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*15 彼の真実 ~side S~
――ああ、自分は“普通”じゃないんだ…… そう、気付いたのはいつだったか。
自分にまつわる真実を聞きに来た恵太の俯く姿を見つめながら、峻祐はぼんやりと考えていた。
周りよりもすこしだけ容姿に恵まれていたことに気付いたとき?
ピアノの上達が早いと褒められた時?
周囲からやっかみを受け始めた時?
それとも……理輝が優愛を見つめている視線の甘さに気付いたとき?
それを、自分にもその視線を向けて欲しいと願ったのに、向けられたのは彼が向けていた彼女からだったのを絶望した時?
自分が得られないもの――愛だとか好きだとかそう言った類のもの――を、優愛が峻祐から欲しいと告げられたあの日、いま思えば峻祐は甘くて残酷な決意をした。
――理輝が欲するものを、自分が、穢してしまおう、と。そうすれば彼女は自分に抱かれたことで満足するだろうし、自分は彼が欲するものに消えない傷を刻み込めると思ったからだ。
譬えそれが、誰もしあわせにしない結果を招く可能性があるとしても。
「……峻ちゃん……訊きたい、ことがあるんだ」
恵太が意を決したように口を開き、沈黙を破ってきた。
拳を握り締めて緊張した面持ちの恵太を、峻祐はピアノ椅子の背もたれに身を預けるように向き合いながら見つめていた。
「……なに? 改まっちゃって」
軽く明るく、シュガーで他愛ない話をするときのように峻祐は応える。
まっすぐに彼を見据えてくる恵太のまなざしは、彼女に――母親の優愛に、とても良く似ていた。
感情がむき出しで、躊躇いがなくて、良くも悪くも正直なまなざしは、この期に及んでも逃げ出したい気持ちのある峻祐を捕らえて離さなかった。
恵太はきゅっと唇を噛んでこちらをたっぷり三秒見つめて、そして深呼吸をして切り出した。
「――ねえ、峻ちゃんは……ぼくの、本当の……父さんなの?」
自分がもし“普通”であれば、何かが違ったのだろうか。峻祐がそう考えたことはなくはなかった。
自分の想いの矢印が理輝ではなく、優愛に向けられていたなら。
自分の身体の造りが違っていたのなら。
それならばいま目の前で自分の言葉を待ち受けて対峙する少年は――
(――どれもあり得ない。俺の手の中にあるのは、ただ一つの真実だけだから……)
恵太の言葉に、峻祐はもう一度片頬を上げて弱く笑った。
そして、この十七年間ずっと胸の奥にしまい続けていた言葉を、吐き出した。
「――お前は、俺からあいつを……理輝を奪った女の子どもだ。……種のない俺の子じゃない」
大学に入って間もなくの頃、峻祐は遅いおたふく風邪に罹ってしまったことがあった。
その影響で峻祐の精液には精子がないものとなったのだが、それは理輝も優愛も知らない事実だった。
峻祐の言葉に、恵太が優愛によく似た、しかし理輝にもよく似た愛らしい眼を丸くして口を噤んでしまった。
自分が“普通”じゃないから、譬え理輝からの気持ちがわかっていても、好きだの愛しているだのと自ら告げる気は、峻祐にはなかった。
何故なら、自分は理輝が愛していた優愛を穢した張本人で、想いを告げたところで理輝が本当に受け入れてくれるとは限らないと思っているからだ。
受け入れられないのが怖かったから、自分が犯したことの結果を目の当たりするのが怖かったから、峻祐はあの時ふたりの前から姿を消したのだ。
そうして逃げ回っている内に、優愛とは二度と逢えなくなってしまった。穢してしまったことを償うこともできないままに。
だから――何も言わずに、優愛を亡くした理輝が恵太を峻祐の息子と信じ込んで養育していく姿を傍で見守ることで、優愛への罪滅ぼしをしているつもりだった。
恵太の驚きを隠せない表情を、峻祐は泣き出しそうな、残暑の陽射しに溶けてしまいそうな儚い笑顔で見つめていた。
「……じゃあ、なんで父さんに好きって言わない、の……? 父さんは、峻ちゃんがぼくの父さんかもしれないからって言って……だから……」
「それが理輝の考えなら、それを尊重するまでってだけの話だよ……俺は許されないことをしたんだから」
「……峻ちゃん……」
「……でも……俺が理輝を拒むだなんて言った覚えはないよ」
峻祐が自分から想いを告げるつもりはない、この先もずっと。自分は許されないことをしたのだから、そう峻祐は思っている。
でも……想いを理輝から向けられることを、拒む理由は彼にはなかった。
まだ若干混乱した表情を隠せない恵太の頭をそっと撫でて、峻祐はやさしくこう告げた。
「……俺が知ってることは、これで全部だよ。納得した?」
「……まだ、ちょっとよく、わかんないんだけど……」
「けど?」
しどろもどろに答える恵太の顔を覗き込むように峻祐が首を傾げると、俯き加減だった恵太の顔が上がり、再び峻祐を真っすぐに見つめた。
「ぼくの父さんは父さんで、峻ちゃんは峻ちゃんだってことは、わかった」
「……ま、そういうことだね」
恵太の言葉に、峻祐は苦笑して頷く。恵太もようやく弱く微笑んでくれた。
「ねえ、峻ちゃん」
「うん?」
「今日のこと、父さんに伝えてもいい?」
拒む理由は峻祐にはなかった。寧ろ恵太から理輝に伝えてもらった方が良いことのようにも思われた。多少、父親が息子から聞くには驚きを隠せない話題ではあるだろうけれども。
峻祐は頷きながら恵太の頭に触れていた掌を離し、くるりと背を向けてピアノに向き合った。
「好きにしなよ」
峻祐がそう告げると、不意に、背後から椅子の背もたれごと恵太が峻祐に抱き着いてきた。
「……話してくれて、ありがと、峻ちゃん」
耳元をくすぐったその声は、かつての彼の母親の声にも似ているようで、少し違う甘さがあるように聞こえた。
抱擁はすぐに解かれて、「じゃあね。またお店来てね」と言い置いて、恵太は部屋を出て行った。
遠く聞こえる階段を下っていく足音に沿うように、峻祐はピアノの蓋を開けて「きらきら星」をゆっくりと弾き始めた。
その旋律は甘くやさしく、ちいさな部屋いっぱいに満ちていった。
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