偽りの花嫁は真実の愛を夢見るか

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 婦人雑誌の頁を飾る一枚の写真。  モデルは、銀座の街を闊歩する一組の男女である。片や仕立ての良い背広、片や流行りのモガスタイルを取る二人は舞台の一幕そのもので、読者である女たちは、雑誌を手に羨望の溜息をつく。  その、同じ頁を眺めながら、美坂信幸も溜息を漏らす。ただ、彼のそれは、女たちの淡く夢見がちな嘆息とは少しばかり毛色が違う。 「・・・また載ってる」  一体、世の女性たちはこんな写真の何が面白いんだろう。まあ、男の自分には理解しようのない感覚だろうな。・・・男、ね、と、雑誌をテーブルに戻してまた溜息ひとつ。男なら、あんな恰好で街を出歩きはしない。一般的には。 「信幸さん」  呼び止められ、振り返る。テラスから食堂へと通じるフランス窓に、母の万津子のほっそりとした影が佇んでいる。雑誌の女が、そのまま二十ほど齢を取ったような風貌。ただ、かつて社交界の華と称された美貌は今も健在で、品の良い細面につんと尖った鼻、形の良い小ぶりの唇、細筆で引いたような涼しい眉目は、息子の信幸に言わせても充分美しい。 「そろそろお夕食の時間だわ。お父様と秀介さんを呼んできてくださらない?」 「はい、お母様」  頷くと、信幸はテラスから庭に降りる。庭を囲む塀の一部に扉があって、そこから抜けると父が経営する病院はすぐなのだ。と、そんな信幸を万津子はまた呼び止める。 「身だしなみを整えてらっしゃい。白粉と口紅がぼろぼろだわ」 「あ・・・はい」  重い足取りでテラスに戻ると、そのまま食堂に抜け、マントルピースの上に張られた巨大な一枚鏡を覗く。万津子を二十歳ほど若くした――つまり、雑誌を飾る女と瓜二つの姿がそこには映っている。当たり前だ。あれは信幸本人なのだから。人形じみた顔。握り締めれば折れそうな首。病的なまでに白い肌。  短く切り揃えた大胆な断髪。姉の巨大な洋箪笥から適当に引き出され、母に押し着せられた薄桃色のワンピース。 「ほら、こっちを向いて」  振り返ったそばから万津子がばたばたと白粉を叩いてくる。ようやく済むと、今度は顎を取られ、紅を取った指先をぐいと唇に押し当てられた。そうして仕上がった顔に万津子は満足そうに笑み、しかし、すぐに沈鬱な顔をする。 「ごめんなさい。男のあなたにこんな・・・お母様も、酷なことを強いるものだわ」 「いえ、お祖母様は間違っていませんよ・・・ええ」  どうにか笑みを作ると、信幸は今度こそ病院へと向かった。  美坂病院は、個人が経営する病院としては東京市下でも有数の規模を誇る。床数は二百。三階建ての、最先端の鉄筋コンクリート造りの病棟は、四谷に住む人間なら誰しも一度は目にしたことがあるだろう。  その裏手から建物に入ると、ちょうど帰り支度を済ませた父とすれ違った。この病院の経営者で、自らも医者として現場に立つ信幸の父、美坂徳一は、美しい母とは対照的に、いかにも凡庸な顔立ちの小男だ。  その徳一は、信幸の顔を見るなり一瞬目を瞠り、それから「ああ信幸か」と、失望まじりの溜息をつく。ようやく姉が帰ってきたのかと、一瞬にせよ期待を抱かせてしまったらしい。 「急に出くわすと、親の俺でも見分けがつかんな」 「・・・早く、見つかるといいですね」 「まったくだ。あの不良娘、一体どこをほっつき歩いているんだか」 「山脇さんは何と?」 「梨の礫だよ。あの役立たずめ。いっそ馘にしてやろうか」 「・・・秀介さんは、まだ中ですか」 「ああ。読み込んでおきたい本があるといってな。屋敷の方は落ち着かんのだろう。そのうち客室を潰して書斎でも作ってやるか」  満更でもない父の顔に、改めて、期待しているのだなと信幸は思う。もっとも、実の息子がこの体たらくでは無理もないだろう。  父と別れ、一人、診察室に向かう。入院患者を多数抱えるこの病院では、昼夜問わず医者や看護婦の姿がある。彼らは、信幸の姿を見かけると揃えたように頭を下げ、足早にすれ違ってゆく。信幸もまた逃げるようにすれ違う。顔も知らない雑誌の読者ならいざ知らず、顔見知りである彼らに今の姿を見られるのは気が気ではない。  ようやく廊下の奥に、秀介が半ば書斎として使う診察室が見えてくる。まずは軽く扉をノック。ほどなく扉越しに、元軍人らしい通りの良い声が返ってくる。 「どうぞ」 「・・・はい」  おそるおそる扉を開き、中を覗く。屋敷の小食堂ほどのこぢんまりとした診察室には、薬品棚と、それから洋書を満載した本棚がぎっしり並んでいる。その奥、壁に向かって置かれた執務机で、一人の男が卓上灯の明かりを頼りに洋書を読み耽っている。  柔らかな白熱光を受けて、夕闇の中にうっすらと浮かぶ形の良い横顔。東洋人離れした高い鼻筋と、強い意志を感じさせる精悍な眉目。引き結ばれた唇。  白衣越しにもそうとわかる逞しい体躯。椅子に余る長身。緩やかに組まれた長い足。綺麗だな、と、素直に信幸は思う。姉や母も美しい部類だとは思う。ただ、彼の持つ美しさは、彼女たちの愛玩品じみた美貌とは根本的に違う。弱さではなく強さで、雪の儚さではなく太陽の眩しさで魅せるひと。  美坂秀介。ひと月前に美坂家に婿入りした〝姉の〟夫。 「あの、そろそろお夕飯のお時間なので、その」  すると秀介は、ようやく本から顔を上げ、振り返る。その顔がふわりと笑んで、信幸は急に落ち着かなくなる。 「お迎えに来てくださったんですか。嬉しいな」 「はい・・・あ、いえ、妻として、これぐらいは」  目を逸らし、小声でおずおず答える。普通の音量で喋ると、声の低さで正体が露見してしまうからだ。もっとも、あえて絞らなくとも信幸の声は小さく頼りない。結核の後遺症で肺が一部壊死しているのだ。  そんな〝妻〟の事情など知る由もない秀介は、本を閉じて机に置くと、おおらかな足取りで歩み寄ってくる。そうして間近に立たれると、改めて、大きいなと信幸は思う。信幸より頭一つぶんは高い上背。広い肩。すらりと長い手足。もはや嫉妬のしようもない同性としての差を見せつけられて、それでも、つい見惚れてしまうのは何故だろう。 「私の顔に何か?」 「えっ? い、いえ! その・・・参りましょう」  逃げるように踵を返し、診察室を出る。と、慣れない女物の靴で足元が狂って、つい蹴躓いてしまう。危ない、転ぶ――そう身構えた刹那、強い力が信幸の腕を掴んで引き戻す。 「大丈夫ですか」  振り返ると秀介が、心配顔で信幸を見下ろしている。その手は、なおも倒れ落ちそうな信幸を支えながら小動もしない。 「は、はい・・・すみません」  ようよう信幸が立ち直ると、秀介は医者らしく怪我の有無を検め、無事を確認した上でようやく安堵の笑みを浮かべる。 「よかった。大事はなさそうだ」  そろりと離される手。その体温を、惜しい、と感じてしまう自分に信幸は気付いている。  事の発端は、祖母の亀子が持ち込んだ縁談だった。  それは、少なくとも信幸に言わせれば非の打ち所のない縁談だった。お相手は陸軍の軍医将校。医者としての腕は高く、昨年の大正十一年まで続いたシベリア軍役でも、多くの兵士を救ったとして勲章を下賜されている。  ところが持ち込まれた当の本人には、それがどうしても我慢ならなかったらしい。  姉の百合子は当時、女学生時代の友人と反戦運動に勤しんでいた。先の欧州大戦の惨禍を踏まえ、とりわけ学生を中心にそうした反戦、反軍の空気が広がっていることは信幸も承知していた。ただ、長く療養施設で過ごした信幸にはどこまでも他人事で、だから、百合子がそれを理由に縁談を拒んだときは、頭を殴られたような衝撃を受けた。  だが、持ち込んだ亀子も譲らなかった。  その婿候補は、いわゆる高貴の血筋だった。堂上貴族の一つにも数えられる黒川子爵家のご子息。元は小さな診療所から始まり、今の美坂病院へと育て上げた彼女の夫の血の滲むような苦労を、やはり同じだけの苦労で支えた亀子にしてみれば、苦労だけではどうにもならない高貴の血は、それこそ喉から手が出るほどの得難い資産だったのだろう。  ところが、そんな祖母の悲願を百合子はあっさり袖にする。『ひとごろしの妻にはなれません』とだけ書き残し、友人とともに出奔してしまった。  さすがの亀子も、今度こそ諦めたかに思われた。  いや、むしろ諦めるべきだったのだ。花嫁もいないのに、縁談など進めようもない。先方には正直に事情を伝え、断るなり、あるいは百合子が見つかるまで結婚を待ってもらうなりすべきだった。  ところが。  彼らには、幸か不幸かうってつけの代役がいた。正しくは、姿だけは姉によく似た弟が。  寝室横のバスルームでシャワーを終え、女物のネグリジェに袖を通す。相変わらずひらひらと落ち着かない寝巻にうんざりしながら、同じだけ据わりの悪い夫婦の寝室を見渡す。  そこは、元は来客用の寝室として作られた部屋だった。そのせいか床も壁も豪華な設えで、我が家ながらまるでホテルのようだ、と信幸は思う。高価な金唐の壁紙。つややかな樫の腰板。大理石のマントルピースに重厚な繻子織りのカーテンは、元は書生部屋を転用した信幸の私室とは似ても似つかない。  ただ、落ち着かないのはこの豪華さのせいだけではない。  部屋の一角を堂々と占める巨大なベッド。そこで信幸は、結婚以来ずっと秀介と並んで眠っている。もちろん、好きでこんなところに眠るわけではない。他人と一緒の寝床は落ち着かないし、そうでなくとも正体が露見する危険は少ない方がいい。ところが、寝室まで分けてしまうと逆に怪しまれるのではと心配した父が、信幸にここで眠るよう命じたのだった。  幸いベッドは広く、多少の寝返りでは身体が触れ合うこともない。それに、例の約束もある。ただ・・・それにしても。  ふと扉を叩く音がして我に返る。誰何すると案の定、返ってきたのは秀介の通りの良い美声だった。 「私です。入っても?」 「えっ、あ・・・どうぞ」  強張る肩。大丈夫、あの人は約束を守ってくれる――そう、頭ではわかっていても、万が一を考えると緊張せずにはいられない。  結婚時、父は、ある約束を秀介に結ばせていた。うちの娘は初心だから、半年は手を出さずに見守ってくれ、と。傍目には理不尽にも見える約束に、しかし秀介は快く応じ、婚儀からひと月が経つ今なお律儀に従い続けている。紳士なのだろう、それも筋金入りの。なのに、秀介と過ごす夜はどうあっても緊張する。・・・いや違う、これは後ろめたさだ。こちらの都合で騙し、欺き、下らない茶番に付き合わせている、だから。  やがて戸口に背広姿の秀介が現れる。いよいよ固まる肩――を叱咤し、慌てて信幸は秀介に駆け寄る。 「す、すみません」  そのまま背後に回り、背広に手をかける。部屋に戻った夫の着替えを手伝うのも妻の仕事だと、そう父は言った。でも、それを言えば信幸は本当の妻ではない。だから役目も何も、と頭では思う。  それでも、なぜかこの役目を嫌いになれない。  背後から秀介の袖を抜き取る一瞬の、シャツ越しに陰影を作る背筋の隆起とそのうねり。ああ、男の身体だなと思う。叶うなら、自分もこんな身体に生まれたかった。  