*5 彼にとってのピアノ教室とは ~side S~

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*5 彼にとってのピアノ教室とは ~side S~

 佐藤ビルの三階に、峻祐の住居兼仕事場であるピアノ教室がある。  幼児から高校生、時には大人も週に一~二度の頻度で通ってくることが多く、だいたい一人当たり一時間ちょっとのレッスンを行っているようだ。  音楽学校受験用のレッスンなどは請け負っていないが、子どもが学校の行事で弾けるようになりたいだとか、大人なら趣味で弾けるようになりたいだとか、そう言った(たぐい)の者が口コミで習いに来ることがほとんどだ。  峻祐は見た目も私生活も派手で奔放なところが見受けられるが、レッスンはいたってまじめで丁寧だと評判らしい。  実は恵太も小学校の低学年の頃、滞る家賃の代わりにと峻祐からピアノの手ほどきを受けていたことがあった。  しかし恵太はピアノを大人しく弾くようなタイプの子どもではなかったし、顔なじみの峻祐が教えるとあってあまり真面目に取り組まなかった。  赤いバイエルを終えるまでに二年近くかかり、黄色のバイエルに入る頃にはすっかりピアノを弾くことに匙を投げていた。  幼いながらに自分の向き不向きを見極めていたのかもしれない。  その代わりのように、恵太は喫茶・シュガーにレッスン生募集のチラシを張り出して峻祐の教室の生徒が途切れないようにしている。  恵太なりの気遣いなのかもしれないが、当の峻祐は特に感謝もしていないしそもそも気にもしていない。  だからと言って恵太が腹を立てることはなく、こちらが気をもまなくてもいつの間にか生徒が入れ代わり立ち代わり訪れるので、それなりに繁盛しているのだろう。 「ぼく、峻ちゃんがピアノ教室してるのって、てっきり生徒さんの男の子目当てなのかなって思ってた」  シュガーは夜の七時半がラストオーダーで、八時閉店だ。  ラストオーダーの時間を過ぎて閉店準備をしに理輝が外の看板などを片付けに行っている時、テーブルなどを拭きながら恵太がそう言った。  きっかけは、その日午後レッスンに来た小学生の男の子がまったく練習をしていなかったと、峻祐がレッスン後にシュガーに来て不機嫌に零していたことだった。  恵太としては、日ごろ若い男をとっかえひっかえしている峻祐のことだから、男のレッスン生の多少の欠点など目を瞑ると思っていたから意外だったのだ。若い男には誰にでも甘いのではないか、と。  カウンターに気だるげにもたれかかるように座ってコーヒーを飲んでいた峻祐は、恵太の言葉に呑んでいたコーヒーに思わず噎せてしまった。 「うわ、峻ちゃん汚い。飛ばしたとこ拭いといてよ」  噎せる峻祐に恵太は顔を(しか)めて言い、使っていた布巾を差し出した。  恵太に言われた通りカウンターをざっと拭いた峻祐は、軽く咳ばらいして呆れたように恵太の方を向いた。 「……恵太、俺そんなに見境なく飢えてるように見えるの?」 「え? 違うの?」  きょとんとしてこちらを見ている子どもは、きっと一ミリも悪気はなく訊ねて来たのだろうと察した峻祐は、盛大に溜め息をついて金色の髪をかき上げた。 「あのねぇ……いくら俺がおっさんのネコ専だからってね、そこまで相手に困ってないよ。そんな小便臭いガキなんて相手にしないし、そもそもそういうのは犯罪だし」 「でも、いつもほとんどの相手はすごく年下なんでしょ?」 「……そりゃあ、若い方がスタミナあるからね。……勿論、二十代以上の奴だけど……」 「…………」 「……なに?」  何か言いたげに見つめてくる恵太の眼差しに若干後ずさりしながら峻祐が訊ねると、恵太は薄いそばかすのある鼻先に人差し指を差し出して峻祐に向けてこう問うてきた。 「……峻ちゃんって、ゼツリン?」 「はぁ⁈ 恵太! どこでそんな言葉……」  考えもしなかった単語を、思ってもいなかった人物の口から聞いて、流石の峻祐もカウンターの椅子から立ち上がってしまう程だった。  