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僕は静かな朝を求めていた。
六月上旬。この時期にはよく雨が降る。僕は鳴り響くアラームを少し乱暴に止める。大好きだったこの曲も、今ではものすごく鬱陶しい。
横を見ると、隣で気持ちよさそうに彼女の梓が寝ていた。しかし、そんな彼女のイビキ掻き消すほどの強い雨が、勢いよく地面を叩きつける。
僕は早起きが嫌いだ。
早起きをすると、なんで今日も世界は回っているんだろう。なんて恐ろしいことを考えてしまう。まだ太陽が出ていない中起きると、人生の全てが嫌になって、とことん自分を否定したくなる。
それでも、僕が唯一受かったのがコンビニの朝番だったのだからしょうがない。
重い体を起こし、とりあえずテレビをつけてみる。しわひとつないスーツを纏ったアナウンサーが、今日も明るく動物の紹介をしている。僕は顔を洗い、洋服を着替え、食パンに少しバターを塗ってそのまま口に詰め込むと、家を出た。梓の
「いってらっしゃい」という寝ぼけた声が聞こえる。
街はまだ眠っていて、そこには閉ざされたシャッターと屋根の下を呑気に歩く数羽の鳩の姿があるだけだった。
雨は傘に当たると少し不思議な音がする。僕は薄汚れたビニール傘を見つめ、ため息を一つつくと少し早足で歩いた。
朝は仕事にも身が入らない。接客するのもめんどくさくなり、適当になっていると「箸つけろよ」とスーツをきた男に怒られた。「すみません」と単調な声で返し、僕はまたため息をついた。
仕事が終わる頃も雨は止んでいなかった。
僕はまた傘をさし、街を歩いた。雨水を切る車の音が煩かった。
「ただいまー、、、梓?」
家に帰ると、僕が帰ってきたことにも気づかず、梓は大音量で好きなアイドルのライブ映像を見ていた。
彼女は僕の存在に気づくと、「帰ってたんだ」と僕の方を一瞬だけ見て言った。しかし、「きゃー!かっこいい!!!」と彼女の甲高い声が部屋に響くと、僕は反射的に「うるさい!!!」と口にしていた。
それから僕らは口喧嘩をすると、彼女は僕の頬を叩き、家を飛び出した。これが僕らの最初で最後の喧嘩だった。
僕には静かな夜が訪れるはずだったのに、外からは雨が屋根や地面に当たる音と、救急車のサイレンが聞こえてくる。
相変わらず、世界は雑音に溢れていた。
次の日の朝。久しぶりに彼女のイビキが聞こえない朝だった。しかし、雨の音が止むことはない。
「いつまでこんなうるさい朝が続くんだろう…」
そんなことを考えながらまた僕はコンビニへ向かった。
この時間は、いつも朝を急ぐサラリーマンばかりだ。メガネの彼には箸をつけて、四角い顔のおじさんはタバコの3番を、前髪のない彼女には出来立てのハッシュドポテト。決まりきったルーティン、味気のない毎日。
「いらっしゃいませー」
僕はいつもの通りやる気のない声で言うと、ある女性に声をかけられた。
「すみません…」
「はい?」
「このビル、どこか知ってますか?」
「ん?」
予想外の質問に僕は言葉が詰まった。幸い知っていた、というかこの辺で一番高い建物だから知らないわけもなかった。僕が行き方を教えると、彼女は「ありがとうございます」と言って、立ち去ろうとした。が、もう一度振り返って言った。
「あの、加藤さん、ですか?」
僕は知り合いかと思ったが、名札をしているのでそうとも限らない。
「そう、ですけど」
僕がそう言うと、彼女は「そうですか、ではまた来ます」と言って会釈をすると、コンビニを後にした。
なんだったのだろうか。