ただ、そうしたわかりやすい嫉妬とは別に、何か得体の知れない情動も同時に湧き上がってくるのだ。例えば、そう。触れたい。この背中に―― 「どうしました?」 「えっ? あ・・・」  ふと伸びかけた手を慌てて引っこめ、逃げるように洋箪笥を開く。背広をハンガーに掛けながら、薬品と整髪料、それから仄かな煙草の匂いが入り混じった男の香りで鼻腔が満ちるのを、信幸はひそやかに味わう。  ・・・何をやっているんだ、僕は。  やがて背後で、秀介がバスルームに向かう気配がする。ぱたりと扉を閉じる音。ほっと息をつき、改めて秀介がいないことを確認してから、ソファに畳んで置かれたパンツとベルトも一緒にしまい込む。  どうかしている。  あの人は本来、兄になるはずの人だった。義兄弟として絆を深めることはあっても、こんな感情や、それに欲を抱くことはなかったはずだ。  相変わらず肌は秀介の気配を追い、耳は、バスルームから届くシャワーの水音を余さず拾う。セントラルヒーターで沸かされた湯がシャワーの口から勢いよく噴き出し、男の小麦色の肌を叩くさまを想像する。筋肉の隆起を辿るように流れるさまを。 「本当に・・・どうかしている」  あえて声に出して呟くと、信幸は、全てを断ち切るつもりでベッドにもぐりこんだ。  美術協会に属する徳一と万津子には、頻繁に展覧会から招待状が来る。  もっとも、徳一の方は名義貸しのつもりで籍を置いているだけで、絵を眺めるだけの退屈な催しには見向きもしない。とはいえ、あまり顔を出さないのもそれはそれで角が立つ。というわけで三月に一度ほど、万津子か百合子が買い物ついでに挨拶に向かう習わしになっている。  その展覧会に、今回は信幸が赴くことになった。しかも秀介と同伴。要するに、うちの自慢の婿をお披露目してしてこい、ということらしい。 「すみません、せっかくのお休みなのに」 「ははは。百合子さんと過ごせるなら、どこだって僕は構いませんよ」  そう朗らかに笑う秀介に、信幸はいよいよ居た堪れなさを募らせる。本当は診察室に籠って患者の治療方針を練ったり、最新の医学書に目を通したいはずなのだ。なのに、こんな雑用に付き合わせてしまって。  そもそも父が美術協会に籍を置くのも、単に、社交界での体裁を守るためにすぎない。祖父の代でいきなり成り上がった美坂家は、社交界ではいまいち評判が悪い。成金、資産家の皮を被った貧乏人――そうした印象を払拭するためにも、本人はちっとも良さのわからない文化だの芸術だのに金を出している。  ただ、その結果、振り回されるのは何の非もない秀介であって。  展覧会は、銀座にある会員所有の画廊で開かれていた。ここではひと月に一度ほど、会員が制作した作品の展示を行なっている。ただ、母や姉から話だけは聞いていても、実際に信幸が足を運んだのはこれが初めてだった。  ビルヂングの一階をまるごと占める画廊には、十数点もの西洋画や日本画が行儀よく並んでいる。会員とはいえほとんどが素人で、母や姉が言うにはどれも下手糞で見ていられない、とのことだったが、実際に眺めてみると構図や色使いに作者ごとの個性が感じられて面白い。何より―― 「お好きなんですか、こういった絵が」  振り返ると、秀介が信幸と並んで同じ絵を面白そうに眺めている。どこかの山間の夕暮れを描いたらしいその西洋画は、暮れなずむ空は鮮やかな七色に描きながら、手前の山や木立はのっぺりとした濃紺色に塗り潰してある。  その大胆な対比が、不思議な空気感を絵に添えている。深呼吸すれば、この絵が孕む冴えた山の空気で肺が満たされそうな予感。  ああ、入ってくる。  作者が、絵を通じて誰かと分かち合いたかったもの。肺が慄くほど冷えた山の空気。空気の薄い高地の空は、空の色もいっそう鮮烈になる。朱から濃紺への劇的な変化。背後に迫る夜の、吸い込まれそうな、青。 「ええ・・・青いんですよね、夜が」  そう何となしに口にしてしまってから、しまったと信幸は後悔する。これは、紛れもない信幸自身の言葉。十年近くも長野のサナトリウムで過ごし、高地の空に見慣れた人間のそれだ。  どうしよう。今は〝信幸〟ではないのに―― 「青、か。確かに」 「えっ?」 「ええ・・・シベリアで見た夜空も、確かに、青かった気がしますね。どういう現象でしょうねあれは。東京の空はのっぺりと黒いのに」 「えっ、あ・・・そうなんですか、シベリアの夜も」  間の抜けた答えを返しながら、不覚にも胸を揺さぶられる自分に信幸は気付いている。ささやかでも誰かと驚きを分かち合うことが、こんなにも心の満たされることだったなんて。 「星がたくさん輝くから? それとも・・・単に気温の問題ですかね。百合子さんは、何か理由をご存じですか?」 「理由? いえ・・・その、やっぱり寒いのですか、シベリアは」 「そりゃもう。吐いたそばから息が凍って、さらさらと音を立てるんですよ。ロシアでは星の囁きと呼ぶそうです」 「星の囁き・・・綺麗な名前ですね」 「ははは。実際は綺麗なんてもんじゃありませんがね。もう寒くて」  今、帝都は五月。街路樹の緑も伸びきり、街には暖かくも爽やかな風が吹いている。二人の装いも季節に合わせたもので、そのせいかふと、剥き出しの肌がひやりとなる。きっと、北の果ての冬を想像してしまったせいだろう。  今はリンネルの白いサマースーツで軽やかに装う秀介も、シベリアでは分厚い防寒具に身を固めながら極寒の冬を耐えていたのだろうか。  知りたい。  その欲が、あの、秀介の背中に抱いたそれと同じものであることに気付いて信幸は慄く。・・・一緒だ。知りたいも、触れたいも、心の同じ場所が訴えている。駄々っ子のようにみっともなく叫びながら。  でもそれは、こちらの正体を暴かれる危険と背中合わせで。  画廊を出ると、初夏の日差しが肌を刺した。母から借りた日傘を広げ、どうにかやり過ごす。昔から肌の弱い信幸は、日に焼けるとすぐにかぶれてしまうのだ。  一方の秀介は、スーツと同じ白いリンネルの中折れ帽をさっと被る。帽子を軽く握る手の形すら、この人のそれは美しい。 「百合子さんは、この後どちらへ?」 「えっ・・・あ、今日はもう、お屋敷に戻ろうかと」  姉のように買い物を楽しむ趣味はないし、秀介としても、早く帰って読書に専念したいだろう。 「そうですか、では・・・申し訳ありませんが先に帰って頂けますか。私は少し、寄りたい所があるもので」 「えっ?」  寄りたい所? だったら僕も――と、信幸が口を開きかけた時にはもう秀介は踵を返し、目の前の通りを大股で渡りはじめていた。その背中を慌てて追いかけようとして、こんな足では、と思い直す。相変わらず慣れない女の靴。走って追いかけたところで、転んでまた迷惑をかけるのが関の山だ。  気を取り直し、路面電車に乗り込む。タクシーで帰れば早いのだが、一人のときはできるだけ外をぶらついて帰りたい。・・・というより、帰りたくないのだろう、あの家に。なので、できるだけ時間をかけて屋敷に戻った信幸だったが、玄関先の車止めで見知った顔を見かけた瞬間、意味のない抵抗だったことを思い知る。 「・・・こんにちは、山脇さん」 「えっ? あ、ああ・・・信幸君か。いや、ははっ、わかっていても嬉しいもんだね、こんな美人に声をかけられると」  山脇の冗談を、信幸はにこりともせずに聞き流す。この山脇という男は、父が姉の捜索のために雇った探偵で、たまに屋敷に顔を出しては、その都度捜査の報告を入れてくる。  ただ、姉の家出から半年、未だに目ぼしい報せはない。元は江戸城御庭番の血筋というのは本人の弁だが、どうせ嘘に違いない。  いや、この際、この男のことはどうだっていい。 「祖母と、会っていらしたんですか」  そう、この男が来たということは、祖母が奥の離れから出てきたことを意味する。普段は奥の日本家屋で暮らし、謡の稽古に励む彼女は、来客がある時は何故かいちいち本邸に出てくる。それが彼女なりの礼儀とでもいうように。 「ははっ、嫌そうな顔をするねぇ。でも美人だと、どんな顔でも様になるから得だよねぇ」  そして山脇は、ひらひらと手を振りながら門の外へと歩いてゆく。信幸は重い溜息をつくと、足を引きずるように玄関の扉をくぐる。そのままホールから二階に上がろうとして、呼び止める老婆の声にやむなく足を止めた。 「信幸か」  振り返ると案の定、声の主である祖母の亀子が立っている。父に似て小柄な上に背中が海老のように折れ曲がっていて、隣に立つ母の万津子と比べると、その腰ほどの上背しかない。それでも彼女が、今の美坂家を仕切る主であることに変わりはない。このふざけた茶番も、彼女の執念がなければ誰も思いつきもしなかっただろう。  その祖母は、自分で呼び止めておきながら、信幸の顔を見るなり野良犬に出くわしたような顔をする。 「ああ、つくづくみっともないね。男のくせに女の恰好なんて」 「お母様!」  それまで隣でしおらしく黙っていた母が、慌てて口を挟んでくる。 「信幸さんは、お母様のご指示であんな恰好をさせられているんですよ!」 「黙れ! だいたい、お前がもっと丈夫にあれを産んでおったら、こんなみっともない真似は要らなんだのじゃ!」  きんきんと頭蓋骨を刺すようながなり声。その小さな身体のどこからそんな大声が出るのかと、怒鳴られるたびに信幸は不思議に思う。そんな祖母の隣で、母は今にも泣き出しそうな目で俯いている。 「まったく、だから徳一には、丈夫な子を産めそうな女を娶れと言ったんだ」  吐き捨てると、祖母は杖でごつごつと床を突きながら離れの方へと帰ってゆく。その小さくも頑健な背中を、信幸はできるだけ無心で見送る。  ああ、そうだ。  全ては、自分のせいなのだ。例えば秀介のように頑強な身体に生まれていれば。勉学に励み、医者として父と同じ道を歩んでいれば――でも現実は、何一つ叶わなかった。否、叶えられなかった。幼くして結核に罹り、勉学に勤しむどころか屋敷と療養施設を往復するだけの日々。何度も生死の境をさまよい、ついには生きているだけで奇跡だと主治医に言われる始末だった。  ようやく寛解した今でも、寝込むほどの熱が頻繁に出る。徴兵検査は当然のように戊種合格。これは事実上、不適格に等しい。そんな調子だから、祖母にも、それに父にも見限られてしまったのだろう。 「ごめんなさいね、信幸さん」  目元をハンカチで押さえると、母はぎこちなく微笑む。この、痛みを堪えるような母の笑みも全て信幸のせい。姉が出て行ったのも――秀介が、こんな下らない茶番に巻き込まれているのも。  なのに触れ合いたい、だなんて。 「いえ、僕の方こそ、その、すみません」 「謝らないで。あなたは何も悪くない。・・・悪くないのよ」  そして母はひとつ溜息をつくと、そろそろと居間に引き返す。信幸は居合わせた女中を呼び止めると、紅茶と、さっき銀座で買った洋菓子を母に出すよう頼んで部屋に引き取った。     「・・・反戦思想?」  すると佐和子は、吸い込んだ煙草の煙をふぅと吐きながら、ええ、と気のない顔で頷く。その、形の良い横顔を洋酒のグラス片手に眺めながら、相変わらず綺麗な女だ、と秀介は思う。断髪に緩く当てたパーマネント。いかにも職業婦人らしい活動的なフラッパースタイル。ただ・・・遊びで抱きはしても、伴侶にしたいとは思わない。