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*8 思い出の謎 ~side Boy~
佐藤ビルの二階は理輝と恵太、佐藤家の居住スペースになっている。
四畳半ほどの洋間が二部屋、それぞれ理輝と恵太の自室で、同じくらいの広さのキッチンとダイニング、それから風呂とトイレが付いている。
優愛が存命の時は恵太の部屋が家族の寝室で、理輝の部屋がリビングと言うか居間のようなスペースだった。
恵太ももう十七歳なので、幼い頃のように理輝の部屋に出入りすることはほとんどないが、時折――例えば、優愛の月命日などに、極たまに部屋の本棚の隅に置かれている夫婦のアルバムや結婚式の映像を見に来ることがある。
「あ、この曲好きー。昔のバンドの曲なんでしょ?」
シュガーの月一の定休日、理輝のベッドに寝ころびながら、テレビ画面に映し出される結婚式の映像を見て恵太が理輝に大声で訊ねる。恵太は今夏休みの只中だ。
キッチンで昼食を用意している理輝が、炒め物をしていた手を止めて開け放った部屋の入り口から顔を覗かせた。
「え? なに?」
「だからさ、このいま峻ちゃんが弾いて唄ってる曲、昔のバンドのでしょ? って」
「ああ、うん、そうだよ。母さんが好きだった曲だよ」
「歌詞の“甲斐性のない僕”っていうの、父さんのことみたいだね」
ほんの数年前なら峻祐のピアノと唄声に素直に感動して、着飾った理輝と優愛の姿にはしゃいでいたのに……いまではそんなことを言うようになった恵太の生意気な口ぶりに、父親は苦笑していた。
画面に映し出されているのは、喫茶・シュガーを披露宴会場に飾り立てた時のものだ。
お金がなかったふたりは、喫茶・シュガーを貸し切りにして会費制の立食パーティー披露宴を開いた。
店の最奥で一張羅のスーツを着た理輝と、知り合いに頼んで仕立ててもらったドレスを着た優愛がしあわせそうに微笑み合う姿が画面に映し出されている。
そのシーンになると、いつも恵太は口を噤んでしまう。どんなにそれまで喋っていても、そのシーンになると言葉が出なくなるのだ。
このしあわせそうな彼女が、これから十数年もしない内に自分を産んで、そしてこの世から消えてしまうだなんて……悲しみよりも不思議な妙な感覚が恵太をいつも包むように覆うからだ。
(―――……しょぎょーむじょー……って言うんだっけ?)
風の前の塵に同じ……と、自分にだけ聞こえる声で呟きながら、恵太は無言で画面を見つめる。
やがて画面は立食パーティーを行っているシュガーの映像に切り替わった。
招待客たちが理輝の母・舞子と理輝が作った焼き菓子や、父・治夫が用意した自慢のコーヒーを食している姿の狭間に、BGMのように峻祐が奏でるピアノの音色が流れている。
カメラが、シュガーに現在も置かれているアップライトのピアノの前に座って演奏する峻祐の姿を捕らえて映し出していると、ふと、恵太は理輝にまた訊ねた。
「ねえ、父さん」
昼食作りに戻ろうとしていた理輝が振り返ると、恵太はテレビの方を向いたままでこう言った。表情は、いつもの彼だった。
「峻ちゃん、この時って三階にいたんじゃないんでしょ?」
「ああ、うん……確か、都心でマンション借りてたんじゃなかったかな。まだ学生だったかなんかで。よくうちに遊びに来てたんだよ。メシ食わせてくれーってねぇ。シュガーにも時々顔出したりとかして」
今もあんまり変わんないかな、と当時を思い出しているのか、理輝は映像を眺めながら懐かしそうに目を細めて話す。苦笑はしているが、見様によっては嬉しそうにも見える表情だった。
そんな理輝の姿を横目にしながら、恵太は更に言葉を重ねる。
「ふーん……じゃあなんで、峻ちゃん、この後行方不明になっちゃったの?」
「……行方不明って言うか……僕らも峻祐も忙しくて……連絡取りあわなくなって……あんまり、会ってなかったって言うか……」
三人の昔話や結婚式当日……恵太が生まれるまでの間の話は、理輝も峻祐も詳しく饒舌に話してくれる。
なのに、結婚式の後から自分が生まれる辺りになると途端に言葉を濁すようになるのが、以前から恵太は気になっていた。
幼い頃は今の理輝の言い訳を鵜呑みにしていたが、高校生ともなるとただそれだけで納得するほど単純ではない。
恵太はこれまでにも何度かこの手の話は理輝にも峻祐にも振ってきたのだが、ふたりとも……特に峻祐はこの話題になると途端に不機嫌になるため、詳しく聞く事が出来なかった。
つい先日も峻祐に話の水を向けてみて不機嫌にしてしまったばかりだ。
しかし、自分の出自に全く関係がないとは思えない時期のことではあるので、恵太はどうしても知りたくて仕方なかった。
「でもさぁ、家ぐらい知ってたんでしょ? どこで何してたかとか。それなのに…結婚式で演奏もした幼馴染夫婦の子どもが生まれても会いにも来ないもんなの?」
数年間行方知れずだった峻祐が恵太に初めて会ったのは優愛の一周忌の頃、法要の代わりにシュガーで身内だけでお茶会を開いていた日の午後にふらりと現れた時だった。
その時に峻祐は優愛の死と、恵太の存在を知ったのだ。
「……峻祐は、ちょっと変わってるから……」
「ずっと仲が良かった幼馴染が死んでも……お葬式にも来ないくらいに……?」
「……それは、連絡が付かなかったから……」
いつもの言い訳を繰り返す理輝の顔を、恵太はまっすぐに見つめる。
峻祐はいつもここで視線を外して不機嫌そうに顔を背け、理輝は申し訳なさそうに俯き気味にそっと視線を外す。これも、いつものと変わりない。
(――父さんは、嘘をついてる……峻ちゃんも……でも、その理由が、わからない……)
しっとりと湿った沈黙が、エアコンの冷たい風に吹かれて二人の間に綿のように転がる。遠く、道を行きかう車の音とセミの鳴き声が聞こえた。
「……ごはん、食べようか……」
冷めちゃったから、温めなおすね…と、言って沈黙と会話を打ち切ったのは理輝の方だった。
恵太が呼び止めようと口を開きかけたけれども声は出ず、背を向けて去ってしまった。
再びキッチンの方から聞こえだした炒め物をする音を聞きながら、恵太は釈然としない想いを抱えてテレビ画面の方を見た。
テレビでは、新郎新婦とその家族、友人知人たちが揃って記念撮影をしている最後のシーンだった。
その隅の方に、黒い例服姿の今よりも痩せっぽちに見える、黒くて長い髪を後ろに結わえた峻祐の姿が映し出されていた。
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