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*2 伝えられない僕の想い ~side R~
喫茶・シュガーは、もともと理輝の父・治夫が二十年ほど前に早期退職をして始めたものだった。
遠い親戚の伝手で古びた佐藤ビル丸ごと譲り受け、家賃こそかかってはいないものの、年季の入った建物の維持費を考えるとそれが幸いしているとは言い難かった。
とは言え持ちビルであることに変わりはないので、シュガーの上階を自宅にして、更に空き部屋を貸し出せば家賃収入も得られる寸法になる……筈、なのだが……
「んー……今日のはブルーマウンテンとモカでしょ? あたり?」
「ハズレ。全然違うよ、峻祐」
「理輝の淹れ方が悪いんだよ。もう一杯飲んだら当てられるよ」
「……峻祐はブルーマウンテンとモカしか豆の種類知らないでしょ」
呆れたように言う理輝の言葉に、峻祐は子どものようにムッとして頬を膨らませて黙ってコーヒーを飲んだ。
理輝が淹れたドリップ式コーヒーを、峻祐は来るたびに――週に四~五日は来ているのでほぼ毎日ということになるが――味見と称してタダで飲んでいく。
シュガーは手狭で自家焙煎の施設がなく、コーヒー豆はよそで焙煎してもらったのを買い付けてきて粉にして淹れている。
そのためそれなりにコストがかかるので、峻祐のタダ飲み用に湯水のように出すわけにはいかないのだ。
それでなくとも峻祐はピアノ教室やピアニストとしての仕事がない、特に平日の午前中は開店と同時にシュガーに来て何時間も入り浸るため、恵太が良い顔をしない。
「いい? 峻ちゃんにどんなこと言われても、コーヒーは一杯しか飲ませちゃダメ! ここは峻ちゃんの給水所じゃないんだからね、父さん」
毎朝登校前に頼りない父・理輝に釘を刺してから出て行くため、最近はようやく理輝も峻祐に言われるままにコーヒーを出さなくなった。
峻祐はかなり不満そうにしていたが、理輝が息子の手前折れるわけにいかないという態度なこともあってか、渋々コーヒー一杯だけで我慢するようになった。
しかし今度はコーヒー一杯で何時間も居座るようになり、事態はあまり改善……どころか悪化したように思われる。
ただ悪化した、と単純に片付けてしまうには、少々理輝はのっぴきならない気持ちを抱えていた。
だが、それを素直に出せるほどに若くない自覚もあるので、理輝はずるずると峻祐の居座りを許しているのが現状だった。
毎日朝方に来る常連の高齢の夫婦や、商店街の店主らと談笑を交わす峻祐の姿を横目に、理輝はカウンターの隅に置かれている写真立てにも目を向けた。
木枠のシンプルな写真立ての中には、恵太によく似た二重の明るい目許の、栗色の髪の女性が微笑んでいる。
「……僕の淹れ方が悪いから、当ててもらえないのかな……どう思う? 優愛」
写真立ての中の女性――優愛に、自分だけが聞こえる声で理輝は呟き、苦笑した。
峻祐が理輝の淹れたブレンドコーヒーの豆の銘柄を当てることができた暁には、理輝はとある約束を峻祐としているのだが、なかなかそれが実現される日は遠い。
――いつその約束をしたのか、それがどんな内容であったのかも、もう峻祐は憶えていないのかもしれない。
きっと彼女なら、理輝のコーヒーの腕前をこき下ろす峻祐の襟首を掴んで、タダで飲ませてもらっておきながらその態度はなんだ‼ ぐらいは言ったかもしれない。約束も忘れて何やっているんだ、とも。
理輝はそんな想像してひとりこっそりと笑った。優愛は理輝よりも勇ましい性格をしていたから。
「何ひとりで笑ってんの? おっさんの思い出し笑いなんてキモいよ」
コーヒーカップを拭きながらひとり笑っている理輝を、いつの間にか峻祐がカウンター越しに頬杖をついてこちらを見ていた。金と銀の狭間のような色合いの髪の隙間から切れ長の目が覗く。
先程まで峻祐と談笑していた常連客達は、気付けば料金をテーブルに置いて去っていて、店内には理輝と峻祐の二人だけだった。
理輝は軽く咳ばらいして体裁を整え、澄ました顔をしてカップの手入れに専念しているふりをした。
特に何か言うわけでもない理輝の顔を、峻祐は探る要因見ていたが、それも直に視線を外した。
峻祐は頬杖をつきながら、先程理輝が見つめていた優愛の写真を眺める。
「――来週だっけ、命日」
「……うん、そうだよ」
「……十年、か……早い、って言うのかな」
「どうだろうね……」
「ま、恵太はどんどんそっくりになってくけどね」と、峻祐が顔を顰めて言うと、理輝はそうだね、というように苦笑して頷いた。
優愛は理輝と峻祐とも幼馴染で、理輝の妻であり恵太の母だった。彼女は理輝と共に二代目オーナーとしてシュガーを切り盛りしていた。
コーヒーを淹れるのが上手くて、もともとケーキ職人志望だった理輝の作るスイーツとセットで販売されているのがとても評判だった。
だが――十年前、がんを患い帰らぬ人となってしまった。その命日が来週末にあたる。
理輝はカップを棚に戻し、テーブルの上の伝票と常連客達が置いて行ってくれた料金を回収し、レジに納めに行く。
やわらかく店内に射し込む春の陽射しを見ていると、理輝は十年前の今頃、店も開けられず上の空でコーヒーカップを磨くことしかできなかった自分の姿を思い出すのだった。
会いに行くたびに痩せ細っていく優愛の姿と、それを恵太に見せるかどうか迷った日々、白い妙に明るい病室、独特の閉塞感のある空気の感触などを。
「理輝」
「……うん?」
「百合の花、送ってやるから、いつがいいとか時間指定とかあったらLENEしといて」
「ありがと、峻祐」
それだけを言い置いて、峻祐はボトムスのポケットから小銭を取り出してカウンターに置いて店を出て行った。
峻祐は、何故か優愛の話をしたときはコーヒーの代金を置いていく。
その額は多い時もあれば少ない時もあるのだが、普段がほぼ無銭飲食なので珍しいことではあった。今日は、五百円ほどを置いて行っていた。
「……っふ……今日は多いくらいじゃん」
恵太に言ったら、きっと、もっと優愛の話をしたらいいんじゃないかって言いだすかもしれないな……と、理輝は思ったが、それはしないでおこうとも思っていた。何故だかそれは、峻祐の気持ちに付け入っている気がするからだ。
こういうところを恵太にお人好しだと呆れられるのだろうが、そこだけは理輝は譲れなかった。
峻祐は、優愛の葬儀には出ていない。恵太が生まれる直前から優愛の死後一年ほどまで行方知れずで、理輝から伝えようがなかったからだ。
だから……これは彼なりの弔いの気持ちなんだろうと、理輝は勝手に解釈をしていた。たまに払われるコーヒー代と、命日の百合の花。それが峻祐なりの優愛への気持ちなんだろう、と。
――譬え、峻祐が理輝との約束をもう忘れていようとも。
カウンターの置かれた小銭を理輝は手に取り、再びレジに収めに行った。
春陽は変わらず穏やかにシュガーの中を照らすように降り注いでいた。
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