次の日も、彼女は訪れた。僕に軽く会釈をすると「これください」と梅おにぎりをレジの上に置いた。僕が会計を済ませると、僕よりも先に「ありがとうございました」と言い、立ち去っていった。
そんな日々が一週間ほど続いた頃。僕はとうとう声をかけた。いつもの通り彼女がおにぎりをレジの上に載せると僕は、「出版社で働かれてるんですか?」と尋ねた。
すると彼女は「え?」と驚いた後、「よく分かりましたね」と言った。
まぁ、あのビルは出版社の会社だし。
「この本が好きなんです。それで、どうしてもこの出版社に行きたくて」
僕はその本に見覚えがあった。
あれは僕が高校二年生の頃。いつも教室の端っこの席で静かにこの本を読む女の子がいた。彼女は物静かで凛としていて、だけどもきちんと自分を持っていて、僕とは正反対の人間だった。
「もしかして、菊沢さん?」
僕がそう言うと、彼女はこくりと頷き、小さく笑った。
彼女はとても綺麗になっていたが、凛とした立ち振る舞いはあの頃と変わっていなかった。
それからも、彼女は毎日同じ時間に来ては、おにぎりを買って仕事場へ向かった。
僕と彼女が会話するのは、レジを打つその時だけだった。「今日は寒いですね」とか「その傘素敵ですね」とか「今日も頑張ってください」とか。そんな他愛もない会話しかしなかったけれど、僕にとってこの時間は好きな時間になっていた。
そんなある日、僕はまたいつものようにレジを打ちながら彼女が来店するのを待った。ドアの開いた音が聞こえ「いらっしゃいませー」と言うと、大柄な男が入ってきた。僕は目を逸らし、レジ周りの整理をしていた。
すると、その男は「おい」と僕に声をかけてきた。
「はい、どうかなさいましたか?」
僕は普段通りの声のトーンでそう聞いた。すると、男は僕に近づき上から見下ろしてきた。僕より20センチほど高い。おそらく190センチ超えているのではないだろうか。威圧感が半端なかった。
「てめぇか、加藤ってのは」
「えっと、どちら様で…」
「梓の彼氏だ」
もうあれから一ヶ月経っている。梓に彼氏が出来ていてもなんらおかしくはなかった。ただ、自分とはあまりにも違うタイプの男だったので、僕は衝撃を受けた。
「そう、なんですね」
「どんな奴かと思って来てみれば、大した奴じゃなさそうだな」
「梓は元気なんですか?」
「あぁ、あたりまえだろ。お前に未練の一つもないってのは本当みてぇだな。悪かったな。仕事の邪魔して」
男はそう言うと、スタスタとコンビニを出て行った。
正直言うと、まだ復縁のチャンスはあると思っていた。でも、それはもう叶わぬ夢だと知って、僕は仕事中にも関わらず泣きそうだった。
そんな時、菊沢さんがコンビニに入ってきた。彼女は僕の異変に気づき、話を聞いてくれた。僕は泣くのを必死にこらえた。
「今日の夜、空いてますか?話、ちゃんと聞きますよ」
僕はその日、彼女の行きつけだという居酒屋に行き今までの全てを話した。彼女は優しい表情で、僕の話をずっと聞いてくれた。きっと、優しい母親と話すと、こんな気分になるのだろうと僕は思った。
ーーーーその日の夜、僕は昔の夢を見た。
僕の両親はよく怒鳴る人たちだった。
父が深夜バスの運転手で家に帰ってくるのが朝だったから二人はいつも早朝に喧嘩していた。休みの日に少し遅く起きると、父は寝ていて、母は仕事に行っていてとても静かだった。
あの日のことは今でもよく覚えている。土砂降りの雨の日。二人は今までにないほどの大声で喧嘩をした後、自分たちは離婚すると僕に告げた。もう喧嘩を聞かなくていいはずなのに、僕はなぜだか涙が止まらなかった。あの日の夜は水の入ったバケツをひっくり返したみたいな大雨で、出ていく母を必死に止めようとする幼い僕の声は母の元には届かなかった。
