*1 ぼくとピアノと ~side Boy~

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*1 ぼくとピアノと ~side Boy~

 都心のベッドタウン的な街・まよい市の駅前のひだまり商店街の隅に建つ小さなビルの一階に、喫茶・シュガーという古い店構えの喫茶店がある。  レンガ造りの壁をアクセントにした内装と、ずっしりとした木製のテーブルと布張りの椅子に電球色の照明がぬくもりを感じさせる昨今流行りの昭和レトロなインテリア、そして店の奥に置かれたアップライトピアノが特徴的だ。  店には一応専属ピアニスト(・・・・・・・)がついていて、気まぐれに弾きに来て、そして気まぐれにリクエストを受付けるのだとか。  今日もまた、その気まぐれ専属ピアニストが店のオープンカウンターで味見と称して本日のブレンドコーヒーを飲んでいる。 「(しゅん)ちゃん、そのシャツってさ、昨日のと同じじゃない?」  カウンターの内側から、気まぐれピアニストにおかわりのコーヒーの代わりに水入りのコップを差し出しながら、シュガーのオーナーの息子・恵太(けいた)が呆れたように言った。  十七歳の子どもにちくりと言われたピアニストは恵太の言葉にバツが悪そうに苦笑した。 「やっぱバレたかぁ。さすが、恵太はするどいねぇ」 「あのね、そんな派手なシャツ着て何時間もカウンターに居座られてたら嫌でも憶えちゃうよ。また朝帰りしたの? せめて着替えてからここに来なよ」  ここは峻ちゃんだけの場所じゃないんだよ、と恵太に軽く睨まれながらも、彼は澄ました顔で水を飲んでいた。  シャツだけでなく、彼――ピアニストの井原峻祐(しゅんすけ)のその姿は人目を引き、存在を強く印象付けるものがある。  峻祐は四十七歳の割に痩身で、身体の線を強調するようなタイトなシャツにジャケットを身に着けることがほとんどだ。  髪は光の加減で白金にも見える派手な金髪の軽くウェーブしたセミロングヘア、切れ長の目にシャープな輪郭には独特の色気がある。  商売道具の指を持つ手先は爪まで磨き上げられてダークカラーなネイルが施されている。 「で、昨日はまたどちらにお出掛けだったの?」 「昨日は横浜のランドマークのスタジオでレコーディングでねぇ、中華街でメシ食ってきたよ」 「……で、帰りにそこら辺の誰かと過ごしてきたってわけだ?」  恵太の呆れた吐息交じりの言葉に、峻祐は苦笑しながら頷いた。  峻祐は見た目でだけでなく、その私生活もなかなか派手だった。  普段は喫茶・シュガーのある佐藤ビルの三階に住んでいて、そこで主に子ども相手にピアノ教室を開いている。  その傍らでミュージシャンのサポート業を行ったり、時には曲提供を行ったり、仕事の一環でテレビにも時折出たりしているようだ。  しかしシュガーにいる時の姿しか知らない恵太には、ただの飲んだくれの男好きで派手なおじさんにしか見えない。  峻祐は週に何度も夜の街を出歩き、色んな男と夜を過ごし、酒や何やら甘い匂いを纏って朝方から昼にかけてシュガーに現れるからだ。 「今日は教室ないの? 生徒さん来るんじゃない、そろそろ」 「今日は日曜だから休み。だから……今日はここで弾いちゃおうかなぁ」  気まぐれ専属ピアニストのいたずらっぽい笑みに、恵太も思わず笑ってしまった。恵太は彼のピアノが大好きなのだ。  幼い頃から店にあるピアノを自在に弾きこなす峻祐の姿を見て、恵太は育ったと言っても過言ではない。  恵太にとって、彼のピアノの音色はありふれた日常の景色のひとつでありながら、かけがえのないものでもあった。 「それだったら、溜まってる家賃の代わりにたっぷり弾いてもらわないとだねぇ」  峻祐の言葉を聞きつけたのか、店の奥のキッチンでまかないランチのナポリタンを作っていたシュガーのオーナー、佐藤理輝(りき)が出てきてのんびりとした調子で言った。  理輝は恵太の父で、すらりと背が高く、峻祐と同じ四十七歳だがそこそこ身体は引き締まっている。腹回りが若干怪しいが、チョコレート色のマッシュヘアーにやさしい目許が彼の温厚な性格を物語っている。  