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*9 不穏の始まりの昼下がり ~side R~
茹だるような暑さが連日続いていた。お盆休みを過ぎても秋らしい気配が訪れることはなく、シュガーでは連日アイスコーヒーがよく売れた。
アイスコーヒーのついでにコーヒーゼリーも作ってみたところ、そちらもなかなか好評で、昼下がりに涼みに来る客たちがよく注文していった。
「今日はあの飲んだくれピアノ弾きはいないのかい?」
理輝が常連客の一人である、商店街の床屋の亭主――以前峻祐からコーヒーの苦情? について言い返された人物だ――にアイスコーヒーを出していると、そう聞かれた。
飲んだくれピアノ弾き、と言うのは峻祐のことだろう。ピアノ弾きはこの辺りでは彼しかいないから。
理輝はさあ? と言うように肩をすくめるにとどめた。商店街の人間は口話悪いが、いい意味でも悪い意味でもお節介が過ぎる者が多い。
だから余計なことを言わない方が、他人の干渉を嫌う峻祐にとってはいいと思ったので黙っておいた。
「忙しいんじゃないかな、峻祐。家にもあまりいないみたいだし」
「んじゃあ、家にも帰らないで飲み歩いてんだな」
しょうがねぇやつだな、と言いながら苦笑してアイスコーヒーを飲む床屋の亭主に答えることなく、理輝はそこを離れた。
実際のところ、理輝にも峻祐がここ最近何をしているのかがわかっていなかった。
コンスタントに生徒が来ていたピアノ教室も今月に入ってからは休みになっているようだ。
だからと言って部屋に籠って曲作りをしている気配もなく、実際に訪ねたわけではなかったが、理輝たちの自宅の上から生活の気配がしなかった。
峻祐は独り身だし、もともとがそんなに生活感の出るようなタイプではないから、こちらが気配を察することが出来ないだけで、実際は暑さに参ってクーラーの利いた部屋でゴロゴロしているのかもしれない。
しかしそれにしても毎日のように入り浸っていたシュガーにさえ顔を出さないのは、少々おかしい気もしていた。
(――急な病気……心臓発作的な……熱中症とか……? ……で……実は、死んで……)
不意に過ぎった、連日ニュースで報道されている話と、峻祐が三階の自宅で倒れている姿の想像に、理輝は背筋が凍るような思いがした。
峻祐は自分のように朝起きて夜寝るようなリズムのある生活サイクルではない。どちらかと言えば不規則な夜型だ。
加えて床屋の亭主が言っていたような飲んだくれなところ、その上に誰彼構わず夜を共にしてしまう性生活……身体にいいことなどないのではないかというほど、峻祐の暮らしは不健康に思えた。
「ねえ、最近峻ちゃん見なくない?」
峻祐の安否が気になって溜め息をつきかけていた理輝の隣で、恵太がサービスの氷水用のグラスを拭きながら言った。
理輝は自分の胸中が見透かされたかと思ってどぎまぎしたが、恵太は特に理輝に構うことなく言葉を続ける。
「さっき床屋のおじさんが言ってたみたいにさぁ、暑いから―って吞み歩いてるのかな、峻ちゃん」
「……さぁ、ねぇ……忙しいんじゃない? レコーディングとかで……」
「でもさぁ、最後に来たのってお盆前だよ?」
「え……?」
峻祐は、どんなに仕事が立て込んでいても、三日とあけずシュガーを訪れていた。
譬え午後から仕事がある日でも、午前中から昼辺りまでカウンターに陣取って、朝方の客と喋ったり、時々ピアノを弾いたりしていたほどだ。
それなのに……もう、十日近く姿を見せていなかった。
まさか……理輝の脳裏に、ありありとリアルに自室のダイニングの床に倒れる峻祐の姿が浮かぶ。雪のように白い血の気のない肌、生気のない眼、乱れた白金のような金色の髪――
誰に看取られることなく途絶えた彼の命の音色を想像しただけで、理輝は居ても立ってもいられなくなった。
淹れかけていたコーヒーのドリップケトルを調理台の上に置き、乱雑にエプロンを外して恵太に押し付けるように手渡してきた。
「父さん? どうし……」
「ちょっと峻祐のとこ行ってくる」
「え? 峻ちゃんのとこって……部屋、留守じゃない? どこまで行く気?」
恵太が慌てて訊ねてくるのも聞かず、理輝は厨房裏の事務所に飛び込み、財布とスマホの入ったサコッシュを肩にかけて戻ってきた。
峻祐のいるところ……いそうなところ……見当がついているようで、まったく宛てはないのが正直なところだった。
仕事で立ち寄るスタジオやライヴハウスはいくつか知ってはいるが、そこに自分が入ることが出来るかは未知数だった。
それにそもそも、理輝が知りうる心当たりに峻祐がいるとも限らなかった。むしろ、いない方の可能性が高いとも言える。
店を飛び出して行こうとする理輝のシャツの裾を恵太に掴まれたまま、理輝は考え込んでしまった。そして、改めて自分は峻祐の何も知らないことに気付かされたのだ。
「……とりあえず、スマホに電話とか、LENEとかしてみたらいいんじゃない?」
自分よりはるかに冷静な息子の提案に理輝はハッとして頷き、サコッシュの中からスマホを取り出して峻祐に連絡を取った。
どこにいるのか、と言う言葉と…少し考えて、新作のコーヒーゼリーを食べに来ないかという誘いを添えて送信した。
LENEを送信して、一応電話もかけてみたが、電波が届かないところにいるとか電源が入っていないとかで繋がることはなかった。
いまできることをし尽くしてしまった理輝は大きく溜め息をついて、すごすごとサコッシュを事務所に戻しに行った。
「……父さん、大丈夫?」
心配そうにこちらを覗う恵太の言葉に、理輝は項垂れていた顔を上げて苦笑して返した。
「……ああ、うん……大丈夫……ごめんね、恵太」
「いいんだけど……あのさ、前も聞いたけど、峻ちゃんって昔行方知れずになったことだってあるんでしょ?」
「え、ああ、うん……まあね……」
「何年も連絡付かなかったことだってあるのに、なんで、ここ最近会ってないだけでそんなに慌てるの?」
恵太の至極もっともな言葉に、理輝は返す言葉もなかった。全くその通りだと思えたからだ。
ただ、あの時といまは事情が違う――しかしそれを恵太に説明するには、あまりに事態は複雑にからまっているのも事実だった。
それを、まだ十七の彼にすべて話してしまっていいのか、理輝には躊躇われたのだ。
押し黙ってしまった理輝の様子を、恵太は何か言いたげに見つめていたが、そこに客が来店してしまって、その応対に追われて理輝が恵太にその話をする機会は消えてしまった。
夕涼みに訪れた客のオーダーのアイスコーヒーとタルトを用意しながら、理輝はちいさくはない溜め息をついた。
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