ーーーー浅い眠りの中で、二人の喧嘩の声と、出ていこうとする母を止める僕の声が聞こえる。これが夢だと気づいても、僕はこの夢から覚めることが出来なかった。
「はっ…」
大音量で流れる目覚ましの音で、僕はようやく目を覚ました。夢の記憶は少しずつ薄れていくのに、僕の涙は止まらなかった。
僕は泣き顔を消したくて顔を洗い、支度を始めた。僕の心を写すかのように、雨が止むことはなかった。
この日のバイト帰りも僕の気持ちは晴れないままだった。雨の音をかき消すために、僕はイヤホンをつけて帰路についた。
人通りの多い道に来ると、仲良く相合傘をしているカップルの姿が目に入った。僕がふと目をやると、それは梓とあの彼だった。
僕が思わず足を止めると、僕の左耳からイヤホンが落ち、ザーという雨の音が僕の耳を勢いよく通り抜けた。
この世界は相変わらず五月蝿かった。
次の日、レジを打ちながら僕は菊沢さんをご飯に誘った。菊沢さんは驚きながらも「いいですよ」と言ってくれた。
その日の夜、僕はおしゃれなレストランで彼女を待った。
「あ、場所わかりました?」
「はい。地図見たので。それと、敬語じゃなくていい、よね?店員さんとお客さんじゃないし」
「あ、そう、ですよね。あ、そうだよね」
「ふふっ、変なの」
「しょうがないだろ、慣れないんだから」
スーツを着ていない彼女の姿を見るのは初めてだったが、淡い水色のワンピースはとてもよく似合っていた。
しかし、菊沢さんと会っている間も梓の兄の言葉を忘れられなかった。
「どうしたんですか?浮かない顔して」
「ん?いや、なんでもないよ」
「梓さんの事が気になるの?」
「え?」
「今日、私を誘ったのだって、話を聞いてもらいたかったからでしょ?」
「え、うん、そうなのかも…」
「いいよ、遠慮なく話して」
「でも、梓のこと知らないだろ?」
「ううん。知ってるよ。高校同じだったじゃない」
「あ、そっか」
「うん。それで?二人はどうして付き合うことになったの?」
「うーん、仲の良いグループが一緒だったから、かな?」
「そうなんだ」
「なんか、僕たち結構その、うるさいグループにいたんだよ。梓はその中心みたいな人でさ。いつも明るく僕たちの太陽みたいな存在だった。だから、僕は好きになった。だけど、最近すごく鬱陶しく感じちゃって。梓が、というより世界から聞こえるどんな音もうざったくなっちゃって」
「私の声も?」
「あ、ううん。菊沢さんの声は自然と落ち着くから」
「そっか。声にも相性ってあるのかな」
「どうなんだろ、考えたことなかった」
「うん。私も」
それから、僕らはよく二人で出かけるようになった。美術館とか、博物館とか僕らが行きたいと思う場所は、不思議と静けさのある場所ばかりだった。
告白も、静かな星空の下でだった。
「ねえ」
「なに?」
「どうして、僕の告白に答えてくれたの?」
「どうしてって、好き、だから?」
「正直さ、僕に好きになる要素なんてなかったでしょ。僕だったら嫌だよ。元カノと別れて出来た心の穴をふさごうとしてる奴みたいだし、面白い人間でも、お金持ちでもないし」
「そう思ってるなら、なんで告白したの?」
「それは、好きになっちゃったから…。でも、そんなこと言っても説得力ないでしょ」
「なになに、自分から言っておいて」
「いや、そうなんだけど。そうなんだけど、そう思われてて当然だし、なにより菊沢さんが僕のこと好きじゃないのに付き合ったらきっと苦しい思いさせちゃうから。どうしたらいいか、わからなくなっちゃって。本当最悪な奴だよね、告ったあとにこんな話…」
「私も同じだよ」
「…え?」