似た者同士だからこそわかるのだ。この女も、それに自分も、幸せな家庭とやらを築く才能に欠けている。 「で、当時はまだ軍人だったあなたを嫌って家を飛び出したってわけ。今は、葉山にあるお仲間の別荘で毎日楽しくやっているそうよ。まぁ、あの子らに言わせればそれも立派な政治活動なんでしょうけど」  不意に背後で湧く拍手。ちょうどバンドマン達が一曲演り終えたのだろう。拍手の主は、さっきまで下手なステップを踏んでいた酔客どもだ。その何人かはちらほらとホールを離脱し、秀介たちが呑むバーへと酒を求めてやってくる。  ここは有楽町にあるダンスホールで、といっても鹿鳴館のような貴種の社交場ではなく、身分問わず男と女が陽気なジャズに合わせて踊るだけの下品な店だ。その片隅に酔客相手に不味い酒を出すバーがあり、佐和子との酒は何故かいつもここになる。 「じゃあ放っておけば、そのうち戻ってくるわけか」 「そうね。あのグラビアを見れば、プライドの高い彼女ならまず黙ってはおかないでしょうし」 「グラビア?」  すると佐和子は、何が可笑しいのかにやりと笑う。 「また使わせてもらったわ。あなたたちの写真。・・・ふふっ、自分を名乗るそっくりさんが、捨てたはずの婚約者と睦まじく銀座を歩いている。そんな写真を雑誌に載せられて、プライドの高さでは社交界屈指の百合子お嬢様が黙っていられるわけないでしょ」 「まさか・・・最近よく俺達の写真を載せているのは、」 「ええ。でも、読者にも好評なのよ、あなた達の写真。確かに、そうは見かけないものね。あんな絵本みたいな美男美女」 「美男美女ぉ? 俺はともかくあいつは男だろうが!」 「そうと知って見なきゃわかりゃしないわよ。信幸君、だったかしら。よくもまぁあそこまで化けたものね」  どこが、と秀介は唇を歪めて嗤う。姿かたちはともかく、あれは気の毒なほどの大根役者だ。そもそも秀介は医者で、相手の身体を診ることを生業にしている。たとえ化粧や女物の服で化けても、全体の骨格や肉づき、歩き方を診れば本来の性別など一目瞭然。それでも騙されたふりを貫いているのは、単純に、あの病院が必要だからだ。  兄を――あいつを見下すために。  もっとも、連中としてもその方が助かるだろう。せっかく手に入れた優秀な跡取り、それも貴種の血をみすみす取り逃がしたくはないはずだ。要するに・・・持ちつ持たれつ、ある種の共犯関係なのだ、この状況は。  そして、その茶番は今のところ滞りなく続いている。強いて問題があるとすれば―― 「佐和子」  女の細腰に手を回し、ゆるりと撫でる。ところが佐和子は、それをさっと叩き落とす。 「嫌よ。あたし、既婚者とはもう関係しないの」 「頼むよ。溜まってんだこっちは」 「じゃ、お嫁さんとすれば? 別にいいじゃない、男でも」 「馬鹿。手ぇ出したらバレるだろうが。あれが男だと知ってることが」  もちろん、それを脅しに使う手もあるには、ある。が、これから親族として長く付き合ってゆく相手を初手から脅迫すれば、長い目で見ればおそらく瑕になる。必要なのは弱みではなく信頼。だからこそ、こんな下らない茶番にも付き合ってやっている。 「あら。じゃあバレないように抱けば?」 「は? いや、だから――」 「抱けはするんでしょ? あなた今、言ったじゃない。バレたくないから手を出せないんだって。じゃあ・・・バレないように抱けば良いんじゃなくて?」  ふと脳裏をよぎる白い首筋。その白さ儚さに、秀介は言い様のない不快感を覚える。河原の石を裏返し、その下に蠢く地虫どもにほんの一瞬怯むような。・・・何だ、これは。一体どういう感情だ。  それでも、一度浮かんだ情景はそう簡単には消えてくれない。人形めいた端正な寝顔。小刻みに震える長い睫毛。薄く延ばされた求肥にも似た、繊細な造りの瞼。  時折り悩ましげに顰められる形の良い眉。薄く開いた唇。その奥にちろりと覗く、しっとりと濡れた舌先。 「・・・義父に、手を出すなと言われている」  そう答える自分の声色が、どこか言い訳めいていることに秀介は気付いてる。おそらく佐和子も気付いているだろう。その証拠に、バーテンダーにおかわりを命じる声がやけに明るい。 「でもまぁ、酷いことはしないでね。さすがに不憫だわ、あの子」  新しい煙草に火を点けながら、実際不憫そうに佐和子は言う。根は正義の女だから、弱者が踏みつけにされるのは見ていられないのだろう。似た者同士でも、その一点だけは秀介とは違う。 「嫌なら拒めばいい。あいつの姉貴みたいに・・・なのに大人しく親の我儘に従ってるのは、要するに、自業自得なのさ」  佐和子の口から煙草を奪い、代わりに唇を押し当てる。久しぶりの女の味を堪能しながら、しかし、どこか噛み合わない自分に秀介は気付いている。空回りする歯車。これは何だ、とまた思う。  ひとけのない草原をどこまでも歩く。  暮れなずむ空は怖いほどに澄みきって、地平線を見晴るかす景色は溜息が漏れるほど美しいのに、今は悲しみばかりが胸に募る。この感動を、喜びを、誰とも分かち合えない孤独。世界が美しければ美しいほど、それは万年雪のように胸の内に降り積もってゆく。  そんな信幸の耳に、ふと声が届く。  それは、確かに聞き覚えのある声だった。くずおれそうなほどの安堵に震えながら、でも、すぐにまた怖くなる。いくら周りを見渡しても、どこにも声の主は見つからない。耳を澄まし、声のする方へとどうにか駆け出す。  それでも、あの人は見つからない。  空は相変わらず怖いほどに澄みきって、いつしか星が瞬きはじめている。吸い込まれそうな青。吐いたそばから息が凍って、耳元でさらさらと音を奏でる。ああ、これは、あの人も聴いた―― 「百合子さん」 「――え」  見ると、目の前に秀介の顔があった。あんなに捜したのに、と憤りを覚え、いや違う、あれは夢だったんだと遅れて気付く。そうだ、独りじゃなかった。最初からこの人はそばにいてくれて・・・  いや、違う。  この人が寄り添うのは、自分――信幸ではない。この人はあくまでも姉の夫。自分は、信幸は、その義理の弟にすぎない。  その、最初から自明だったはずの事実に、なぜか今更のように信幸は愕然となる。  カーテン越しに広がる空はすでに明るく、悪夢の夜が明けたことを信幸に告げている。にもかかわらず、信幸の心は今もあの場所を彷徨っている。どれだけ捜しても、どこまで走っても、この心が求めるものは見つからない。 「随分、うなされていたようですが・・・悪い夢でもご覧になったのですか」 「・・・いえ」  こみ上げる嗚咽を堪え、布団の中で秀介に背を向ける。そんな信幸の肩を、布団越しに撫でる大きな手。触れるなと父に厳命されているのに――信幸が告げ口すれば、叱責されるとわかっているだろうに、それでも秀介は、優しく、やさしく信幸の肩を撫でさする。  その、触れられた肩がじんじんと疼いて、また堪らなくなる。 「お顔の色がすぐれませんね。今日はお母様とオペラを見に行かれるとのことでしたが・・・さすがにお休みされた方がよろしいでしょう」 「いえ・・・お誘い下さった方にも悪いので」  元舞台女優の母には、今でも演劇関連の友人が多い。それで時々、関係者から観劇の誘いが来るのだ。そして・・・絵画展と同様、そうした誘いも下手に断ると角が立つ。信幸と同様、家に居場所のない母を思うと到底断りきれない。 「お優しいのですね、百合子さんは」  微かな衣擦れの音がして、ベッドが軽く浮き上がる。そっと肩越しに振り返ると、すでに秀介はベッドを離れ、着替えに取り掛かっていた。  帯を解き、肩から浴衣を滑らせる。朝の乏しい光の中、肌着越しに浮かび上がる背筋の逞しい陰影。寝起きでわずかに乱れた後ろ髪。 「あの、お手伝いします」  慌ててベッドを下り、駆け寄る。ところが秀介は、やんわりとそれを制し、優しく微笑む。 「百合子さんは休んでいてください。あと、やはりオペラはお休みすること。私の方からも、お母様を説得しておきますよ」  そのまま秀介は背広に着替えると、髭を当たるためだろう、バスルームへと消える。脱いだ浴衣はソファの上に畳んで置かれ、いつのまに、と信幸は驚く。軍隊生活が長かったせいだろう、日常のこまごまとした動作が秀介のそれは驚くほど速い。  やがて、髭と頭を完璧に整えた秀介が寝室に戻ってくる。 「では、いってきますね」 「・・・いってらっしゃいませ」  すると秀介は、一瞬、なぜか困ったように眉根を寄せ、それから「ええ、いってきます」と、いつもの微笑で答える。そのまま廊下へと消える背中を見送りながら、ふと、信幸は思う。思ってしまう。  もうずっと、お姉様が帰らなければいいのに。  思えば最初から、こうなる予感はあったのだ。  初めての見合いの日。帝国ホテルの食堂で初めて秀介と挨拶を交わしたとき、何て逞しい人だろう、と信幸は素直に見惚れた。仕立ての良い軍服が包む逞しい体躯。女性のために椅子を引き、扉を開くさりげない優しさ。その全てに、男のくせに何故か胸が高鳴ったことを信幸は今もよく覚えている。  ただ、その予感がより明確になったのは、庭園の池を渡す石橋でさりげなく手を取られたときだ。  昔から信幸は、他人に触れてもらうことが好きだった。診察のために触れる主治医の手。清拭のために宛がわれる看護婦の手。誰かに触れてもらい、そこに命のぬくもりを感じることで、信幸は、鏡越しに自分の姿を検めるように、自身の命を――その存在を確かめてきた。  ただ。  秀介の手は、何かが違った。いや正しくは、触れると生の実感がより濃くなる。自分は今、この人と同じ空気を吸っている。同じ風を感じている。庭を染める紅葉を眺めながら、同じ感動に胸を揺さぶられている。  そうした生命の一瞬一瞬が、まるで印画紙に焼き付けられる写真のように、くっきりと、鮮烈に心に刻まれるのだ。  名前はなかった。その感情に。昨日までは。  読んでいた本を閉じ、庭に目を戻す。かれこれ三日ほど続く雨に、もう梅雨入りか、と信幸は思う。帝国ホテルで秀介と式を挙げたのは四月の半ばで、いつの間にかニか月近くが経っている。  空を覆うのは陰鬱なはずの雨雲。なのに、なぜかきらきらと輝いて見える。テラスを覆う屋根の軒先から落ちる雨だれの一粒一粒が、庭の水たまりを叩いて立てる楽しげな合奏。  聞かせたいな、と思う。あの人にも。  そしてふと、信幸は気付く。ああそうか。僕は今、あの人に――秀介さんに恋をしている。  あれは恋なんだろうな、と、秀介は頭を抱える。  ここ最近の、秀介を見つめる信幸の目。あれは紛れもない、秀介に懸想する人間のそれだ。 「・・・参ったな」  カルテを机に戻し、懐から取り出した煙草に火を点ける。肺いっぱいに紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら、だから何だ、と秀介は自分に言い聞かせる。いくら相手が惚れていようが、それでも冷徹に切り捨ててきたのが俺じゃないか。  飽きた女。面倒になった女。気持ちが重くなりすぎて心を拗らせた女。そうした女を、これまで秀介は何人も切り捨ててきた。そんな秀介を、女たちは冷酷だと詰る。が、秀介に言わせればそんなものはお互い様だ。