彼にとっての運命

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彼にとっての運命

 長かった秋雨も降り切り、葉が色づき始めた頃、おれはただ、普通に過ごしていただけだった。 「リツくーん!これ13卓にお願いできる?」 「りょうかーい!」 「リッくんごめん!ついでにデザート出していいか聞いてもらっていい?」 「任せろ」 「リツさんついでに今度ご飯どうですか〜?」 「ついでで誘うな」  一人暮らしも3年目に突入してから随分経ち、家事にも慣れて生活にも余力が出てきた。大学に行って、バイトに行って、休日には人と遊びに出かけたり、服や小物を買い、たまに卒業後の自分を思い浮かべては眠りに落ちる。普通で至って穏やかな毎日をコヨミ リツは送っていた。  親元を離れた時には不安も多々あったが友だちはそこそこいるし、バイト先の人たちは理解があるし、好きな服を着てたくさん食べて寝られている。まさに理想通り。人生21年にして、日々に少し物足りなさを感じつつもそれなりに満たされていた。  キッチンにデザートの準備をお願いしつつ、再びホールに戻ろうとすると小さな影がドリンカーからひょっこり出てくる。一声かけてから横に並んで欲しかったが視線をこちらに向けたり向けなかったりする仕草が実家にいる妹を思い出させて強く言えない。中々話を切り出して来ない相手に「どうした?」と声をかけながら少し肩に振れる程度に距離を詰める。この子はこのくらいの距離でも大丈夫だったはずだと確認しながら。 「リツせんぱ〜い…さっき来たお座敷の注文お願いしてもいいですか…?ちょっと怖くて…」  おれの平穏の一部であるこの後輩は、まだ居酒屋バイトを始めて二ヶ月ほどだ。最初は正直どうなるかと思ったものだが、意外と忍耐強く続いてくれている。申し訳なさそうに近づいてくる様子は毎度のことながら小動物っぽい。  きっと他の先輩らに言えばまずは自分で行って来いと言われるだろうが、困った時すぐに人に言えるのはこの子の美点だとおれは思う。美点は他人が手折るべきじゃない。  今回に至っては後輩の美点も手伝い、首肯で返したのは確かに自分の目にもヤとか暴がつきそうな団体と思ったからだった。後輩が案内しているのを見た時あまりに体格差のある集団に側から見てもハラハラした。先輩として、というより適材適所でおれが行ったほうが良いと思った。自分はあまり人に威圧されるタイプじゃないし、何か言われるのは慣れているから構わなかった。それに顔と人当たりにはちょっと自信あったし普段通り愛想良く接客してれば問題なんて起こらないだろうと楽観的に考えた。  後から考えればこの呑気さが仇になったのだが、どちらにせよ結果はそう変わらなかっただろうなと思うと無意味でもあった。同年代と比べれば少し凹凸の多い人生を歩んできただろうとは思うものの、特異的な事象に対応できるほど人生経験を積んでいるわけでもないのだ。 「失礼します。ご注文はお決まりでしょうか〜?」  座敷のちょっと重い引き戸を開けて声をかけると、すぐにこの座敷こんな狭かったっけとか考えてしまう。かわいい後輩の手前大丈夫と言ったものの、体格のいい黒スーツの集団は中々雰囲気がある。というかこういう人たちってもっと敷居の高いお店に入るものだと思っていたのだが、心臓に悪いこともあるものだ。 「お、美人さんだね〜学生かな?でかい男らで押しかけて申し訳ない。迷惑かけないよう見張っとくから、あんま気にしないでな」  当人らもいかにもカタギじゃありませんオーラには自覚があるようで、扉に1番近いところに座っていたオジサンが揚々と話しかけてきた。無精髭がいかつい顔を更に引き立てているが、体格に反して屈託のない笑みを向けられてホッとしたおれはニコッと笑い返すと、向こうも気を良くしてくれる。