第17章 ウマノスズクサ(6)

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―――――――――――――――  バタン。  トイレの扉を閉め、鍵をかけると緑川はそのまま扉にもたれかかってずるずると床に座った。 「ほんっとにもう…あの人は……」  苦笑すると同時に涙があふれてきた。こんな短い期間で二度も泣くのは久しぶりだった。  ずっと誰かに言われたかった。変わらなくていいと。ずっと隣にいると。言ってほしくても『言ってほしい』と誰にも言い出せなくて、そして言われてこなかった言葉をああもあっさりと言われてしまった。嬉しくて笑うより先に呆れて笑ってしまった。 「いや、考えてみれば前からずっとだったな…」  すごい人だと言ってくれた。  助けてくれてありがとうと言ってくれた。  料理がおいしいと言ってくれた。  死んでほしくないと明るく言ってくれた。  死んでしまったら悲しいと言ってくれた。  こんな人間でも必要だと言ってくれた。  全部聞きたかった言葉だ。どうしてこうも自分の言ってほしい言葉を言ってくれるのか。エスパーなのではないのだろうか、と緑川は思っていた。  そもそも緑川にとって香織の隣は居心地がよかった。自分が話さなくても彼女は気を悪くするでもなく、かといってこちらに気を遣うようでもなく、適当に話を振ってくる。そして自分の花の話には興味を持ってくれる。緑川は空気を読むのは苦手だが、なんとなくそう感じていた。そしてその空気に充てられてか、自分の考えを話すのが苦手な緑川も少しだけ話せるようになった(微々たるものではあるが)。    仮に気まずいと思っているなら、自分のそばを離れてしまえばいい。それは彼女の自由であり、緑川も引き止める気はない。彼の人間関係はそのような感じで、自分からアクションを起こすようなことはほとんどないのだ。  そんな緑川が香織に離れてほしくないと強く願っているのだ。緑川も自分の気持ちに戸惑っていた。中立でありたいと思っていたのに、特定の誰かに強く固執するなどらしくないことなのだ。 「これが恋ってやつなのかなぁ……」  一人つぶやく彼はまだ恋を知らない子供である。恋をしたことがないのでその感情がはっきりとわからないのだ。  普通の人間ならばここでほわほわと温かい気分になるのだろう。初めての感情に戸惑い、それでも嫌な気分はしないものなのだろう。だが、この男は違う。 「俺が恋、か……。したくなかったなぁ……」  緑川はため息を吐きながらそう言った。多分ここに香織がいたらガチギレしていただろう。    別に彼とて悪気があるわけではない。変化を嫌う緑川にとって変わるということは不安や苛立ちを感じてしまうのだ。 「ま、そうは言っても今まで通り流されるだけだな」  これからどうなるのやら、とまた緑川は一人トイレでため息を吐くのだった。                    ――fin?
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