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夜も更け、月が照らす光すらも越える、まばゆいネオンがぎらぎらと輝く。さすがは眠らない街と言われるだけに、街はジャラジャラとした音や、道行く人々の話し声が騒がしく響いている。
男は一人歩いていた。濃紺のスーツを身にまとい、実際の年齢からは随分と若く見える端正な顔に薄らと笑みを浮かべ、短い黒髪を風になびかせていた。その足が向かうのは、この街で一番背が高く、街の中心に存在するビル。足取り軽やかに、男はそこを目指していた。
お世辞にも治安がいいとは言えない街。男が手に下げた袋を揺らしながら歩いていれば、幾人かの男たちが寄ってくる。その顔にはニタニタといやらしい笑みを浮かべていた。男がぴたりと足を止めれば、男たちは下卑た声で話しかけてくる。その声は実に粗暴で、醜ったらしいものだった。男は足こそ止めたものの、話しかけてくる男たちなどという風に、上機嫌な様子で鼻歌を歌っていた。男たちがその様子に苛立ちを見せ、一人が男へと殴り掛かる。しかし、そのこぶしが男に届くことはなく、ひらりと躱される。そして男は容赦なく、こぶしが空振りしたことでよろけた体に、鋭い蹴りをお見舞いした。
男は、驚く男たちを横目に、懐から取り出した煙草に火をつける。じわりと肺の中を煙で満たし、その煙をゆっくりと吐き出せば、ゆるりと紫煙が立ち昇る。男は煙草をくわえたまま、ゆっくりと空手の構えをとる。一瞬の後、繰り出された掌底は軽々しく男たちのうち一人を吹き飛ばす。男は構えを解かずに、男たちを鋭い視線で射貫いていた。男たちはそれに気圧され、みっともない捨て台詞を吐きながら、その場を去っていった。
男はゆっくりと構えをとくと、くわえていた煙草を携帯灰皿の中へと押し付けた。そして、呆れたように一つため息をつく。
「この街で俺に喧嘩を吹っ掛けるとは……、さてはあいつら、お上りさんだな?」
男は一言そう呟くと、苦笑を浮かべながら、先ほどと同じように足を進めた。
カツリカツリと音を立て、男はビルの非常階段を上っていた。嫌になりそうなほど騒がしかった街の喧騒が、街の中で最も空に近いこの場所へとやってくれば、噓のように静かな世界へとなった。響くのは男の呼吸音と足音、吹きすさぶ風の音くらいだった。
男が階段を上り切り、空を見上げると、地上にいた時よりも月が遥かに近かった。目線を少し下げれば、先ほどまでは目に痛い光を放っていたネオンが、輝かしく美しいものに見えた。
男はその場に腰を下ろし、持っていた袋から一缶、酒を取り出した。カシュっと音を立てながら缶を開け、ゆっくりと月に向かって、缶を掲げた。
「……親父がいなくなってから、もう何年になりますかね。俺は変わらずにやってますよ」
男はゆっくりと言葉を紡いでいく。その横顔は随分と寂しげなものだった。
「親父、俺はちゃんとできてるんですかね。毎日不安でしょうがないんですよ。俺みたいな奴が、あなたの跡をちゃんと務められてるのか」
男は掲げていた腕を下ろし、端正な顔を俯かせた。そして、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「……なにやってんだろ。こんなことしたって、親父が答えてくれるわけないのに……。ほんと、ばかだなあ」
男はまた一つ、酒を喉へと流し込んだ。
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