皆、何かしらの益を求めて秀介に近づいてくる。色男と過ごす美しい夜。酒も、美人と呑む方が美味いのは男も女も変わらない。佐和子にせよ、秀介を肴に呑むためだけに記事にもならない情報をせっせと集めているのだ。要はどいつもこいつも欲得ずくで、信幸にしても、それが家の利益になるからと姉を装い、花婿を騙している。  そう、そもそもお前は、ただの代役だろうが。  厄介なのは、現状、この代役が秀介を美坂の家に繋ぎ止める唯一の鎖であることだ。だからこそ無碍には扱えない。が、一方で今の状況を放置するわけにもいかない。  例えばもし、今ここに本物の百合子が帰ってきたとして。すでに秀介に懸想する信幸は、間違いなく姉に嫉妬するだろう。それが、ゆくゆく余計な面倒を招かないとも限らない。かといって、いつ百合子が戻るか知れない以上、あからさまに突き放すわけにもいかない・・・ 「・・・まあ、まずは目の前の手術だな」  煙草を灰皿で揉み消すと、診察室を出て手術室に向かう。今日はこれから、日本でもまだ例の少ない開頭手術を予定している。当然、一瞬でも気を抜くわけにはいかない。ここでしくじって病院自体の評判が下がれば、結局、それを引き継ぐ秀介自身の負債になる。  ここでも欲得か、俺は。  だが、欲得ずくの何が悪い。これまでも秀介は欲得で人命を救ってきた。その方が上の覚えが良くなるからだ。欲得で人を救い、人を救うために物資を集め、物資を集めるために中央をせっつき――そうして、多くの兵士を国へと帰した。秀介自身も勲章を手に入れた。少なくとも、あんな口だけの役立たずとは違う。頭も顔も悪いくせに、妾腹の弟をいびるだけが能の兄とは。  ふと、窓越しに奇妙な雨だれの音が届く。見ると、外の廃材置き場の屋根から垂れた雨滴が、ドラム缶の蓋に当たってコンコンと音を立てている。その、どこか愉快な音に、なぜかふと秀介は信幸のことを思う。  この音を聞かせたら、あいつは喜ぶだろうか。シベリアでの話にふんふんと耳を傾けながら、目を輝かせたあの時のように―― 「・・・いや、」  駄目だ。あいつはただの義弟で、だからこれ以上は関わるべきじゃない。守らなければ。俺自身の幸せを。未来を。もう二度と、あんな惨めな暮らしは御免だ。貧しくてひもじくて、それが嫌でこれまでの人生を全力疾走で駆け抜けてきたのだ。  ああそうだ。こんなところでしくじるわけには。  十時間にも及ぶ大手術を終え、さらに術後の処置を終えて屋敷に戻った時には、すでに夜が更けていた。  女中に握り飯を作らせ、無理やり腹に押し込む。手術の後は疲労がすぎてあまり飯がいけないが、明日の体力を養うためにも抜くわけにはいかない。そうでなくとも・・・今夜は、余計な体力を使う羽目になるかもしれない。  ようやく握り飯を腹に収めると、秀介は夫婦の寝室がある二階へと上がる。鉄筋コンクリート造りの巨大な洋館は、ここ四谷では隣の大病院ともども恐ろしく悪目立ちしている。一階には大小二つの食堂、居間に応接間、喫煙室にサロン。その一階と同じだけ広い二階には、義両親の寝室と百合子の私室、客室と書生部屋、それから、秀介が寝起きする娘夫婦の寝室。  そういえば・・・信幸の私室は見たことがないな。  いや、と秀介は慌てて思考を中断する。あんな奴の私室に興味はない。そもそも本来は、ただの義弟になるはずの存在だった。親族として当たり障りのない関心を抱きはしても、それ以上の感情は抱くべきではない。  だから。でも、いや。  ああ煩い。あれのことを考えると、なぜか頭が騒々しくなる。ここ最近は特にそうだ。下手糞なビッグバンドが、頭蓋の奥でのべつ幕無しに下手糞なジャズを掻き鳴らしている。しかも、今日はそれがやけに耳に障る。長時間の難手術で気が昂っているのだろうか。  そんなことをあてどもなく考えながら歩くうちに、いつしか寝室の前へと辿り着く。ノックをすると、いつもの声で誰何が返ってくる。緊張と、それから隠しきれない想いを孕んだやや上擦った声。  だが、その無垢な恋も今夜限りだ。 「おかえりなさいませ」  扉を開くと、いつものようにネグリジェ姿の信幸が緊張まじりに出迎える。化粧はとっくに落としているのに、やけに艶めかしい顔。本当に・・・何なんだお前は。ただの義弟のくせに。俺と同じ男のくせに。 「あ、あの、今日は大変な手術だったと父に伺いました。その・・・ご苦労様、でした」 「・・・どうも」  すると信幸は、なぜか不安そうな顔つきをする。秀介が不覚にも声に含ませた剣呑さに怯んだのだろうか・・・男のくせに。 「あ、あの、秀介さん」 「何です」 「きょ・・・今日、ですね、その、お空が・・・とても、綺麗だったんです。あ、雨で曇っているのに、お、おかしい、ですよね。でも、その、本当に・・・綺麗で、あ、あと、雨音が、」 「雨音?」 「は、はい。水たまりに落ちる雨だれの音が、その、とても、可愛らしくて、僕・・・あ、いえ私その、秀介さんにも、お聞かせできたらな、って」  喘ぎ喘ぎ、それでもどうにか言葉を紡ぐ信幸に、いよいよ秀介は堪らなくなる。何だその、不器用なりに必死に言葉を選ぶ懸命さは。何より――どうして俺と同じことを。あの雨だれの音を聞きながら、お前も。  いよいよ喧しくなる調子外れのジャズ。だが、下手糞なビッグバンドはいい加減、ご退場願おう。 「おい」 「えっ・・・?」  怯える信幸に構わず距離を詰める。そうして何かを言いかける信幸の唇を、秀介は塞ぐ。自らの唇でぴったりと。 「――っ!?」  そのまま信幸の腰を抱き上げ、もつれるようにベッドへと押し倒す。思いのほか強靭な腕が秀介の胸を押し上げ、ああそうか、相手は男だったなと今更のように思い出す。あんまり言動が情けないもんでつい忘れていた。 「秀介さん! や、約束が――」  約束が違う、そう訴えたかったのだろう。が、そんな訴えすら再びの口づけで封じると、今度は舌を突き入れ、思うさま口腔を蹂躙する。  これでいい。これで。  このまま相手の正体を暴き、たったいま気付いた体で非難する。その上で、男としての信幸を拒絶し、恋心をへし折る――我ながら完璧な作戦だと秀介は思う。完璧で、何より悪辣。いかにも俺らしいじゃないか。  相変わらず信幸は、秀介の腕の中で詮無い抵抗を続けている。 「ま、待って、まだ、」 「まだ? 夫婦になって、すでにひと月も経つのにか」  すると信幸は、すでに泣き出しそうな顔をさらに悲しく顰める。 「わ、わかって、います・・・申し訳ありません、でも、」 「でも何だ。まさか、俺を愛していないとでも?」  瞬間――信幸の顔がぱきりと固まる音を秀介は聞いた気がした。凍結する間際の水面が、薄氷の膜で軋むあの音。  やがて信幸は、ようよう口を開く。凍りついた湖の底から空気を求めて氷を叩く、憐れな溺水者の形相で。 「・・・違います」 「なに?」 「違う、っ!」  秀介の胸板を、不意に強い力が突き上げる。その、秀介の身体がわずかに浮いた隙を突いて、跳ねるように信幸はベッドを出る。そのまま信幸は半身を取ると、手負いの獣よろしく秀介を睨みつける。  その、信幸の涙に滲んだ双眸に。  今度は、秀介の方が呼吸を失う。 「・・・す、まなかった」  そう辛うじて言葉を発してから、ようやく肺に空気を取り込む。ベッドを下り、背広を脱ぎ捨て、それを自分で洋箪笥にしまいこんでからバスルームへと向かう。その間、一度も信幸を振り返ることができなかった。  ようやくバスルームに落ち着いてから、ほっと胸を撫で下ろす自分に秀介はまた驚く。怯えていたのか。あんなサナトリウム帰りの貧弱な餓鬼に。これという野心もなく、家族の言いなりに生きるだけの人形ふぜいに。  冗談じゃない。あんな餓鬼に・・・  物心がつく前から、否、それこそ生まれた時から強い者に虐げられてきた。幼い頃は母が勤める吉原で。やがて父親と名乗る男が現れ、その屋敷に引き取られると、今度は正妻の子供に苛め抜かれた。  強くなりたかった。なれるように生きてきた。なったつもりでいた。そして今、あんな弱者に秀介は怯んでいる。・・・いやそもそも、奴は弱者なのか。俺の評価が間違っているのか?  あるいは。  強いのは奴ではなく、奴の〝想い〟の方か。  いつもより長いシャワーを終えて寝室に戻る。すると待ちわびたように、信幸がソファから立ち上がる。てっきり義両親の寝室に逃げ込んでいるものと思い込んでいた秀介は安堵し、しかし、すぐに構え直す。  信幸の、明らかに強い決意を湛えた顔に。 「いやはや、さっきは失礼しました。その・・・大手術の後は、いつもああして昂ってしまうんですよ」  場を和ませるための軽口にも、当然のように信幸は乗らない。いい加減、徒労感にうんざりした秀介は、観念し、信幸の次の言葉を待つ。  やがて信幸は、意を決したように口を開く。  わかっている。  こんな願いは間違っている。父と母、それに祖母の悲願が台無しになる。皆が恥をかく。何より――秀介の心が傷つく。婚約者に拒絶され、挙句に家族ぐるみで欺かれて。  なのに。  それでも、信幸の心はすでに答えを得ている。触れ合うたびに生命の喜びを与えてくれる人。たとえ孤独の中でも、誰かと分かち合える感動があることを教えてくれた人。  そんなあなたを、僕は―― 「僕は、姉では・・・百合子ではないんです」  そして信幸は、ネグリジェの前を解き、肩からそろりと落とす。ライトスタンドの光を受けて露わになる男の身体。平坦な胸と腰。下着が包む下半身の確かなふくらみ。  その剥き出しの肌に、突き刺さるような視線を感じて信幸はさらに俯く。怖い。でも、ここで怯むわけにはいかない。これは罰だ。信幸の弱さに対する罰。そして・・・彼に想いを伝えるために、避けては通れない試練。 「姉は、見合いの前に家出をしてしまって・・・それで、姿かたちのよく似た僕が、代わりを務めることになったんです。・・・その、申し訳ありません。いえ、謝って済む話でないことは、わかっています。ただ」  相変わらず秀介は、薄暗い部屋の奥でじっと信幸を見据えている。が、なぜか驚いた様子は見受けられない。まるで最初から、信幸の正体を承知していたかのような――いや、そんなはずはない。知っていたら、男である信幸に手など出していないはず。そう、秀介が求めたのはあくまで百合子であって・・・わかっている。わかっているのだ何もかも。でも。 「それでも、しゅ、秀介さんのことは・・・え、ええ、わかっています。所詮は代役の僕に、その、ご、ご迷惑だと。でも、」  ああ、息ができない。肺が詰まる。でも――それでも、これだけは。 「お慕いして、います」  ぎこちない沈黙が、不意に部屋を満たす。あまりの居た堪れなさに、信幸は肌を全て剥かれたような痛みを覚える。剥き出しの肌をひやりと包む夜気。暦の上では間もなく夏を迎えるのに、今夜の空気はやけに冷たい。  ややあって。 「・・・まいったな」  そう、溜息交じりに秀介が呟く。明らかな苛立ちを含んだその吐息に、信幸は今更のように怖くなる。――いやだ。拒まないで。蔑まないで。許してくれとは言わないから、せめて、話を聞いて。  やがて秀介が、薄闇の向こうからゆっくりと歩み寄る。ひとりでに後退る足。