「昔から好きだった人に会えて嬉しくて、話聞くふりして二人の時間作って。元カノさんと関係戻さないようにして。自分を最低な奴だと思ってる。そんな気持ちで関わっていたこと、私も謝りたい。ごめんなさい。告白、取り消してもいいよ。今なら後悔はないから」
菊沢さんはゆっくりと、自分に気持ちを確かめるかのように言葉を口にした。
「まさか…。好いてくれてたなんて嬉しい限りだし。それに、あの時僕にくれたアドバイスとか、言葉は間違ってなかったし、菊沢さんに相談して本当に良かったと思ってるから」
「そう?なら、私もあなたと話せて良かったし、嬉しかった。だから、同じ時をもっと共有したいの。それだけで、告白に答えたらダメかな?」
「ううん、ダメじゃない。ありがとう」
「私は、高校の時も今も、明るくて面白い君が好きなんじゃなくて、君の笑顔が好きだった。君はすっごく嬉しそうな顔して笑うからさ。私たち、きっと完璧じゃないけど、正直に言い合える関係になりたい。溜め込む前に、自分が相手が苦しくなる前にちゃんと気持ちを口にしようよ。それで、お互いの前で心から笑える時間をたくさん増やしたい」
「うん。菊沢さんはやっぱりいい事言うよね」
「あははっ。そう、その顔が好きなの。すごく」
「嬉しいんだもん。本当に。出会ってくれてありがとう」
今までの僕は、誰かを傷つけまいと心を隠し続けていたのかもしれない。それが正解だと思っていたから。でも、結果的にはその気遣いは苦しい感情を生み出してしまう。相手にとっても、自分にとっても。
だけど、僕らはこの日から沢山の言葉を交わした。時には意見が食い違うこともあったけど、不思議と苦しくはなかった。
人とぶつかることは怖いことではないと僕は知ったのだ。むしろ、言葉をぶつけ合える相手がいる事がどれほど大事なことか彼女は教えてくれた。言葉を飛ばしても相手に届かないことだって、言葉が交わることなくただただ相手を傷つけてしまうことだってある。だけど、僕らが言葉をぶつけたら、その重たい言葉の玉が割れてあっという間にバラバラになる。そしてその破片を大切に心の中に閉まっている。
僕らの間で生まれてくる言葉は、自分都合の感情をぶつける言葉ではなく、相手とこれからも幸せでいるための言葉だと僕らは知っていた。
そんな事毎日が続いたある日、菊沢さんが僕の家に泊まりにきた。誰かと過ごす夜は久しぶりだった。
ーーーー朝、僕は目を覚ますと、また雨の音が聞こえた。土砂降りの時の雨の音。僕はゆっくりと体を起こし、目を擦った。
しかし、窓を見ると驚くほどの晴天だった。
僕は再び耳を澄ますと、今度は乾いた音がトントンと響いていた。僕は起き上がりキッチンへ向かうと、菊沢さんが料理を作っていた。
「その音…」
「あぁ、唐揚げ作ってるの。お昼のお弁当用の」
「おかず、いつも作ってるの?」
「うん。おにぎりだけはあなたに会いたくていつも買ってた」
「え、本当?嬉しいな」
「ふふっ。そう?」
「うん。ねぇ、この音さ雨の音みたいじゃない?」
「本当だ。良い音だね」
「そう?雨は嫌じゃない?」
「ううん。雨が傘に当たる音が好き。それに、唐揚げを揚げてる時の音みたい、でしょ?」
「ははっ。そうだね。僕、雨は嫌いだったけど次に雨が降ったら、きっと今日のことを思い出すよ」
彼女がふふっと微笑むと、僕は菜箸を持つ彼女の手を引き寄せながら、「好きだよ、静香」と言った。彼女はまるで花がそよ風に揺らされているかのように優しく微笑み、「私も」と頷いた。
静けさの中に、心地よい料理の音と彼女の温かい声が飛んでいる。
今日は久しぶりに良い朝だった。
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