だが同時に周りの視線が無遠慮に絡まってくるので、さくっと注文してホールに戻りたい気持ちにもさせられる。  話好きなのか周りの注文が全然まとまらないからか、「あんまこういう店には来ないんだが、今日はたまたまな〜」と被せて話し出すのを遮っていいものか考えていると、反対側からこそっと手招きされる。この集団の中では比較的威圧感の少ない、ツヤツヤした黒髪を後ろで縛っていて柔和な笑顔を称えたお兄さんだ。顔もいい。 「適当に人数分のビールと、枝豆と、揚げ物持ってきてもらえばいいですよ。あと君のおすすめ料理。どれも3皿ずつお願いします」  一向に注文が決まらないので気を回してくれたらしいその人は、笑う顔に優しさが満ちていて、反射的に気持ちの悪さを感じてしまった。初対面の割には過ぎる優しさというか、水をあげたら暖かいミルクティーで返された気分だ。釣り合いが取れていなくてとても居心地が悪い。  この場で顔に出すわけにもいかないので、何も感じませんでしたと言わんばかりにこちらも笑顔を貼り付けて座敷を後にした。相手は扉が閉まるまでこちらを見ていた気がする。 「うーん、俺も怖いかも」 「ごめんなさいリツ先輩…!何かありましたか…?」 「ああいや、全然大丈夫。気のいいオジサン集団だった」  座敷の前でおろおろしていた小動物系後輩を宥めつつ、言われた通りビールと適当にご飯系の注文を打ち込んでいく。多分お金を持っている団体だし、ケチくさいことは言わないだろうと単価が高いものをハンディにぶち込むことで気を紛らわした。  思っていた通り、出てきた料理に文句を言わないどころかやいのやいのと皿を取り合う姿は公園で遊ぶ小学生を想起させた。そんな大男らの姿に店員目線からほっこりしつつ、扉に手をかけ退席しようとした所無意識にさっきの男の様子を伺ってしまう。  一瞬で後悔するも遅く、こちらが顔を向ける前から男はおれのことを見ていて、目が合うと嬉しそうににっこり微笑んだ。流石にこの時の笑顔は引きつってなかったか怪しい。立て付けが悪くて提供する時重い座敷扉が今夜一段と恨めしい。  幸い、店には他にも団体の客が入り忙しさが増すとヤ集団の座敷にばかり構っていられなくなった。こっちはこっちでドリンクのオーダーと追加の料理の注文も入れてくれたので提供することに専念も出来、あっという間に時間は過ぎた。だらだらと長居することも無く、きっかり2時間で会計を済ませ帰宅する姿は理想のお客様だ。帰る際おれと目が合うとみんな破顔して手を振ってくるので自然と見送りに足が向いてしまう。先に行ったのかあの怖い男の姿も見えなかった。  「美人さん思ったより背が高いな!」とかなんとか言いおいて上機嫌に去っていく後ろ姿をマニュアル通り見送っていたところに背後から「リツさん」と呼ばれる。作務衣に名札をつけているので名前で呼ばれることには疑問に思わなかったが、少々距離の詰め方が早くないだろうかと一言申したくなる。  そこから逃げ出すわけにも行かず靴箱からピカピカの革靴を取り出して履くところを緊張しながら見守ってしまう。店は依然として混みあっており、バイト仲間たちは程よい忙しさに没頭している。こう言う時の見送りは、ホールやキッチンと同じ店内に関わらず半ば隔絶されたような息苦しさがる。壁もないのに二人きりになってしまったような焦燥感に自然と身が竦んだ。大袈裟だと思われるかもしれないが、二人になると緊張してしまう癖は幼い頃からだ。 「今日はありがとうございました。お陰で楽しい時間になりました」  最初しか会話らしい会話をしなかったのに何を言っているんだろうかと内心で思いつつ、「いえいえ、またのご来店をお待ちしております」と定型文を口添える。少々棒読みだったかもしれない。 「はい。