それが皮肉にも足元のネグリジェをひっかけ、ぶざまに尻餅をつく――と、思いきや。 「――えっ」  気付くと信幸は、身体ごと秀介の腕に抱えられていた。今もまだ不安定さが残る身体を抱き寄せる腕。もう一方の手は、信幸の右手首をしっかりと掴んでいる。  恐る恐る顔を上げる。  ほんの鼻先に迫る、秀介の精悍な顔。 「君の気持ちは理解した。が、受け入れるには一つ、守ってもらいたい約束がある」 「・・・やく、そく?」  頷くと、秀介はそのまま両手で信幸の身体を抱え上げる。男一人を易々と抱える強靭さに、場違いと知りつつ胸が高鳴る。  やがて秀介は、信幸の身体をベッドへと横たえる。 「お父様には、君の正体が私に露見したことは伏せておくこと。・・・君とて困るだろう。そんなことをすれば、君は私から引き剥がされてしまう」  確かに。もし露見したことが父や、それに祖母に知られれば、家の恥として叩き出されるのは目に見えている。そうした信幸の事情を踏まえた上で、こんな、ありがたい提案を申し出てくれる。騙されて、欺かれて、なのに。 「・・・本当に、お優しいんですね、秀介さんは」  すると秀介は、なぜか怪訝な顔で「優しい?」と問い返してくる。 「えっ? え、ええ・・・優しい、です。僕のこと、いつも気を遣ってくださって。今の提案だって、その、」 「違う」 「えっ?」 「俺は優しくなど、ただ――」  いや、と秀介は言葉を切ると、ふたたび信幸に顔を寄せてくる。ふと先程の強引な口づけを思い出し、身構えるように目と口を噤むと、その閉じた唇に、先程とは打って変わった撫でるような口づけが落とされる。  柔らかくて、なのに熱さで焦げるよう。 「怖いか」 「・・・え」  おそるおそる瞼を開く。相変わらず鼻先に秀介の顔が迫っている。ただ、その目はどこか寂しげで、不意に信幸は、自分がこの人の拒絶を恐れるように、この人もまた、信幸の拒絶を恐れていることに気付く。・・・そう、独りではない、とはこういうこと。信幸の言葉が、表情が誰かに伝わり、それが喜びや、時には悲しみに変わってしまう。  悲しませたくない、と願う。この人だけは絶対に。 「いえ」  緊張の中、それでも精一杯の笑みを浮かべる。  三度目の口づけは、口腔ごと蕩け合うかのように熱く、深かった。  まいった、と、隣に横たわる白い裸体を見下ろしながら、秀介は短い溜息をつく。  陶器を思わせる、白く、なめらかな肢体。女のふくよかな身体とも、成人男子の筋張った硬い肉体とも違う両性具有的な身体。それが、白みはじめた部屋の底で穏やかな寝息を立てている。  その背中はしかし、厳密には白一色ではない。  首筋から背中、さらには内股に至るまでびっしりと浮かんだ淡い鬱血。ここで彼が寝返りを打てば、その胸や腹にも同じだけ鬱血が浮かんでいることだろう。まるで路面に散った桜の花びらのように。だが、そんな徴はまだ可愛い方だ。痩せた尻の割れ目、白い双丘の奥は、火傷でもしたかのように赤く充血している。  ・・・何をやっているんだ、俺は。  冴えた朝の空気が、今更のように理性を呼び戻す。が、全ては後の祭りだった。結局、秀介は信幸を抱き、あまつさえ隅々まで味わい尽くした。無為な禁欲生活で溜まっていたのか? いや、それでも男には手を出さない。ましてこいつは、絶対に手を出してはならない相手だった。  わかっていた。それでも。  信幸に「お慕いしています」と告げられた瞬間、秀介の中で何かが音を立てて弾けた。過電圧でパンと爆ぜる電球のように。そして、気付くと信幸を押し倒し、その身体を求めていた。  信幸の反応は、明らかに初物のそれだった。  にもかかわらず身体の方は、恐ろしく貪欲に秀介を求めた。秀介に触れる肌、重なる粘膜の全てが、秀介のぬくもりを全霊で欲していた。まるで、そう、満たされることを知らない底の抜けた器のように。  おそらく信幸は、秀介が想像する以上に飢えていたのだろう。人のぬくもりや、さらに言えば愛情そのものに。こんな豪華な家に生まれたのだから、そんなものはいくらでも手に入ったろうに――というのはきっと、貧しい家に生まれ育った人間のやっかみだ。秀介に秀介の悲しみがあるように、信幸にも、信幸の悲しみがある。  その悲しみを、知りたい、と願う自分に秀介は気づいている。  それを、誰にも譲りたくないと念じる自分にも。 「・・・ん」  布団に突っ伏した信幸が、くぐもった呻きを漏らす。秀介にしてみれば、今や日常と化した光景。それほどに信幸は、ほぼ毎晩のように悪夢にうなされている。ただ普段は、余程呼吸が不自然でもない限りは起こさない。面倒な上に何の利益もないからだ――でも、今朝は。 「信幸」  剥き出しの肩に手をかけ、そっと揺さぶる。やがて目を覚ましたのか、信幸は肩越しに振り返ると、秀介の姿を認めてほっと頬を緩める。  それから今度は、なぜか少し驚いた顔をする。 「どうした」 「・・・今」 「今?」 「僕の、名前・・・」  そしてふたたび信幸はゆるりと瞼を閉じる。心なしか、その寝顔は微笑んでいるようにも見え、吸い寄せられるように秀介はその唇に口づける。  そうしてまた信幸の寝顔を眺めながら、これは破滅の入り口かもしれない、と、秀介はうっすら思う。  人体は不思議だ、と、場違いなことをふと信幸は思う。  自ら触れることのできない身体の奥深くに、誰かに頼らなければ満たせない場所がある。端的に言えばそれは欠陥と呼び得るもので、しかし、その欠陥があればこそ、人は人たり得るのだ。要するに―― 「・・・あ・・・そ、そこ、っ」  目一杯に身体を開き、身体の奥で秀介を受け止めながら、もはやこの熱でしか満たされなくなった自分を信幸は自覚する。  この熱を知った夜から半月。早くも秀介のかたちに馴染んだ身体は、それ専用の鍵穴でもあるかのように受け入れたそばから開き、全てを曝け出してしまう。同性ゆえの躊躇も、義理の兄に抱かれる罪悪感も、さらには家族に露見する懸念さえ、この熱に触れた途端、何もかも綺麗に霧散してしまう。  欲しい。ただこの人が欲しい。  そうしてただ身体を開き、熟れた秘肉を秀介の見事な雄に蹂躙されると、喉の奥から信じがたいほど淫らな声が溢れ、まだ辛うじて露見を恐れる秀介を慌てさせるのだった。 「ここか」 「は、いっ・・・ぁ、いい」  襁褓を換える赤ん坊の恰好で、涙ながらに頷く。そんな信幸を上から見下ろしながら、秀介は腰の動きを大きくしてゆく。痩せた尻に秀介の腰がぶつかるたび、ぱち、ぱちと音が鳴る。その、肌と肌とがぶつかる乾いた音に紛れて、にち、にちと、これは粘膜同士が擦れ合う音。 「あ、だめ、きます。くる」 「待て、俺も」  しかし信幸は待てず、先に達してしまう。気を遣ったばかりの中は狂おしいほどに感度が増して、そこを、まだ遣っていない秀介が蹂躙を続けるから、行き場のない喜悦にいよいよ狂いそうになる。 「や、やだ、しゅうすけ、さん、やだ、ぁ」  シーツの上でいやいやと被りを振りながら、それが無駄な足掻きであろうことも同時に理解している。その狂おしい喜悦の先に何が待つのか、そんな期待と畏れさえも振り捨てながら、信幸は、秀介の熱い雄に無我夢中でむしゃぶりつく。 「あ、くる、っ、また、ああ」  突き上げられるたびずしりと揺れる脳髄。このままでは死ぬ。そう確信した刹那、信幸の奥で熱が爆ぜる。噴火はその後もしばらく続き、最後の一滴まで惜しみなく吐き出したところで、ようやく秀介は彼の淫らな雄を抜き取る。  巨大な異物を抜かれ、楽になったはずの身体。にもかかわらず、早くも寂しさを訴えはじめている。本来こういう用途にない孔は、今や秀介と繋がるためだけの器官へと進化し、ひどい時には、昼間にも秀介を求めて疼いてしまう。  このぶんでは今日も、バスルームに籠って自分で慰める羽目になる。なら、今のうちにできるだけ。そう思い、今度は自ら割り開くと、その指の隙間から、奥に封じていたはずの熱がとろりと溢れ出た。  それがなぜか悲しくて、今度は悦びのためではない涙が流れる。 「どうした」 「いえ・・・僕が、秀介さんのお子を宿せたら良いのに、って」  そんな唐突な信幸の妄言を嗤うでもなく、秀介は優しく口づけてくる。 「産みたいのか、俺の子を」 「はい・・・たくさん、たくさん産みたいです。食堂が賑やかになるぐらい、たくさん」  改めて、男の身体に生まれたことが悔やまれる。いくら種を撒かれても、それを宿すことのできない偽物の苗床。そのくせ他の女性に秀介の胤が撒かれることを思うと、心臓がひしゃげるほど胸が苦しくなる。それは、たとえ百合子が相手でも同様だった。  何て・・・身勝手な。 「そうか、そうだな、うん・・・飯は賑やかな方がいい」  否定するでも、愚かさを嗤うでもなく、静かに頷きながら信幸の肩を抱きしめる。そんな秀介の優しさを総身に受け止めながら、この幸せがいつまでも続くことを信幸は願った。例えば、そう、姉がどこかで野垂れ死んでいても構わない。そんな悍ましい想像さえ容易く赦すほどに、強く、ただ強く。  とはいえそれは、決して赦される願いではないのだろう。  信幸の汗ばんだ身体を抱きしめながら覚える充足。それは恐らく、一般に幸福と呼ばれるもので、しかし、それが茶番の上に成り立つ何かである以上、いつかは緞帳の向こうに消えてしまう。  その時、俺は何を思い、そして何を選び取るのだろう。 「おい、聞いているのか、秀介」  無造作に自分を呼ぶ声に、ふと秀介は我に返る。そういえば、この男の不細工な面を見るのは結婚式以来だ。頭と性格の悪さがそのまま滲み出たような阿呆面。秀介のように、せめて父親に似ていればもう少し見られる顔だっただろうに。その阿呆面の主である兄の洋太郎は、こんなところに足を運ばされたのは遺憾だとばかりに仏頂面で弟を睨みつけている。  それを言えば秀介の方こそ、今更俺の前に顔を出すなと言いたい。 「ええと、それで、今日はどういったご用で」  ここは美坂病院にある秀介専用の診察室で、しかし兄の顔色はどう診ても病人のそれではない。となると、残る目的は一つ。 「いやあ、来月の晩餐会で着る服を新調したいんだがね、例の配当金がまだ入ってこないのだ。何をやっているんだろうねまったく」  嘘だな、と秀介は内心で吐き捨てる。兄の言う例の配当金とは、台湾にある製糖会社のそれだ。が、その株券を兄がすでに手放していることを秀介は知っている。そうして得た金が、すでに兄の交際費に消えていることも。  ここ最近の華族共の没落といったらひどいものだ。黒川子爵家もその例に漏れず、先祖伝来の家宝をちまちまと売り払いながらどうにか糊口を凌いでいる。それでも家名だけは立派なものだから、相変わらず晩餐会の誘いが届き、そのたびに必死で外面を繕うことになる。  挙句こうして、他所へ婿入りした弟に金の無心に来る始末。 「・・・申し訳ありません、お兄様。僕もその、婿という立場上、そう大きなお金を自由にできるわけじゃないのです」 「こんなにでかい病院なのにか?」  狭い診察室をぐるりと見渡しながら、そう兄は声を張る。まるで乞食だ、と秀介は思う。立派な三つ揃えに巨体を包んでいても、この男の性根はまさに乞食そのもの。働きもせず、そのくせ金だけは欲しがって。