*16 こくはくのあい ~side R~

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*16 こくはくのあい ~side R~

「――って、ことなんだって、峻ちゃんが言ってた」  理輝が仕事の買い出しを済ませて夕方に自宅に戻ると、恵太から峻祐から聞いた話を告げられた。  恵太は夕飯のカレーを作りながら、まるで今日の学校での出来事を報告するときのような落ち着いたテンションで話していた。  峻祐の部屋を訪ねて、彼に真実を――峻祐には種がなくて、恵太は確実に理輝と優愛の子であるということを告げられた、と。自分は許されないことをしたと峻祐は言っていた、とも。  手際よく野菜を刻みつつ肉と一緒に炒め、煮込んでいく恵太は、淡々と峻祐からの話を理輝に報告していた。  理輝は、水分補給にと帰宅してすぐにグラスに注いで飲んでいた麦茶を飲む手を止めて聞き入っていた。  恵太の話――峻祐に種がないことは、理輝も初めて聞くものだったからだ。  じゃあ……なんで峻祐はまた自分の前に現れたのだろうか? 想いを告げてくることもなく、恵太が自分の子ではない事実も隠したままで。  隠された真実に理輝がどれほど胸を痛め、複雑な想いを抱きながら恵太と優愛に接していたか――峻祐に苛立ちのような憎しみのようなどろりとした感情が湧き始めていた理輝に、恵太はこう言葉を続ける。 「……父さんが、父さんで良かった……って、思っちゃった」 「……え?」  カレールーを割入れてお玉でかき混ぜながら、恵太が理輝の方を振り返って苦笑した。 「父さんが、ちゃんと母さんもぼくも好きでいてくれる人で良かったなって思ったんだ」 「……恵太」  ふんわりと漂ってくるスパイシーな香りに鼻腔をくすぐられながら、理輝が恵太を見つめる。  見つめ合ったその笑顔は、かつて自分が愛した彼女によく似ていた。そして、自分にも。  安堵にも似たやわらかな感情は、ここ数日間毛羽立っていた理輝の心をやさしく包んでくれた。  出来上がったカレーをそれぞれの皿に注ぎ分け、ダイニングテーブルに向かい合わせに座って理輝と恵太は夕食を迎えた。  特に会話もなく黙々と食していたら、不意に、恵太が理輝の方を見つめてきた。  まだ何か伝えたいことがあるのだろうかと、理輝もまたカレーを食べていたスプーンを止めて見つめ返したら、恵太は、「もう、いいんじゃないの?」と、言った。 「いいって……なんのこと?」 「何のことも何も……父さんと、峻ちゃんのことだよ。ねえ、父さん……このまま峻ちゃんを待たせてていいの?」 「待たせるって……別に待っててくれって何も約束したわけじゃ…」  再びカレーを食べ始めながらこちらを見つついう恵太に、理輝は苦笑するしかなかった。  理輝は峻祐を想っている、優愛と同じくらいに……もしかしたらいまは、それ以上に。  でもそれをそのまま彼に告げてしまうには、もう時が経ちすぎているように理輝は思っていた。  互いの心を知りつつも、探るように見せかけるようにささやかな駆け引きを楽しめればそれでいいと理輝は思っていた。  それ以上を望むのは……優愛の気持ちに気付いてしまったことの後ろめたさもあったから。 「ぼくは自分が知りたかったこと知れたし、隠してたのは父さんと母さんと峻ちゃんが考えた末だってこともわかったよ。だから、父さんと峻ちゃんがホントは好き合ってるのに、知らん顔してるってことも」 「いや……好き合って、る……わけじゃ……」  好き合っている…と、確信できるものは、実のところ何もないのが理輝と峻祐の関係だ。  日々のやり取りの狭間に隠された気持ちや、表情や仕草で、読み取るしかなかったから。  単なる自惚れや勘違いではないだろうという微かな感触はあったが、確信ではなかった。  そんなことを今になって突き付けられても、理輝はどうしたらいいのかわからなくて俯くしかできない。 「……峻祐が僕のこと好きだって決まってるわけじゃ……」 「今更そんなこと言うの?」 「だって……」 「“俺が理輝を拒むだなんて言った覚えはないよ”」 「……え?」  歯切れ悪く口籠っている理輝に、恵太が明るく言い放った。  理輝が恵太の言葉をすぐに呑み込めずにきょとんとしていると、恵太はおかしそうに、それでいていたずらっぽく笑った。 「峻ちゃんからの、伝言でーす」  恵太はそう言うと、空になった理輝のカレー皿と、手にしていたスプーンを取り上げて下げてしまった。  背を向けて皿を洗いだした恵太の後ろ姿を眺めながら、理輝は伝言の意味を反芻する。  ――峻祐は、拒んで、ないって……? それって…… ずっと陽の目を見ないと思っていた感情の種が、いま、突然に芽吹きの時を迎えようとしている。  流しで皿を洗っていた恵太は、こちらを振り返って更にこう言った。 「ほら、父さん。いつまでそこでぼーっとしてるの?」 「……え?」 「もう、息子に全部言わせないでよね!」  「ぼくは晴一のとこに行ってくるので、なにも気にしないで」と、恵太はせかせかと急き立てるように、ぼんやり座っていた理輝を立たせて追い立てるように玄関の方へ向かわせた。  「じゃ、頑張って」と、にやりとした笑みで恵太はドアを閉め、理輝を締め出してしまった。  ぼんやりとオレンジ色に照らす踊り場で、理輝は三階の方を見上げた。  同じくオレンジ色の灯りに包まれている上階のそこからは、微かにピアノの音色が零れるように聞こえていた。  峻祐は基本、家にいる間は施錠をしないらしい。  以前不用心だからと理輝が注意したのだが、「理輝が店にいたら、ヘンな奴が来ても気付いてくれるでしょ?」と、いつもの人を試すような嫣然とした笑みで返されるだけだった。  ―――もし、その、“ヘンな奴”が、自分だったら……彼は、どうするんだろうか?  過ぎる考えに理輝は息を潜めるようにしながら峻祐の部屋のドアを開けた。  ゆったりとした……バラードだろうか、甘い旋律が微かに聞こえてくる。玄関からすぐのダイニング横のレッスン室に入った。  部屋の中では、見慣れた薄い痩せっぽちの背中がピアノの前に座っていた。  この背中を愛しいと想い始めたのはいつからだったのか……幼馴染だった優愛に引っ付いて行って初めて見た綺麗な男の子の姿と、彼が奏でる旋律に惹かれるのに時間はたいしてかからなかった。  優愛と並んで仲良くピアノを奏でる姿に疎外感のような寂しさと、僅かな妬ましさと……それらを上回る愛しさを感じながらも、理輝は努めて優愛の方を向けるようにしていた。それが、“普通”だったから。  優愛を愛することが当たり前で、彼を、峻祐にも同じものを覚えるのはそうじゃない重い石で蓋をするように閉じ込めた本当の気持ちは、このまま潰れてしまうのだとばかり思っていたのに。 「――お前ら父子(おやこ)は住人に断りもなく入るのが趣味なの?」  惹きこまれるように峻祐のピアノに聞き入っていたら、いつの間にかメロディが途切れていた。  峻祐の言葉にハッと我に返った理輝は、取り繕う言葉を口にしようとして口を開きかけた。  それよりも早く、ピアノの前に座っていた峻祐がこちらを振り返った。切れ長の目が、理輝を見据える。  まっすぐな――優愛や恵太とは違った意味合いの――射貫くような眼差しに、理輝は発しようと思っていた言葉を喉の奥に押しやった。  見つめ合うことになったふたりの間にはしっとりと嵩のある沈黙が流れた。 「……鍵、開いてたから……ごめん……」 「別にいいけど……で? 俺に何の用? 無断で入ってくるぐらいのことなの?」 「……ごめん」 「それは、なんについて? 黙って入ったこと? それとも……この前のこと?」  ピアノ椅子の背もたれに身を預け、細く白い指でくるくると円を描きながら峻祐が理輝に問う。  峻祐が宙に描く円には何か不思議な力があるのか、見ているとそこに注意を惹かれてしまいそうだった。  理輝は少し俯き、そして改まったように峻祐に向き直った。 「この前のこともだけど……いままでのことも、全部……」 「……全部?」  理輝の言葉に、峻祐が金色の髪の下で眉根を寄せる。意味が解らないと言うように。 「峻祐に、恵太の生まれた時の話をあの子にさせたことも……恵太を、峻祐の子だと思い込んでたことも……優愛が死んだことを、黙ってたことと……それと……」 「それと?」 「……ずっと、峻祐が好きだってことを…無視し続けてたこと……ホントに、ごめん……」 「…………」 「峻祐……僕……峻祐が、好きだ」 「……っは……今更……」  勇気と言葉を振り絞るように告げた理輝を、峻祐は鼻先で笑って視線を反らした。  横を向いた峻祐の表情は、長いふわふわした髪に隠れてよく見えない。  理輝は一歩、峻祐の方に歩み寄った。 「ホント、今更だと思う……優愛を踏み台みたいにしてまで、言うことじゃないのかもしれない……でも……ずっと、初めて会ったときから……僕は峻祐が好きなんだ……」 「……それで?」  背けていた顔が、再びこちらを向く。その眼差しは、先程よりもやわらかく甘く、何かを求め訴えているものだった。  理輝は、ちいさく息を呑んだ。長くながく蓋をしてきた感情を、解き放つために。
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