9年目の春

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「最近、新しい本買ってないね」 総合スーパーの2階。エスカレーターで上がってすぐの本屋が目に入り、そういえばと思い声を掛ける。 「時間がなくて」 「本を読む時間? 」 「そう。実は物凄く勉強してる」 いつも飄々とした風で本気で何かに取り組んでいる様子を見たことがなかった蒼空君が打ち込むくらいの本気ってどれほどの威力を持つのだろうか。今までだって、あんなに本を読みながら好成績を収めていたいたんだ。きっと世界が変わる。 「俺、東京の大学を受けるつもりなんだよね」 タイミングを窺っていたように、満を持した口調で明かされたけれど薄々気付いていた。噂にも聞いていたし。でも欲を言えば噂でなんとなくわかってしまう前に蒼空君の口から聞きたかったなんて気持ちも少しある。けれど今それを言ったところでどうしようもないので全てを飲み込んだ。 「花は、地元の大学? 」 「まだ決めてない、けど、東京に出るほどでもない」 地元にだってそれなりに大学はあるし、それぞれの分野にも長けた専門もいくつかある。 今の私の目に見えそうな未来は地元で完結できてしまうんだ。逆に言うと私が東京に出る理由が、一つもない。 蒼空君は「そっか」と言うと子供をあやすように大雑把に私の頭を一度撫でた。 「俺、10年間、花の兄貴ができて楽しかったよ」 「兄貴? 同い年なんですけど」 「妹みたいなものじゃん。服のボタン掛け違えたりするし、途中で姿が見えなくなったりもするし。ほら、ノート買わないの? 」 気付いたら文房具売り場のノートのコーナーに辿り着いていて、蒼空君は私のよく使っているノートを手に取って渡してくれた。 「他に何か買うものは? 」 「……蒼空君に、シャーペンを買いたい」 頭の上にクエスチョンマークをいくつも飛ばしていそうな表情で「壊れてないし今のところ足りてるけど」とその場に固まる蒼空君。私自身も突発的に沸いたこの感情に理解が追い付かないまま、脳内を整理しながら話す。 「私があげたもので沢山勉強して、受験にも望んでほしい」 消えないもの。壊れてでも形で在り続けるもの。無くさない限り、意図して捨てない限りその手に在り続けるもの。 手にする度、視界に入る度に私を思い返すもの。 生まれて初めてってくらい真剣にシャーペンを選んだ。これから外れるイグジストリングに変わるような真っ赤でキラキラとした、そして簡単に壊れてしまわずに10年くらいは持ってくれそうな、高校生が持つには少し値の張ったシャーペン。 いつもどこか遠慮がちだったり引いた姿勢の蒼空君がすんなりと受け取ってくれて、私の気持ちを汲んでくれていることをありありと感じ取ることができて、それだけのことなのに満たされた気分になる。 きっとそんなの錯覚で本当は離れることへの不安を隠しているだけだし、そんな不安も蒼空君という存在に依存していることで生まれる錯覚なのかもしれない。 名前どころか形もない感情を抱えながら繰り返す日々の気温は着実に上がっていった。
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