ただ・・・どういうわけか、それ以上の感情を今は抱くことができない。  ずっと、この男を見下ろしてやりたかった。  そのためだけに秀介は、苦学して医者になり、軍人になった。子爵家の嫡男という以外は何の美点も持たないこの男を睥睨してやりたかった。妾腹の子と蔑まれ、家畜のようにあしらわれた過去の屈辱を晴らしたかった――なのに。 「これを」  財布から無造作に十円札の束を掴み出し、兄に差し出す。せいぜい二枚か三枚のその束を、しかし兄は毟るように奪い取ると、手元で何度もしつこく数え、やがて、は、と短く溜息をつく。 「だから言ったのだ。こんな成り上がりの家に婿入りして何になる、とな」  言い捨て、ようやく兄は診察室を出て行く。その背中が扉の向こうに消えたところで秀介は、ああ、ようやく消えてくれたとうんざり顔で息をつく。次からは守衛に頼んで、入り口であれを摘まみ出してもらおう。もはや顔を見るのも鬱陶しい。見下すことすら面倒だ。  逆に言えば、それ以外の感情は何もない。  あれほど滾らせた憎悪もそれに復讐心も、嘘のように秀介の中から消え失せていた。この現象がなぜ起こり、何を意味するのか、それすらも、もう、どうでもいい。  白衣のポケットから煙草を取り出し、火を点ける。そういえば今朝、信幸に、秀介との接吻は煙草の味がすると言われた。嫌か、と聞くと、信幸はいいえと笑い、秀介さんの匂いだから、とまた笑った。そんなことを、憎かったはずの兄と別れた後もつらつらと思い出している。今回に限らない。回診の時も、それに診察中でも、ふと思考が途切れる刹那、まるで息継ぎのように信幸の笑った顔を思い浮かべている。 「・・・はぁ」  どうかしている、本当に。  その後、午後の診察と夕方の院内回診を済ませると、秀介は、いつもより早めに屋敷へと帰った。  やけに屋敷が騒々しいことに気づいたのは、病院と屋敷を隔てる裏門をくぐった時だった。本邸と奥の離れを渡す廊下を忙しく行き交う女中たち。やがて、普段は離れに籠りきりの義祖母がいそいそと顔を覗かせる。これは・・・明らかに、美坂家に何かしらの動きがあった証拠だ。そして、その動きとは、おそらく―― 「百合子!」  そう、大声で呼ぶ義父の声が裏口からする。咄嗟に秀介は植木の物陰に隠れ、聞き耳を立てる。そんな秀介の耳に届く、明らかに聞き慣れない、いかにも生意気そうな女の声。 「ちょっと信幸さん、あなた本当に私のふりをなさってたの!? ――なによちっとも聞こえないわ。男のくせに、もっと堂々とお喋りなさい。ああそれとも、女の真似がすっかり板についてしまったのかしら?」  そこで裏口は閉ざされ、それ以上、声は届かなくなる。そのまま秀介は踵を返すと、人目を避けるように足早に病院へと引き返した。  その夜、寝室に信幸は現れなかった。義父の話によると、娘は急に熱を出し、大事を取って自室に籠らせたとのことだった。  だが、それを言えば秀介も医者だ。傍に置いて、これほど安心できる婿も他にいないだろう。それは、同じ医者である義父にもわかっているはずだ。要するに――と、いつにも増して広いベッドで秀介は思う。この期に及んで、なお下らない茶番を続けるつもりなのだ。その事実に、兄の来訪にも漣ひとつ立たなかった心が荒れている。激しく波打ち、苛立ちばかりを募らせる。  だが。  その相手は決して義両親でも、どころか百合子ですらもなかった。 「信幸、お前は・・・」  どうしてここに顔を出さない。百合子が戻り、もはや茶番を続けられなくなったのならそれはもう、どうでもいい。どのみち最初から、女の代わりなど求めてもいなかったのだ。あくまで秀介は、美坂信幸という一個の人間を抱いていたのだから。そして・・・それは信幸もわかっているはずだった。自分がなぜ求められ、抱かれたのか。熱を注がれ、詮無い夢を秀介と囁き合ったのか。  なのに、なあ、なぜなんだ。  どうせ連中に止められているのだろう。わかっている。が、だからこそ余計に腹が立つのだ。なぜ今更、あんな奴らの命令に従う。そもそもお前は、すでに一度壊しただろう。親が設けた舞台を。なのに・・・ 「・・・なぜなんだ」  なぜ今更、俺を独りにする。  そんな半端な想いで、俺を変えてほしくなかった。  翌朝。食堂へ朝食を摂りに下りた秀介の前に現れた〝妻〟は、信幸ではなかった。 「おはようございます。秀介さん」  姿も顔も、確かに信幸に酷似している。ただ骨格も、それに声も明らかに女のそれで、医者の秀介には一目で別人だとわかった。何より・・・安物の砂糖菓子じみた下品な媚び笑いは、朝露を思わせる信幸のそれとは似ても似つかない。  そんな娘の傍らで、義両親は何食わぬ顔を並べている。まるで最初から、嫁はこの娘だったとでも言いたげな。そりゃ、まあそうだろうなと秀介は納得する。百合子が戻った時点で、連中にしてみれば何もかも丸く収まっているのだ。今更、これまでの恥ずべき行状を打ち明ける理由はない。  そして、それは実のところ秀介も同じ事情なのだった。  ここで彼らの茶番を責め立てれば、いずれ手に入るはずのこの屋敷も、それにあの大病院も、全て絵に描いた餅と化してしまう。そう、頭の中で算盤を弾く秀介の腕に、やけにだらしのない肉が纏わりつく。見ると百合子が、例の媚びるような笑みを浮かべて秀介の腕に取りついている。女らしい豊満な胸を、これ見よがしに押し当てながら。 「さあ、いただきましょ」  そして百合子は、女中たちに雑な口調で朝食を運ぶよう命じる。それは、かつて秀介を家畜扱いした兄の口調を思わせ、潮が引くようにざっと食欲が失せる。少なくとも・・・信幸の時は、こんな思いは一度もしなかった。 「すみません、今朝は・・・結構です」  さりげなく百合子の腕を引き剥がすと、その足で秀介は逃げるように病院へと向かった。  信幸と再会したのは、その日の昼休憩の時分だった。 「・・・信幸」  義父に連れられ、唐突に診察室へと顔を出した信幸に、秀介は、二人に聞き咎められないよう驚きの声を抑えるのが精一杯だった。  それは、初めて目にする男の姿だった。  良家のお坊ちゃんらしい鹿の子織りの背広にループタイ。ただ、窮屈そうに屈められた背中が、せっかくの洒落た衣装を台無しにしている。頭は女の断髪ではなく、男子らしく前髪を撫でつけている。白く秀でた額に、切れ長の眉目がいっそう映えている。  その信幸は、さっきから秀介の方を見ようともしない。仮面じみた無表情を、ただ頑なに俯けている。――が、それでも秀介は見紛うはずもなかった。お前が、お前こそが、夜の底で何度も求め合った。 「いや紹介が遅れてすまない。昨日、ようやく長野の療養所から戻ったものでね。百合子の弟の信幸だ」  父の紹介を受け、ようやく信幸は「はじめまして」と口を開く。が、その声はあくまでも硬い。秀介に正体を打ち明けた時も声を強張らせていたが、今のそれはもっと無機質で、一切の体温を感じさせなかった。まるで、そう、本当の見知らぬ他人に対するような。  これまでの夜は、夢か幻だったとでもいうような。 「ああ、そうだな。はじめまして」  強いて冷ややかに、秀介は挨拶を返す。ところが信幸は、相変わらず他人の顔で目の前に佇んでいる。・・・何が、はじめまして、だ。なぜ父親の言いなりに他人の顔ばかりする。いや、まあそうか、最初から、お前はそういう奴だったな。親に命じられるまま姉を装い、俺を欺きそして――そして秀介は思い出す。結局、彼自身もその茶番に乗ったのだ。この大病院と、それから美坂の財を手に入れるために。 「うん・・・信幸君か。私は、秀介。兄の美坂秀介だ。よろしく」  右手を差し出し、握手を求める。もう幾度となく繋ぎ、重ね、互いのあらぬ場所をも許し合った手のひら。だが、その繋がりは最初から幻想だった。いや違う、秀介がそう望んだのだ。茶番は茶番のまま。幻想は幻想のまま。  そうして今、二人は他人の顔で向き合っている。  なぜなら、全ては幻だったのだから。 「・・・よろしく、おねがいします」  呟くと、信幸はそろりと秀介の手を握り返してくる。冷たく乾いた手のひらは、何の心も、体温すらも伝えてこない。それが、全てを開いた彼の肌をなおいっそう遠くに感じさせた。  そんな信幸の冷たい手をぎこちなく握り返し、挨拶を終える。ああ、終わった。そしてここからは、もう、何も始まらない。仮にこの信幸と新しい関係を築くにせよ、それはもう、あの熱く切ない日々とは別物なのだ。そう、ただの義兄弟として。でもそれが、二人の本来の在り方で―― 「秀介さん」  握手がほどける間際、ふと名を呼ばれる。見ると、信幸があの夜と同じ眼差しで秀介を見上げている。大粒の瞳を寂しそうに潤ませて・・・  そうだ。  あれは、幻想なんかじゃなかった。確かに、一度はこの手で抱きしめた。肌を求め合い、孤独を嘗め合った。明日も知れぬシベリアの凍土で見上げた青の星空。その美しさと感動を言葉だけで分かち合いながら、こんな繋がり方もあるのだ、と心が震えた。  信幸、俺は、お前が――  ところが、すぐに信幸は何食わぬ顔で踵を返し、義父に続いて診察室を出て行く。 「――ま、」  待て、と言いかけ、しかし結局は何の言葉もかけることのできない自分に秀介は愕然となる。兄を見下すだけの力は手に入れた。が、それが何だと今は思う。相変わらず何一つままならない。願いに手を伸ばすことができない。  ――お慕いして、います。  そう。強さとは、この手を願いへと伸ばす力。その意味で、信幸は強かった。少なくとも一度は、秀介を求めて手を伸ばしたのだから。  では、秀介は。 「・・・俺は、」  懐の煙草に手を伸ばし、思い直して止める。違う、俺が欲しいのは、ひとときの痛みを慰めるだけの麻薬じゃない。俺が、俺の心が欲しているのは。  今度は、手ではなく足を踏み出し診察室を出る。案の定、すでに信幸の姿はない。が、そんなことはどうでもよかった。大股で廊下を進み、ロビー横に設けられた電話室に飛び込む。  急くようにハンドルを回し、交換手を呼び出すと、さっそく秀介は命じる。 「言論社に繋いでくれ。そう、婦人月報の。ええと、番号は――」  姉が屋敷に戻って以来、毎日のように催しが続いている。  あたかもそれは、これまで控えていた結婚のお披露目を慌てて取り戻すかのようだった。確かに、式こそ挙げてはいるものの、例えば学生時代の友人を集めた催しは開かれていない。それは、本来社交的で交遊も広い姉にしてみればありえざる状況だった。  とはいえ、本物の姉が行方知れずである以上、そうした催しを開くわけにもいかない。さすがに本人を知る友人に、代役を会わせるわけにもいかないだろう。というわけで、これまで控えられていたその手の催しだが、その本人が戻った今、当時の無沙汰を慌てて取り戻しているわけだ。  この日も美坂の屋敷では、午後の園遊会に向けた準備が進められていた。朝から多くの業者が屋敷に出入りし、料理の材料や、来客に配る手土産用の菓子包みを納めてゆく。そうした忙しない空気を避けるように、信幸は一人、奥の自室に籠って本を読んでいた。といっても、内容にこだわりはない。何を読んでも学んでも、どのみち誰とも共有できない。恋の喜びも悲しみも、胸躍る冒険の興奮さえ。  