ついこの間まで、赤いバイエルのどれそれの曲ができないとごねていたショートボブのお子様だったくせに……と、峻祐は唖然とする思いで今は長めのツーブロックヘアの恵太の顔を見ていた。  しかし恵太は峻祐の胸中など知る由もなく、「え? 友達がね、彼女がおねだり激しーって……」などと言うものだから、峻祐は立ち上がった勢いでその頬を思わず摘まんだ。 「お前ね! 優愛の前でそんなこと言うもんじゃないよ!」 「ひ、ひたいよ、峻ひゃん~……」  カウンターの隅に置かれた優愛の写真の前で迂闊に下世話な会話をしてしまったのを、峻祐は今更に後悔しながら恵太の頬を抓る指先の力を込める。  そして、すぐさまひとつの考えが浮かんで口にしてしまっていた。もしや、さっきの言葉は友達の話ではなくて……恵太自身の体験談だったり……? 「……まさか……恵太、もう……」 「ちょっと! もう、放してよ! ……いったぁ……え? ぼくが、なに?」  身を捩って峻祐の手を振りほどいた恵太の目にはうっすら涙が浮かんでいた。  ほんのり赤くなった頬を擦りながら恵太が峻祐を睨みつけると、峻祐はその気迫に思わずたじろいでしまった。  幼馴染の息子の性生活など、不躾に訊けるほどあけっぴろげな関係ではない。それはまるで自分の親兄弟にそれを訊ねるようなものだろう。  気まずい沈黙が二人の間に漂っているその時、表で閉店作業をしていた理輝が戻ってきた。 「ねえねえ、今夜満月みたいだよ~。すごく月が綺麗……あれ? どうしたの?」  頬を擦って峻祐を睨む恵太と、気まずそうに顔を反らしている峻祐の二人の顔を理輝は交互に見つめて首を傾げていたが、やがてこう言ってきた。 「二人とも、お腹空いたの? それでまた喧嘩したの?」  先程の事情を知らない理輝の全く的の外れた言葉に、峻祐は顔を背けたまま吹き出し、やがて腹を抱えて笑い出した。  恵太は、最初こそ、弁明するように口を開きかけたが、やがて大笑いしている峻祐の姿につられるように笑いだした。  理輝は、やはり事情が呑み込めずきょとんとしているばかりだった。その姿に、恵太と峻祐は顔を見合わせてさらに笑っていた。  ひとしきり笑い合った後、息を整えながら峻祐は涙の滲んだ目尻を抑えて理輝に言った。 「そ、腹減ったんだよ。なんか食いに行こう」 「ぼく焼き肉がいい!」  いいねぇ、と峻祐が同意して、二人また顔を見合わせてにやにやと笑い合った。  ワケはわからないが、二人が珍しく意気投合して楽しげなので理輝も嬉しくなってきたようで、「いいね、行こうか」と、同意してくれた。  恵太はちいさな子どものようにやったぁ! と言って飛び跳ねていた。 「んじゃ、早く行こうよ、ぎゅうぎゅう亭」  ぎゅうぎゅう亭とは、この辺りで唯一の焼き肉店だ。安い肉を腹いっぱい食べられる店で、昔から佐藤家では焼き肉に行くと言えばこの店だった。  焼肉と決まれば店じまいも早く、峻祐まで閉店作業を手伝いだす始末だった。  店のシャッターを下ろし、ふんわりとあたたかな夜気の漂うひと気のない商店街の中を、峻祐と理輝の間に恵太が入り、三人横に並んで歩いていた。 「ハラミと、カルビ食べたーい」 「俺タン塩でいいかなぁ」 「峻ちゃん、それじゃあスタミナ付かないよぉ」  大声で食べたいメニューを口にしながら歩いていたら、恵太がそう峻祐に揶揄(からか)うように言ってきて、峻祐は軽く恵太のおでこをはじいた。「大きなお世話だよ」と、言いながら。  はじかれたおでこを擦りながら、恵太も舌を出して顔を顰め、峻祐もそれに顎を突き出すような変顔をして応じる。そしてまた、二人笑い合っていた。  理輝はそんな幼い兄弟のような二人の姿を、おかしそうに少し不思議そうに眺めながら微笑んでいた。
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