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*11 三人のひみつ ~side R~
結局あたりが暗くなって、シュガーが閉店してしまっても、恵太は戻ってこなかった。
恵太が峻祐と理輝に怒りをぶちまけて店を飛び出して行ってからしばらく、理輝も峻祐もその場から動くことが出来なかった。
ドアのベルの音の余韻がいつまでも耳につくほどの重たい静けさが、店内を覆っていた。
恵太に言葉を投げつけられて、峻祐は凍り付いたまま、しかし表情は次第に沈んで暗くなっていった。
何かを、言わなくては――そう、理輝が言葉を選びながら峻祐の名を呼ぼうと口を開きかけた時、それまで立ち尽くしていた峻祐がゆらりと店の入り口の方に歩き出した。
「峻、祐……」
ごめん、と言うべきなんだろうと思っていた。我が子が吐いた暴言を詫びるのは親の責任なのだから。
横柄な態度を取っているとは言え、峻祐は佐藤家にとって店子であり、シュガーにおいては常連客だ。その相手に恵太の言葉は――真実がどうであれ――見過ごされていいものではないだろう。
だから、理輝は峻祐の名を呼んで、それから謝罪を述べようと思っていた。
だけど……入り口のドアに手をかけゆっくりと出て行く峻祐の背中は、理輝の想いも言葉も一切拒絶しているように見えた。
そう感じてしまって一瞬躊躇った結果、理輝は峻祐も店から出て行かせてしまった。
追いかけようかどうかまた迷っている内に新たな客が訪れてしまい、結局その応対に追われて理輝は店に留まらざるを得なかった。
恵太のいない接客は、昼時ほどでないとはいえそれなりに忙しく、そうしている内に理輝は夕方の騒動が頭から離れていた。
そうして気付けば、閉店の時間になっていた。
ひとり閉店作業をこなし、店の鍵をかけてしまっても、恵太も峻祐も戻ってこなかった。
何か、二人から、せめてどちらかから連絡が来ていないかと理輝がスマホを眺めていると、恵太からLENEが届いた。
『晴一のとこに泊る』
晴一……とは、確か、家が近所の学校の友達だったかと思う。シュガーにも何度も来たことがある、理輝も顔なじみの恵太の同級生だ。
見知った相手の名前が出てきてホッと安堵したものの、恵太からはそれ以上の言葉はなかった。
「父さんがやさしくするからってつけ上がるな! 父さんが峻ちゃんをどんなに想ってるか……父さんの気持ちをこれ以上踏みにじるなら……もうここには来ないでくれ‼」
恵太が峻祐に投げつけた言葉は、理輝の胸にも深く刺さっていた。
理輝が峻祐を想っている。それも、ひとりの想い人として――これは、否定し難い事実だった。
しかし同時に、恵太の母である優愛のこともまた同じくらいに想ってもいる。
だから理輝は峻祐に想いを告げない――という、そんな単純な事情だけで、理輝と峻祐が互いの気持ちをなんとなく感じつつもただの幼馴染の仮面をかぶり続けているわけではない。
(――そんな単純な、僕だけが悪い話だったら……どんだけ良かったか……)
理輝は二階の自宅に戻り、遅い夕飯の代わりに食品庫からウィスキーのボトルと、冷蔵庫からロックアイスを取り出してグラスに注いだ。
グラスに注いだそれを、シンクに立ったまま理輝は煽るように飲み干した。熱いアルコールの感触が喉を焼く。
理輝が峻祐に、峻祐が理輝に想いを伝えないのは、息子・恵太の出自に関係している。
恵太が自分の生まれた前後の話を聞きたがるたびに、峻祐ともどもあれこれと言葉巧みに話をそらしていたのだが、それももはや限界なのだろう。
もう十七歳の高校生に、いつまでも真実を告げないでいるのは、かえって残酷なのかもしれない。
だけど……理輝は二杯目のウィスキーをグラスに注いで、今度はひと口ずつゆっくりと舐めるように飲んだ。
(――だけど……本当に残酷かどうかは……僕じゃなくて、恵太が決めることだよね……)