峻祐は金回りは良いが、羽振りが良すぎて家賃を滞納してしまうことが多々あるようで、そのことを理輝は言っているのだ。  理輝の言葉に、峻祐はあからさまに顔を顰め、飲みかけのコーヒーを飲み干した。 「そうやって俺をタダ働きさせるきだね?」 「いつもちゃんと家賃払ってくれてるんだったらタダ働きじゃなくなるよ、峻祐」 「コーヒー一杯ぐらいで家賃分弾かされちゃたまんないよ」 「ええ~……じゃあ、ナポリタン付けるって言ったら?」 「もう一声だなぁ」  カウンターに頬杖をつきながら、峻祐はにやにやと笑いながら理輝の方を見ていた。理輝はその試すような眼差しに頭を悩ませている。  おっとりしているがオーナーとしてはそれなりの信頼がある理輝だが、(こと)、峻祐が絡むとその判断力は鈍ってしまうようにいつも恵太は思っていた。  理輝と峻祐は幼馴染で、おっとりした理輝と口が達者で毒気のあることも口にする峻祐という組み合わせから言って、どちらが物事の主導権を握りがちなのかは火を見るより明らかだ。  いまだってビルのオーナーでもある理輝の方が、家賃を滞納されているのだから強気に出てもいいはずなのに、当たり前のように峻祐がまかない+α(ぷらすあるふぁ)をせびっているのだから。  恵太は我が父ながら情けないと思いつつも、峻祐のピアノ演奏がいくらでも聴き放題の日になるのであればそれも構わないとも思っていた。我ながら現金なものだなと思いつつも。 「……わかったよ、プリンも付ける。これでどう? 峻祐」 「しょうがないなぁ……じゃあ、夕方の五時までね。それからは俺呑みに行くからね」  理輝の提案に、峻祐はゆったりと微笑んで頷いた。その笑みは、確かに人を惑わせるような嫣然とした雰囲気のある微笑みで、理輝は案の定とろかされたような微笑み返していた。 「リクエストは?」 「じゃあ、A列車でいこう、がいい!」  恵太のリクエストに、オッケー、と峻祐は言い、ジャケットを脱いでカウンターの椅子に掛けて店の奥のアップライトピアノの前に座った。  細い、しかし骨ばっていて逞しくも美しい指が白鍵と黒鍵の上に添えられる。  ひとつ、峻祐は息を吸って少し上を仰ぐように見つめ、そして一気に鍵盤を叩いた。  その瞬間、店中の音がピアノの音色に切り替わった。  弾むように流れ出したメロディに、自然と恵太も理輝も身を委ねるように揺れていた。 「はー……やっぱ峻ちゃんすごいねぇ……これでちゃんと家賃払ってくれたら言うことないのに」 「いいんだよ。峻祐は唯一無二のピアニストなんだから」 「……父さんねぇ、そんなだからウチはリアルレトロなお店なんじゃないの? もうちょっとリノベーションとかしたくない?」 「僕はこれで構わないよ」  恵太の言葉に動じることなく微笑む理輝の横顔を、恵太は呆れ半分納得半分で見ていた。  理輝は、自他ともに認めるほど峻祐のピアノに惚れ込んでいる。  フリーでフラフラしていた峻祐に専属ピアニストを願い出たのも理輝の方からだったと言うし、そのためなら空き部屋だったビルの三階を住居として貸し出すとまで言ったというのだから。  それだって今はもうない崩しのタダ同然だ。恵太が呆れるのも無理はない。  ただピアノに惚れ込んでいるにしては贔屓(ひいき)しすぎではないかと感じられるのは、恵太はそこには違う理由があると気付いていた。  特に、先程のように峻祐に言い様に言い負かされて、彼の微笑みにとろかされている時などそれを強く感じた。 「……そんなに惚れ込んでるなら、ちゃんと言えばいいのに」 「え? 何が?」 「ううん、何でもない」  ピアノに聞き入っていて恵太の呟きが聞こえなかったらしい理輝がこちらを振り向いたが、恵太は肩をすくめて首を横に振った。言ったところできっとまた理輝は、「僕はこれで構わないよ」なんて言うのだろうから。 (――そんなだから、峻ちゃん、明日もきっと朝帰りするんだろうなぁ……)  我が親ながらお人好しで鈍感過ぎて心配になるなと思いながら、恵太は峻祐の演奏に耳を傾けていた。  指先から紡がれるメロディは、今日も気まぐれに気ままに喫茶・シュガーを彩っていた。
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