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カツカツと音を立ててチョークが美しい文字を綴る。じっとりと蒸し暑い教室のなかで、そこだけすこし空気が違って見えた。
月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
我が身ひとつは もとの身にして
雪乃先生は書き終えた歌を眺めてから振り返った。
「恋人を失った在原業平が詠んだ和歌です。これを訳してもらえるかしら。じゃあ、水原美月さん」
指名されたあたしは立ち上がるまえにさっと目を走らせて机の周りやクラスメイトの様子を確かめる。スカートが汗で腿に貼りついていた。
「月は変わってしまった。春も去年までの春とは違ってしまった。自分はなにも変わっていないのに、まるで他のものはすべて違うものになってしまったようだ」
雪乃先生は「そうです」とにっこり笑った。腰を下ろす前に、もう一度椅子や机の周りを確認する。
「恋人と過ごした場所を眺めながら二度と会えない人を想う。業平のさみしい気持ちが伝わってくるようです」
先生はそこで目を伏せると「本当に切ない歌ですね」としみじみ言った。
なんか実感こもってない? そう思って隣りに目を向けると、親友の沙夜ちんも思うことがあったのかあたしたちの視線は同じタイミングでぶつかった。
教室のすぐ外で蝉が鳴きはじめた。ジ、ジジ、と調子を確かめるように短く鳴いたあと、ジージージージーと一気に全力運転をはじめる。やかましさにつられて空を見れば、強烈に照りつける太陽が浮かんでいる。切ない月夜の余韻など吹き飛んでしまった。
雪乃先生も窓に目をやると「ちょっとイメージしにくいわね」と苦笑しながら言った。
せっかくの夏休み初日なのに、期末テストの成績が悪かったあたしはたった一時間の補習を受けるために登校している。本当なら古典は大得意なのに、いつものアンハッピーが発動したせいでこうして沙夜ちんと席を並べるはめになってしまった。
雪乃先生が腕時計に目をやった。壁の時計をみると補習時間は残り五分を切っている。先生はページをめくった手を止めて、考え込むように教科書に目を落としている。
(残り五分だし、もうやめようよ)
祈るような念を向けると、雪乃先生は顔を上げた。
「月といえば、みなさんは知ってますか? 月は地球にいつもおなじ面を向けていることを」
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