真実を告げないことをやさしさだと思っているのは、大人のエゴなんだろうか。
理輝は、半分ほどになったグラスの中身を覗き込むように見つめながら溜め息をつく。
しんとしたダイニングのしらしらした灯りの下で、理輝は残りの酒を飲み干す。
スマホを取り出してみるも、あれ以降恵太からも峻祐からも何も音沙汰はなかった。時刻は夜の十時を過ぎようかとしている。
理輝はダイニングテーブルの椅子から立ち上がり、自室に入った。
灯りをつけ、部屋の隅の本棚の下段の奥にあるパールホワイトの合皮の分厚いアルバムを開いた。
開いたページに並んでいたのは、十七年前の春に行われた理輝と優愛の結婚披露宴の集合写真だった。
この式から僅か三日後、峻祐は理輝と優愛の前から姿を消した。
自分と優愛が微笑む姿を指でなぞり、更に辿るように理輝は集合写真の隅の方でまるで気配を消すように佇んでいる峻祐の姿を撫でた。
今よりも眼光が鋭く、世の中に反抗的な態度が滲み出ている、尖った雰囲気が漂う当時の峻祐の姿を、理輝は苦笑するように微笑んで見つめる。
まるで人に絶対に懐かない黒い子猫のようだったな、と理輝は当時の峻祐のことをそう思い返す。
当時の峻祐は、理輝と優愛以外の、家族でさえも信用していない、口を開けばヒトの神経を逆なでするような毒舌を吐いていた。
その実、とても誠実でやさしい性根をしていることを、理輝は知っていた。出逢った頃から変わらない、陽だまりの中の無垢な子猫のような峻祐の姿を。
それを愛しいと想っていることは、理輝と峻祐の間にいる優愛に向ける感情と同じように想っていることは、墓まで持って行く秘密のつもりだった。
だから――写真の中の若い峻祐の姿をじっと眺めながら、理輝は言葉にならない感情を溜め息にして吐き出した。
(―――だからって……まさか二人が……優愛と峻祐が……寝たなんて、思わないじゃないか……)
真実を理輝が知ったのは、結婚式の晩、初夜のことだった。
ベッドに入って理輝が優愛の肩に触れた時、ずっと昔から峻祐が好きだったこと、優愛から押し切るように身体の関係を一度持ったこと。
そして――優愛の想いに峻祐が応えられないのは、彼がゲイであるからなこと……そういったことを涙ながらに告げられた。
つまり、優愛が理輝との結婚を受け入れたのは、峻祐から拒まれた傷心によるものだったというのだ。
あの夜の衝撃を、理輝はなんと表現していいのかわからなかった。いまでも、わかっていない。
自分がそれぞれに想いを寄せていた二人が、自分の知らないところでそんな関係を持っていた現実を、理輝は当時すぐに受け入れることができないでいた。
「――りっちゃんが、私のこと好きでいてくれるのは、すごく嬉しい……でも、私は……。――ごめんね……それでも、りっちゃんと一緒にいたいって思ってもいい?」
春の朧月の明かりの照らす下、昼間招待客に誓った言葉とは全く違う彼女からの問いかけに、理輝は頷くしかできなかった。
もし自分が彼女を許さなければ……彼女が永遠に自分の前から消えてしまう気があの時理輝にはしたから。そして理輝は、やはり優愛を愛していたから。
許すという言葉の代わりに、理輝はその日彼女を抱いた。まるで、まだ優愛の肌に残る峻祐の気配を掻き消すように。
そうして、ふたりが新婚旅行に旅立って帰ってきたら、峻祐が姿を消し、その後まもなく優愛は恵太を身ごもった。
それからは、まるで峻祐が存在しなかったかのように穏やかに過ぎていった。
優愛が、病に倒れるまでは――
そこまでを一気に思い返していた理輝は、いつの間にかすっかり冷めてしまった酔いの気配にひとつ溜息をついた。
「……ひとつの、潮時なのかな……いまが……どう思う、優愛……」
答える人のない問いかけの声だけが深夜の部屋に響き、そして夏の闇に溶けていった。
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