。それに思い至っても、中々アプリを開く気になれないでいる。  頭を振る。また勢いをつけて振る。とうとう両掌で両頬をパチンと叩いた。道ゆく人が一瞬何事かと視線を向けたが、目が合うとそそくさと足早に立ち去っていった。  しっかりしなくてはならない。自分はまだまだ若輩者で、兄貴分たちに足で情報を稼いで来ないといけない。自分らの縄張りで流行し始めた薬は、値段が手頃故に効能も弱いが中毒性がある。見た目も可愛らしい砂糖菓子のようだが、立派な違法ドラッグだった。特に若い世代で流行し始めたそれは、放っておけば事件として縄張りを蝕んでいくだろう。  そうなってくれば、ここら辺によくショッピングしに来る相手も危険だろう。流行とはいってもまだ出回り初めで一般人には普段の日常と変わらない。最近治安が悪いから行くなとも言えなかった。 しかも、先々週の末のこと、まだドラッグのことも噂程度にしか掴めていなかった頃に見てしまったのだ。仲良さげに歩く、恋人だと思っていた女と知らない男が歩いている姿を。  すぐに問い詰められずにいるのは信じたくないという気持ちと、不甲斐ないことに知るのが怖かったからだ。おかげで声もかけられず、注意もできず、イライラだけが募って今日は兄貴たちに失礼な態度をとってしまった。自他共に認める強面の自分でも礼節には気を配っているつもりだったのに台無しだ。ハブさんたちも呆れていることだろう。  向こうから付き合おうと持ちかけられ、その勢いに押されて今日ここまで来たわけだが、関係性に悪い所はなかったと思う。少々派手で強引なところもあったが可愛らしいもので、普通の会社員と偽っていることを除けば付き合いたての初々しいカップルであった。会話の中に同じ大学にいる親友の話題が多いことがたまに心臓を炙ることはあったが、男の影のようなものはそれまで見当たらなかったというのに。  しっかりしなければならない。薬のことも、恋人のことも。真相がどうであれ、胸に砂を詰められるような不快感を取り除くには、吠えてばかりいたところでしょうがない。  それでも、どうしてもチラつくのだ。柔らかなピンクの髪に人の良さそうな笑みを浮かべてサキに笑いかける男の顔が。  自分とは違う、人を傷つけることに無縁そうな、穏やかな青い瞳が。 「私は今、ピンチなのよ」 「はあ」  大学のカフェテリアで日替わり定食のパスタ大盛りをつつきながら、親友は気のない返事をした。白い服を着ているのによくそんな汚しそうなメニューを選べるなと思うが、育ちがいいのか食べ方が綺麗な親友はソースを撒き散らすようなことはしない。たまにぼんやりして失態をおかして騒がしくするが。 「いつも最強のサキがピンチなんて珍しいね」 ガヤガヤと騒がしい食堂スペースの窓に面したテーブル席が、この2人のお気に入りだった。 「そうなの〜」  切り出せずに悩んだものの、話は至ってシンプルなのだ。彼氏がそっけない。 「いやね?元々口数多くなくて、硬派で、イケメンで、頼れるイケメン筋肉なんだけどね?」 「顔が好きなんだね」 「そう…じゃなくて!顔も、好きなの!2週間くらい前かな…急に返事が素っ気ないし、通話しよって言っても忙しいからって乗ってくれないし、今日送ったおはよってメッセージにもまだ既読つかないし…」  口調が彼女にしては暗く、側から見れば一過性の倦怠期に見えるようなそれも深刻に捉えているようだった。 「相手って社会人なんでしょ?普通に忙しいんじゃない?」 「それはそうなんだけど、急すぎると思うの。それまでは、メッセージ送ったらなるべくすぐ見てくれていたし、朝も夜も通話していたのよ?」 週末のデートだって断られたことなかったのに、と付け加えると、親友は渋い顔した。 「サキ」パスタフォークを皿の上に置き、おもちゃを散らかした妹を諭すような声音で言う。「おれにしてるみたいなこと、相手にもしてる?」 「リツにしてることって?」  すぐにはピンと来なかったサキに、親友は言いにくそうに周りを見渡した後、続きを口にする。 「暇があればメッセージ送って」 「うん」 「すぐに返事ないと電話かけて」 「気づいてないのかなって」 「外にいるってわかると、二言目にはどこで誰といるのか確認して」 「えへ、どうしてるのか気になっちゃって」 「夜寝落ちするまで通話して」 「だって会えなかったら声聞きたいし」 「それが、毎日」  普段穏やかな口調のリツが、普段以上に一言一言噛み締めさせるように発音する。皆まで言われるまでもなく、嫌な結論が頭をスコーンと駆け抜けた。 「……もしかして、やりすぎ」 「人にもよるとは思うけど、毎日はちょっと参るんじゃないかな」  うわああと、呻きながらカフェテリアのテーブルに突っ込んでいく。窓ガラスに頭が当たりそうになるのを、親友がそっと手のひらでガードしてくれる。 「おれはさ、まあいいよ。通話に出られなくて履歴にずらっとサキの名前が並ぶのも見慣れたし、ごめんねって返すのも慣れたし」  この親友はあまり通知に関心がなくて、返信も遅いし通話も中々出てくれなくて、出会った頃はお互い結構困惑した。 「まあわかんないけどね。とりあえず、会って話しなよ。本当に忙しいのかもだし、サキがしつこくて参ってるならどうにか調整しないとだし」 「でも〜〜〜おはようの返事も来ないよ〜〜〜〜〜!」 「そんなのおれも結構返さないこと多いけど、今サキ気にしてないでしょ?」 「いや普通に返して欲しい」 「大学で会うんだから良いじゃん…っておれのことはいいの。会いたいって言えば良いし、返事来ないなら会いに行けば良いし、好きなら好きって言いなよ」  しれっと言うこの親友も中々アグレッシブである。またその言葉が一般論からではなく自分だったらそうすることが言外でもわかる。 「相手引かない…?」 「しつこくするタイミングがおかしいんだよサキは。どっちかと言うと今でしょ」 「じゃあとりあえずリツ、私と遊んで。遊んでくれたら元気出るから、そしたらトラくんに連絡する…最近つれなくて寂しいよぉ」 「はいはいごめんね。今日新しくできたカフェに行こうねえ」 「やった〜!」
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