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5
「まだあるで。夢香ちゃん、銭湯好きやろ」
「好きっちゅうか、激安アパートにお風呂ついてないから……」
夢香ちゃんの言葉を遮るようにして続ける。
「そんな夢香ちゃんにおすすめなんが、船岡温泉や。マジョリカタイルゆうお洒落で貴重なタイルが使われてたりして、大げさに言うと美術館みたいやねん。どや? 近所の銭湯とはちゃうやろ?」
「そりゃあ、違うわな。レトロでオシャンティーなんでしょうねえ。ええなあ。行ってみたいわ」
そう、あの日は、大学の夏休みに帰省したときのことだ。
実家のお風呂が壊れていて、歩いて数分のところにある船岡温泉にひとりで行った夜だった。
大学卒業まであと少し。
私は、定まらない将来に焦りと不安で頭がいっぱいだった。何十社と受けた就活、私は選ばれなかった。周りが苦戦しながらも就職を決めていく中、完全に取り残された。
辛い、ただただ辛かった。自分は社会から必要とされていない、誰からも認めてもらえない。
そんなとき、バイト先で仲良くしていた夢香ちゃんに、お笑い芸人にならないかと誘われた。『どうして私?』と尋ねると、夢香ちゃんは目尻を下げて言った。
『絵美ちゃんは、ハキハキしてて頭が切れるし、緊張してても冷静に見える。私にはないモノを持ってる。絵美ちゃんと一緒だったら、大きくなれるって思った』
夢香ちゃんの言葉は、深海をさまよって抜け出せなくなっていた私を救い上げた。妙にすんなりと私の心は決まった。
その日は、父と母に芸人になる決意を伝えに来たのだ。
案の定、父はうんと言わなかった。分かっていた。父は、手堅く、コツコツと人生を歩んできた人だ。普通に就職しない私を受け入れてくれるはずがない。
父の反対は、私自身を全否定された感覚に襲われた。だから、つい、言ってしまった。
『毎日、湿気た顔して帰って来てさ。役所の仕事、何が楽しくてやってんの? 安定安心のためですか? それだけやん。つっまんない人生。うちはそんなふうになりたない』
分かってる。父の人生を否定して、自分を正当化しようとしただけ。
居間から出て行く父の背中、こんなに小さかったっけ。
それから私は、芸人として一人前になるまで、実家に帰らないと決めた。そうして、あっという間に十年が経とうとしていた。
父は今、土木の現場を離れて、再任用としてイベント関係の部署で働いていると聞いていた。
だから、余計に期待してしまった。
「どや、北区のこと好きになったんちゃう?」
故郷での舞台が終わろうとしている。
私はこの街が好き。大好きだ。
息を整えて、観客席を見渡す。
観客席の奥、出入り口の手前で、私の視線と呼吸は止まった。
そこには、くしゃくしゃの笑顔で手を叩く、作業着を着た父の姿があった。
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