またお会いしたいです」  おれに会いに来いとは言っておりませんお客様と言えたらいいんだけどなぁ。  中々退店してくれない男に口の筋肉がひくつき始めた時、ポケットから長方形の紙が出て来て差し出してくるのを、反射的に胸の前で両手をあげて拒絶の姿勢をとる。たまにこういうこともあるが本当に気まずい。 「すみません。お気持ちは嬉しいのですが受け取れないです」  一介の学生居酒屋アルバイターに名刺を渡さないでもらいたい。絶対裏に個人的な連絡先が書いてあるやつだ。この人じゃなくてもめちゃくちゃ困るしこの人だから更に困る。  真っ向から拒絶されたにも関わらず、気にした様子のない男は甘い笑顔のまま肩を落とす仕草をあざとくやって見せた後、会釈して店の扉をくぐって行った。雰囲気も顔も声も始終人好きのするものであったが、緊張感から解放されて自然に溜息が出る。 「なんか知らんけどあの人が1番怖かったな…」 「そうですか?あの人が1番優しそうで怖くなかったです」 「リツくんナンパされがちだから過敏なのかもね。片付けは他の子に任せるから、休憩行っといで」 「やったー!休憩頂いてきます!賄い!」 「切り替えが早くて偉いね〜」  当たり前だ。こんなことで一々悩んでいられないのだこっちは。実際、大それたことをされた訳でもないしいつも通り、日常を過ごしていれば忘れるものなのだ。  思惑通り、その後もあのヤ集団が来ることはなく、あの気味悪いお兄さんが単独で来ることもなかった。なので、一週間の中では濃い体験に分類されるものでも、一ヶ月二ヶ月と過ぎていけばよくある酔っぱらいの奇行としておれの記憶から順調に薄れていった。少し過敏になり過ぎて失礼だったかもしれないとさえ思った。  そうして、小さな波はあるものの、おれは普通に過ごすことができている。そんな自負を持っていた。  今日も普通に買い物していたら気に入るショールを見かけて衝動買い。値段は張ったけど満足感でご機嫌にはなれた。薄いミルクティーのような色に金の糸で小さく花の刺繍が入っていてかわいい。これから寒くなってくるから重宝するだろう。  まだ日が高い休日の時間、おれは軽い足取りで歩道を歩いていた。最寄り駅から自宅のアパートがある住宅地へ続く通りだ。車も通るし、同じように通りを利用する人も遠目にチラチラ見える。それに付随して視界になんだか目立つ黒い車が止まっていると思ったがその程度だった。早く帰って化粧を落として惰眠を貪った後朝に仕込んどいた豚汁を食べてまた寝たい。そうして明日からの講義やバイトに備えるのだ。  止まっていた車から男が出てきたことにも気づいていた。しかしあれから1年近く経っていて、もう1人の客の顔なんて覚えてなかったおれは何も思わなかったし、相変わらず早く帰りたかった。  男がこちらを見てにこっと笑った時に気づかなかったのは流石に鈍かったかもしれないが、1日に何人も酔っぱらいの相手をしている身なのだ。ちょっと気持ち悪くて顔はいい人間のことなんて一々覚えてられないだろう。おれの後ろの方に笑顔を向ける誰かがいるんだろうなと思いつつ、特に何もせず男の前を素通りしようとした時呼ばれたのだ「リツ」と。  驚いて振り返るよりも前に、腹に衝撃が走った。突然の強襲に心臓が止まる感覚と、遅れてくる吐き気。視界は上映前の映画のように徐々に暗転していくが尚も男は嬉しそうに言う。 「良かった。一発で終わってくれて。流石に愛しい人を殴るのは気が重かったので」  は?と問いただしたかったが思うように言葉が出ず、絶対駄目だとわかるのに意識が遠のいていく。 「やっと会えて嬉しいです。リツ」  そう言って抱きしめる男の腕は、ゾッとするほど優しかった。
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