*7 不機嫌な音色 ~side S~

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*7 不機嫌な音色 ~side S~

 五月の大型連休が過ぎ、やがて雨ばかりが続く梅雨の時期が来た。  梅雨の時期は雨宿り客が時折ありつつも、常連客の足が遠のくのか基本的に店は暇で、峻祐だけがいるような日も少なくなかった。  今日は期末試験期間中のため、恵太は昼で帰宅してシュガーのカウンターで店番しつつ参考書や教科書を広げていた。  理輝が作ったまかないのナポリタンをつつきながら、恵太は苦手な化学の教科書を捲っては溜め息をついていた。 「もー……テスト、ウザい~……」  ケチャップソースで赤く染まった口を大きく開けながら嘆く恵太の姿は、赤いバイエルの曲ができないと愚図っている時と大して変わらないな、と峻祐は思わず笑ってしまった。  明らかに自分を見て笑っている峻祐に、恵太はムッとして軽く睨みつけるも、峻祐は忍び笑いを止めない。  口元にケチャップがついているぞと言うように峻祐が口許を指すと、恵太は更にムッとして紙ナプキンで口元を拭った。 「さっきから何笑ってんの」 「……変わんないなぁ、恵太は、って思って。バイエルの時も同じようなこと言ってグズグズしてたなぁって」 「……うるさいなぁ」 「まあ頑張りな。学生の仕事なんだから」  恵太の隣の椅子に座る峻祐は、そう言いながら恵太の頭を撫でた。  子猫のように心地よさそうに峻祐の掌に撫でられるままにしている恵太の姿を、峻祐は何かを慈しむような眼差しで見ていた。 「ねえ、峻ちゃんってさ」 「うん?」 「海外に行ったことあるの?」 「仕事でってこと?」 「仕事でも、遊びでも」 「まあねぇ、どっちでもあるよ」  期末テストが終わり、梅雨が明ければ恵太は夏休みに入る。  客商売をしているのでなかなかまとまった休みは取り難い理輝に代わって、峻祐が幼い頃の恵太を連れて出掛けることもよくあった。  遊園地だとか海水浴だとか、わかりやすいアウトドアなレジャーは峻祐が苦手なため、その代わりに映画や水族館、ライヴハウスなどに連れまわすことの方が圧倒的に多かった。  そのせいか、昔から派手な格好をしていることが多い峻祐が、恵太を誘拐している輩だと思われて職質を受けることもなくはなかった。  そんなことを思い出しながら、峻祐が、「なに? 海外連れてけとか言うの?」と、苦笑交じりに問うと、恵太は首を横に振った。 「まさか。ぼくそこまで図々しくないよ」 「どうだかぁ。恵太のひと口ちょうだいは全体の半分だからね」 「人を大喰らいみたいに言わないでッ。……そうじゃなくってさ、峻ちゃん、ぼくが生まれる前ってどこにいたの?」 「恵太が生まれる前…?」  思いがけない問いかけに峻祐が首を傾げると、恵太は頷いて言葉を重ねた。 「そ、ぼくが生まれる前から……ウチに来るまで」 「……なんでそんな今更……」  今から十七年前から十年前にかけて、恵太親子と峻祐の間には空白の七年間がある。そのことについて恵太は峻祐に訊ねているのだろう。  あの当時峻祐はスタジオ専任のピアニストとしてとあるスタジオでサポート業を請け負い始めていた。  ゲイとしての素性は今よりもずっと慎重に隠しながら、ノンケのふりをして暮らしていた頃で、何年も浪人した上に何年も留年を重ねていた音楽学校の在籍期限も迫っている頃でもあった。  ピアニストになることをピアノ講師だった母親から熱望され、気が向かないまま何度も受験させられた音大だった。  しかし校風の堅苦しいことを嫌う峻祐の性には合わなかったのだが、浪人と留年を重ねている手前言い出せないままずるずると過ごしていた時期だった。  実家の親からは将来の身の振り方をどうするんだとせっつかれていたが、聞こえないふりをしていた。  そんな鬱屈としたある日に、峻祐はひとつの過ちを犯した。それは――  峻祐は蓋をしていた記憶に想いを巡らせ、そして開きかけていた口を閉じて恵太から顔を背けた。 「……俺がどこで何してただろうが、恵太には関係ないでしょ……理輝に聞きなよ」 「父さんに訊いても知らないって言うんだもん。ねえ、どこで何してたの? 海外にいたんでしょ?」 「……だったらなに?」  過去の触れてほしくない記憶に直に触れられた気がした峻祐は、あからさまに顔をしかめて振り返った。  しかし当の恵太はそんな顔を向けられても気にする素振りはなく、それどころか、「ねえねえ、どこにいたの? 峻ちゃんジャズ上手いからアメリカの南部とかにいたの?」などと無邪気に質問を重ねてきた。  忌々しい……その無邪気さを装って不躾にこちらの領域に踏み混んでくる無遠慮な明るさが、本当に彼女に似ている――峻祐は苛立ちが段々と募っていくのを止められなかった。 「……あー……まー……そんな感じ……」 「ねえねえ、じゃあさ、現地の人とセッションとかってしたの? ステージに呼ばれたりとかは?」  矢継ぎ早に向けられる恵太からの質問の言葉に、峻祐は曖昧に答える事さえも止め、カウンターに頬杖をついたまま黙り込んだ。 「……峻ちゃん? どうしたの?」  大人げない態度なのは解っている。だけど……どうしてもこの話題は、恵太からは訊かれたくなかったのだ。  峻祐は大きく溜め息をついて、いつも以上に気だるげに椅子から立ち上がり、ポケットから小銭を出してカウンターに置いた。  滅多にしないその場での支払いに、恵太が驚いて立ち上がり声を掛けて峻祐を呼び止めるのも振り払うように、峻祐はシュガーを後にした。  朝から降りやまない雨が峻祐と恵太の間にも暗雲のように立ち込め、二人を隔ててしまった。まるであの時の、彼女とのように。  峻祐は三階の自室へと続く薄暗い階段を昇りながら、大きく溜め息をついた。 「――……お前は悪くないんだけどね、恵太……」  部屋の鍵を開け、暗い仕事部屋――ピアノ教室を行っている防音室に入り、峻祐はアップライトのピアノの蓋を音を立てて開けた。  そして、その前に座り、深呼吸で息を吐き出すとともに激しく鍵盤を叩いて曲を奏で始めた。  叩きつけるように、叫ぶように、峻祐は一心にピアノを弾き続けた。  雨音の合間を縫うように、峻祐の奏でる音色は言葉にならない想いを乗せて溢れた。
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