いや違うな、と、書生部屋の粗末な天井を見上げながら信幸は思う。単純に、二人の姿を目にしたくないだけ。絵画のように美しい美男美女。その完璧な光景を前に、これ以上、孤独を味わいたくないだけだ。  それでも開場が迫るなら、花嫁の弟である信幸は奥に籠るわけにもいかない。そう自分に言い聞かせ、どうにか重い腰を上げて私室を出ると、廊下の片隅で、二人の女中が何やら囁き合っている。 「じゃあ、前のドレスはもう入らないのね」 「そう。・・・旦那様のお見立てだと、もう四か月だそうよ」 「あら、まぁ」  深刻そうな、でもどこか呑気な囁き。何にせよ、女子の会話に聞き耳を立てるのは紳士の振る舞いではない。抜き足でその場を離れ、階段を降りる。  庭には、すでに紅白の垂れ幕が渡され、庭に並んだ園遊会用のテーブルには豪華な大皿が所狭しと犇めいていた。立食パーティー、というものだろうか。料理はサンドイッチなど、いずれも手でつまみながら食べられるもので、気の置けない友人との軽やかな集まりを想像させる。  しかし、想像が具体性を帯びるにつれ、信幸は辛うじて貼り付けた笑みすら保つのが難しくなる。  やがてここに現れるはずの主役たち。一人はドレス、もう一人は洒落た燕尾服に身を包んだ一組の男女。彼らこそが主役と言わんばかりの立ち姿に、もはや周囲の全てがただの書割と化してしまう。  そう、僕の幕はもう下りてしまった。  所詮は、舞台の間を繋ぐだけの滑稽な幕間劇。それでも信幸にとっては唯一の、忘れがたく美しい舞台だった。触れ合う肌。重なる唇。叶わないと知りつつ、それでも語り合った幸せな夢。でも、その幕はもう―― 「あなたが、美坂信幸さん?」  不意に呼び止められ、振り返る。洋装の麗しい女性が、なぜか面白そうに信幸の顔を覗き込んでいた。 「本当にそっくりね。一目でご姉弟だとわかったわ」 「・・・え、」  思わず身構え、それから、下手に身構えるのは逆効果だと自分を窘める。あの茶番を知るのは、美坂家の人間と、それから秀介の他にはいないはず。 「え、ええと、よく、言われます。あの――」 「ああごめんなさい。わたくし、言論社の三島佐和子といいます。婦人月報を出している会社、と言えば伝わるかしら?」 「婦人月報? ・・・あっ!」  あの、頻繁に信幸たちの写真を載せていた。 「あ、あの写真、どうして・・・」 「どうして? そりゃ読者に人気だからよ。美坂病院のハンサムガイ。麗しきおしどり夫婦。絵画のような美男美女・・・最近では、お姉様のファッションを真似るのが若い子の間で流行っているみたい」 「ええっ!? ・・・うわぁ」  何だかひどく居た堪れない。本当は男同士なのに。 「ええと、それで、その・・・僕に何かご用ですか」 「いいえ。これはごく個人的なお声がけ。というより・・・興味?」 「興味?」 「ええ。あの退屈な男の目を覚まさせたミューズの姿を、この目で直接確かめたくて」  そして佐和子は、赤い唇をにっと左右に引く。その思わせぶりな笑みに潜む意味を探りかけた信幸はしかし、不意に聞こえたざわめきに、慌ててその思考を中断する。  それは、玄関の方から聞こえた。最初は、単に来客が増えたせいだろうと信幸は思った。ただ、それにしては明らかに雰囲気が剣呑で、単なる友人同士の気の置けないおしゃべりには聞こえない。 「あ、あの僕、失礼します」  佐和子に断りを入れ、玄関へと急ぐ。来客を玄関からそのまま庭へと誘導できるよう、園遊会の時はいつも庭と玄関ホールとを繋ぐ扉が解放される。その扉を抜けてホールに飛び込むと、すでにそこは、姉の友人と思しき女性たちの姿で溢れていた。ただ、やはり一様に怪訝と疑念の色とに覆われている。一体、何が・・・? 「あなたも読んだの?」 「ええ。嘘だと信じたいけど・・・でも、あそこの雑誌がいい加減なことを書くとは思えないわ」 「あんなに旦那様と仲睦まじかった百合子さんが、まさか、ねえ」  えっ、と思わず耳を疑ったその時、折しも階上から明るい声がする。見ると、茜色のゆったりとしたドレスに身を包んだ姉の百合子が、歌劇団の主役よろしくホールの階段を下りるところだった。 「いらっしゃい。今日は皆さん楽しんでいらしてね」  そんな姉に、さっそく数人の客が詰め寄る。その手には、やけに見覚えのある表題の雑誌。 「どういうことなの、百合子さん、これ」 「えっ?」 「結婚した後も、別の男性とお付き合いをしてたって本当なの?」 「共産主義者と関わっていただなんて・・・嘘よね?」 「えっ? あの、なに」  矢継ぎ早の問いに、姉は目を白黒させる。そんな姉に、さらに一人の客が「今日発売の婦人月報に書いてあったのよ!」と喚く。と、今度はその声を皮切りに、ホール全体に騒動の波が広がってゆく。ええ、私も読んだわ。私も。方々から起きる囁きに、姉はすっかり顔を青くする。 「み・・・三島さん、」  ああそうだ、騒動の元があの雑誌なら、その関係者である佐和子にまずは事情を問わなくては。ところが、いくら探しても彼女の姿は見つからない。まるで、この騒動を予期していたかのように気配もろとも綺麗に消えている。 「こんなの全部インチキよ!」  不意に響く悲鳴。見ると姉が、床に落ちた婦人月報を靴で執拗に踏みつけにしている。誰かの手から奪い取り、床に叩きつけるなりしたのだろう。と、横から伸びた手がそれを拾い上げ、軽く埃を叩いてからはらりと頁を開く。  男物の白い手袋。仕立ての良いモーニング。すらりと高い上背。品の良いタイと、それから、悲しいほど見慣れた精悍な横顔。  やがて秀介は雑誌から顔を上げ、目の前の妻を見る。それは、多少は付き合いの長い信幸ですら初めて目にするほどの冷たい双眸だった。信幸が正体を明かした時でさえ、あそこまで冷たい目はしなかったように思う。 「これは、事実ですか」  明らかな詰問口調。そんな夫にしかし、姉は怯むどころかさらに怒鳴る。 「事実ですって? まさかあなた、こんな三文雑誌の記事を信じたとでもいうんじゃないでしょうね!? そ・・・それを言えばあなたこそ、お父様の病院目当てで婿入りしただけの人殺しじゃない!」  人殺し、という不穏な単語に、周囲の空気がさっと凍る。人殺し? と、そこかしこで湧く囁き。それらの声を背中に受け、姉はさらに居丈高に告げる。 「ええ、わたくし存じているのよ。あなたシベリアで、たくさん人を殺したんでしょ! 何の罪もないかわいそうな民間人を、女性も子供も、パルチザンと称していっぱい撃ち殺して!」  言い切ると、姉は勝ち誇るように胸を張る。ところが周囲の空気は、本人の意気とは裏腹に急速に冷めてゆく。 「主義者とつるんでたってのは本当らしいな」 「じゃあ浮気の話も・・・?」 「おしどり夫婦なんて嘘じゃない。がっかりだわ。せっかくお二人に憧れていたのに」  そうした空気の変化を、さすがの姉も勘付いたらしい。あからさまに困惑し、助けを求めるようにあたふたと目を泳がせる。  そんな妻に、秀介は言い聞かせるように告げる。 「確かに、そうした悲劇もなかったかと言えば、それは嘘になります」  ふと信幸の脳裏に広がる青い星空。ああ、そうだ。あそこは、ただ綺麗なだけでなく、そういう、残酷な場所でもあったのだ。 「あの頃、私は医者だが同時に軍人でもありました。軍人として戦地にあった以上、当然、そうした事態とも無縁ではなかった。・・・それを、作戦のために仕方なく、といった言い訳はしたくありません。ただ、戦地で民間人に扮しつつ銃を向けてくる敵と、ではあなたは、どのように戦いますか。それとも、戦わずに大人しく死にますか。あそこは、シベリアは、そういう戦場でした」  言葉の粒の一つひとつが、ずしり、ずしりと胸に押し積もる。青く美しい夜空の下、星の囁きを聞きながら、あの人は、一体どれほどの悲しみを、痛みを噛み締めていたのだろう。  そんな信幸の想像はしかし、姉の癇癪めいた声に切り捨てられる。 「要するに、人を殺した、ということね? よかった。やっぱりわたくし、間違ってなどいなかったわ!」  そして今度は、よく見ると少し膨らんだ腹を撫でながら言い放つ。 「出て行って! あなたのような人殺し、この子の父親にはふさわしくないわ!」 「こ――」  子供? その言葉に信幸は愕然となる。そういえば先程、廊下で女中たちが話をしていた。父の見立てでは四か月――あれは姉の話で、その姉が屋敷に戻ったのはついひと月前。ということは・・・あの子は、どう考えても秀介の子供ではない。それは、いい、むしろ少しほっとしている。ただ、だとしても。  ふと身体の奥に蘇る秀介の熱。あの人の胤を受け止めながら、彼の子供を宿したいと、胸がちぎれるほどに願った。  それを、あの姉は。  宿すことのできる身体を持ちながら、あの女は。  やがて、騒動を聞きつけた父と母が食堂から駆け出してくる。見るからに必死な形相はしかし、どこまでも芝居めいて見える。  二人は、すでに知っていたのだろう。百合子の腹に宿る、父親の顔もわからない子供のことを。父は当然として、母も、娘のそうした異変に気付かなかったはずがない。  誰も彼も、ここでは道化でしかない。 「姦通罪で訴えるなら、ええ、訴えなさいよ。それで、あなたのような人殺しの子供を産まずに済むなら、むしろ願ったり――」  パンッ、と、鋭く肉を打つ音がして、それが、自分が百合子の頬に繰り出した平手打ちの音だと信幸は遅れて理解する。ただ、理解は追いついても、相変わらず胸の中はあらゆる感情がぐつぐつと煮えたぎって、何一つ言葉にできない。  それでも、どうにかして信幸は言葉を探す。怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、あるいは嫉妬、羨望――しかし、何一つぴたりと嵌らない。しっくりこない。  違うんだ。  僕は、ただ・・・ 「・・・だったら僕にください」 「は?」 「いらないんでしょう。だったら僕にください。僕が・・・僕が欲しいんです。秀介さんのこと、僕が」  ひとしきり言葉を絞り出してから、平手打ちと同様、そう声に出したかった自分に信幸は遅れて気付かされる。・・・そう、欲しかった。最初に会った時から。百合子が帰り、義弟として引き裂かれた後も、ずっと。ずっと。 「愛してるんです」  相変わらず百合子は、殴られた頬を押さえながら呆然と信幸を見つめている。ただ、丸く見開かれたその目に宿るのものが驚きなのか、あるいは怒りなのか、もはや興味を抱くことすらできない。遠くで凍りつく両親にも、周囲で遠巻きに眺める人々にも。  そんな、書割めいた視線の中で信幸は一人、踵を返して秀介の胸に飛び込む。 「秀介さん」  本当は、百合子を愛していたのかもしれない。こんな横槍は迷惑だったのかも。そうでなくとも、あんな酷い言葉を投げつけられて、その弟にこんな言葉をかけられたところで不愉快なだけだろう。  それでも、と、信幸は思う。  それでも僕は、今の言葉を後悔しない。あの平手打ちを後悔しない。たとえこの人に拒まれて、また独りきりになっても、それはもう、以前の寄る辺ない孤独とは違う。誰もいない一人きりの草原でも、顔を上げればそこにはいつだって星空が広がっている。あの人も見た、星が囁く青い夜空。  