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美術の世界
自転車で等々力駅前にやってくると、辺りは薄暗かった。
会社帰りのサラリーマンが談笑しながら歩道を歩く。
往来をタクシーや自家用車が走り、駅のアナウンスが聞こえる。
飲食店の喧騒、チラシ配り、店の客引きなどで賑やかだった。
駅前の路地を入ったところに、俊栄美術研究所はあった。
路地裏は静かである。
ときどき忙しそうに歩く人の足跡が響く。
「聞いたことはあったけど、来たのは初めてだよ。
思ったより大きいんだな」
美術研究所というものに、気を留めたことはなかった。
何度か話を聞いて知っていた程度である。
将来の仕事にクリエイティブ系を選ぶなら、一度は来てみるべきだった。
浩太に先を越された気分が強くなっていた。
「自転車がたくさんあるな」
生徒の物と思われる自転車が数十台、びっしりと並んでいた。
脇をすり抜けるようにして中へ入る。
見学希望であることを伝えると、快く迎えてくれた。
「等々力西の生徒さんだね。
相馬先生から聞いているよ。
それじゃあ、案内しますね」
板倉さんという先生が呼ばれて、窓口にやってきた。
受付で氏名、住所などを書いて、パンフレットを受け取った。
表紙には、神様が描いたようなデッサン。
美術室に貼ってあるものより上手いかもしれない。
「とんでもないところへ来てしまった」
呆然として、壁に貼られた作品を眺めていた。
まず、油絵科、日本画科のアトリエを見学した。
部屋の広さに驚いた。
中には所狭しとイーゼルが並んでいて、油絵や水彩画を描いている。
どの作品も、とてつもなく上手い。
場違いなところへ来てしまったのかもしれない。
航も油絵を描いたことがあったが、まったく比較にならなかった。
薄く色を塗って終わりにしていた自分の作品は、途中のままだし完成という概念が間違っている。
塗り絵のように、白い部分がなくなれば終わりだと思っていた。
俊栄の生徒たちは、入念に塗り重ねて何度も試行錯誤している。
だから画面に深みがあった。
航は元々美術が大好きだったわけではない。
絵画と正面から向き合ったこともなかった。
美術館へ行っても、有名な絵画を話のタネに見にいくだけだった。
絵を理解していないし、しようともしなかった。
あまりにも世界が違い過ぎて、自分のような半端な人間がいることが申し訳なかった。
浩太は、目を爛々と輝かせて、楽しんでいるように見えた。
板倉先生に熱心に質問している。
自分との差を感じて、ため息が出そうだった。
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