やがて。 「かなわないな、君には」  信幸の背中に、強く温かな腕が回る。もう幾度となく抱かれ、だから、その熱の主が信幸にはすぐにわかった。  全ては、秀介が仕込んだ茶番だった。  佐和子に電話をかけた秀介は、これまでの百合子の行状を婦人月報に掲載するよう頼み込んだ。社交界の醜聞は、中身はどうあれ女たちの恰好の肴だ。まして、話題の美人夫婦絡みのそれなら猶更だったろう。  案の定、佐和子は二つ返事で応じてくれた。元は秀介のために気まぐれで集められた情報は、瞬く間に分厚い醜聞記事になった。そして今日、それは世に放たれた。ジャーナリズムの皮を被った茶番の小道具として。  そう、それは所詮、ただの小道具だった。記事を通じて百合子の醜聞を知った体にすれば、秀介も堂々と縁を切ることができる。病院も美坂の財産も、もはや秀介には何の餌にもなりはしなかった。  今はただ、彼の義兄という不本意な役目から降りたかった。この、下らない茶番劇の舞台から――ところが。 「かなわないな、君には」  その舞台ごと、信幸はものの見事に叩き壊した。秀介を含め、周りの連中がくだらない三文芝居に興じる中、彼だけは、いつだって真実の中に生きていた。  だから秀介も、今度こそは真実で応える。 「俺も、愛してる」  成功も、財産も、全てを失っても惜しくないもの。  二人だけが知る、美しい真実。  タラップを降りると、大蒜と韮の匂いがぷんと香った。  乱れ飛ぶ様々な言葉。多くは日本語だが、耳を聾する雑踏に紛れて中国語や英語の怒鳴り声も聞こえてくる。帝都を出て半月。長崎まで汽車に揺られ、そこから連絡船に乗り換えて一昼夜。ようやく辿り着いた上海の港は、想像通り――あるいはそれ以上に騒々しい街だった。 「今日から・・・この街に住むんですね、僕たち」  すると、隣に立つ秀介はなぜか困り顔で肩をすくめる。そんな他愛ない仕草でも美しく様になるのは、仕立ての良い背広のせいだけではないだろう。 「まあ、うまく仕事にありつけたらの話だがな」 「大丈夫ですよ。秀介さんは優秀なので。・・・問題は僕です。何か、手に職でもあればよかったんですが」  そう項垂れる信幸の肩に、大きな手のひらがとん、と置かれる。ここまでの長旅で音を上げそうになるたび、幾度となく信幸を励ました優しくも力強い手のひら。 「まだ若いんだ。これからゆっくり身につければいい」  でも、と返しかけた信幸は、こちらを見下ろす秀介の柔らかな眼差しにそれを呑み込む。根拠など必要ない。この人が見守ってくれる限り、きっと自分は大丈夫だと信幸は確信する。それはこの、異国の街においてもきっと変わらない。  あの騒動の後、信幸は、ほとんど駆け落ち同然に秀介と帝都を飛び出した。  例の記事により社交界での立場が地に落ちた百合子の代わりに、父と祖母は今更のように信幸を後継者候補に持ち上げた。この際、医者になれなくとも良い。経営を学び、頃合いを見て嫁を娶り、丈夫な子を成してくれれば――だが。  これ以上、彼らの茶番に付き合う義理は信幸にはなかった。  そんなわけで信幸は、秀介とともにあの家を飛び出し、今は遠い異国の街に立って――と、気負いつつ街を歩き始めた信幸だったが、意外にも内地とそう変わらない光景に、むしろ軽い落胆を覚える。 「何というか・・・日本語の看板ばかりですね」  すると隣を歩く秀介は、あはは、と声を上げて笑う。 「このあたりは、いわゆる日本租界だからね。あの川を渡ると共同租界・・・事実上のイギリス領だ。ここよりは多少、異国情緒を楽しめるよ」  秀介の言う通り、ガーデンブリッジと呼ばれる橋を渡ると、景色は一気に異国のそれへと変貌した。  上陸の際、連絡船の甲板から遠目に眺めた外灘のビルヂング群が目の前に迫る。そんな、帝都でも目にしなかった巨大な摩天楼群の足元を、多種多様な人種、国籍、階層の人間が忙しく行き交う。人力車を引く中国人人夫。その座席でのんびり葉巻を吹かす資産家と思しき白人。そうした人や車を、手信号で忙しく誘導するターバン姿のインド人――・・・ 「大丈夫か」  ふらついたところを素早く秀介に抱き留められ、改めて、見守られているのだなと信幸は嬉しくなる。実際、もう長いこと気分が悪く、ただでさえ一歩の長い秀介の歩みに追いすがるので精一杯だったのだ。 「あ・・・りがとう、ございます」 「人混みに酔ったのかもしれないな。うん・・・タクシーでも取ればよかった。悪いことをしたな」 「いえ、おかげで、街を散策できたので」  何とか笑って見せるも、それでも秀介は心配顔を解かない。思いのほか心配をかけてしまったことが、今更のように申し訳なくなる。 「今日は、この辺りで宿を取るか」 「・・・はい」  これ以上、秀介を困らせるのも忍びない。本当は、見るからに値が張りそうなこの辺りのホテルは避けたかったのだけど。  とりあえず入った近場のホテルは、案の定、かなり値の張る宿だった。その代わり、内装や家具、調度品はいずれも息を呑むほどに美しく、給仕たちのマナーも素晴らしく行き届いている。純粋な英国式のようでいて、細部に東洋らしい趣味をちりばめた客室はまさに国際都市の面目躍如といった風情で、改めて――というより今になってようやく信幸は、ああ、遠くに来たのだな、としみじみ思う。  窓越しに林立する異国のビル群。おそらく自分は、もう二度と、帝都に戻ることはないだろう。父も祖母も、家を捨てた信幸を決して許しはしないだろうし、それに信幸も、秀介を最悪の方法で侮辱した百合子を許すつもりはない。決して。  さっそく秀介は小卓にウイスキーと二人分のグラスを見つけると、手早く注ぎ分け、その一つを信幸に手渡す。 「乾杯」 「か・・・乾杯」  軽くグラスをかち合わせ、秀介は一息に中身を干す、信幸は一度ちろりと舐めてから、強い酒精と苦みにおののき、そっとグラスを小卓に戻す。  一方、秀介はそのまま二杯目をグラスに注ぐと、猫足の洒落たソファに無造作に腰を下ろす。憮然とグラスを見下ろす目つきは、心なしか、後悔を孕んでいるようにも見える。 「本当に・・・よかったのか」 「えっ?」 「あのまま家に残っていれば、少なくとも、今までよりマシな暮らしはできたはずだ。ああなった以上、もはや、お父様は君に病院を託すしかなかった。だから」  そして秀介は、手元の二杯目をまたしても一気に呷る。 「貧乏は惨めだぜ。人には馬鹿にされ、蔑まれる。君も病気で苦労したんだろうが、貧乏のそれはまだ格別だ。その点、君はまだまだお坊ちゃんだよ・・・それが嫌なら、今からでもまだ間に合う。帝都に戻ってくれ」 「そんなの――」  今更できるわけがない、と信幸は思う。現実的にはともかく気持ちの上で。おそらく秀介も、それを理解した上でこんな弱気を口にしているのだ。信幸は戻らない。きっと、これからもそばにいてくれる。それは、ある種の信頼で、その信頼が、今は少し嬉しい。  秀介の隣に腰を下ろし、その、らしくなく項垂れる肩にそっと額を預ける。  愛してる、と、彼の口から告げられた時の感動を思い出す。あの瞬間、世界そのものが輝いて見えた。満天の星空のようにきらきらと。その、世界の在り様そのものが覆るかのような感動を、信幸は生涯忘れないだろう。  そして、その感動が胸にある限りは。 「大丈夫。これからも、秀介さんのそばにいます。ずっと」  小卓から先程のグラスを取り、中の洋酒を、今度は味も確かめず一気に喉に流し込む。強い酒精が喉を焼き、何となく、この人に注がれる精に似ているなと信幸は思う。柔らかな粘膜を暴力的に焼く精。なのにその熱と痺れは、信幸の中に眠る欲望を否応なしに呼び覚ます。 「・・・秀介さん」  何となしにその名を呼び、それが、ひどく淫らな響きを帯びていることに気付いて信幸はおののく。いくら何でも下品だ。逃げるようにソファを立ち、窓へと向かう。  いつしか日は没し、代わりに眼下の街が眩いほどにさんざめいている。星空を鏡写しにしたかのようなその光景に見惚れていると、ふと、背後から肩を抱かれ、首筋を軽く吸われた。 「ま、待って・・・せめて、湯浴みをしてから」 「なぜ。誘ったのは君の方だろう」 「ち・・・ちがいます、ちがう・・・」  身を捩り、せめてもの抵抗を試みる。が、思いのほか強く抱きしめられ、身じろぎもままならない。そうこうするうちに今度は顎を掬われ、肩越しに深く口づけられる。  鼻先どころか口腔の奥にさえ容赦なく届く、秀介の吐息が孕む強い酒精。 「潮の香りがする」 「え、ええ・・・一昼夜、船に揺られていましたから・・・っ、」  今度は耳朶を食まれ、そのままじっくりと舐られる。その耳朶から頬にかけて、火が付いたように熱が灯るのを感じる。きっと今頃、浅ましいほど赤く色づいて、それを秀介にも気づかれているだろう。  前に回された手が手探りでループタイを解き、シャツのボタンを開く。そうして露わになった胸板を、秀介は執拗に、貪欲にまさぐる。やがて胸の尖りを突き止められ、強く擦り上げられると、それだけで身体は淫らに花開いてしまう。あの鍵を待つまでもなく――いや違う。この手が、吐息がすでに鍵なのだ。触れるだけで信幸を開き、葛湯のように蕩かしてしまう。 「あ・・・秀介、さ、っ」  ねだるように腰を振る。すると胸を弄る手が、滑るように下腹部へと移る。そのまま秀介は器用に信幸のベルトを解くと、下着ごとパンツを膝下へとずり下ろす。  早くも暴かれた双丘。その狭い谷間を、焼けた鉄にも似た欲望がぞろりと撫でる。ああ、求められている。その確かな欲望に信幸は、安堵と興奮とを同時に噛み締める。  背筋に感じる雄の長さが、そのまま繋がりの深さを想像させ、存在しないはずの臓器をじんと疼かせる。女に生まれてさえいれば、秀介の胤を宿し、育むことができたはずの場所。 「ほ・・・しい」  わかっている。所詮は偽物の苗床。それでも、奇跡は常に起こり得るのだ。虚構から始まった夫婦が、真実の愛を宿すこともあるように。 「あ、うっ」  不意に貫かれ、そのまま揺さぶられるかと思いきや、なぜか秀介は自身を信幸に埋めたまま静かに深呼吸する。重なる粘膜の感触を、時間をかけてじっくり味わっているらしい。静かに溶け合う粘膜。内壁が伝える秀介の生々しいかたち。  それは、信幸にとっては初めて経験する類の交合だった。奥の襞を一つひとつ辿るように抽挿される雄は、普段の貪るような交わりとは全く異質な喜悦を奥へと注ぐ。 「んっ・・・や・・・」  縋るように眼前の窓に両手を突き、これでは外から見えてしまうのではと遅れて気付く。が、そんなことはお構いなしに、なおも秀介は信幸の内壁を執拗に味わう。 「凄いな・・・ぴったりと吸いついてくる」 「や・・・き、きたくない・・・っ」  それでも、一度そうと指摘されると、彼の雄を貪欲に吸い上げる肉の蠕動を嫌でも意識させられてしまう。・・・いやだ、こんな恥ずかしい場所で、これ以上乱されたくないのに。 「っ!?」  不意に奥を軽く小突かれ、それが突き抜けるような喜悦を生む。知らない、こんなの僕はしらない。長崎から上海へと渡る船に乗り込む時ですら抱くことのなかった未知への恐怖が、不意に眼前に現れる。いやだ、それ以上は進みたくない―― 「信幸」  耳元で名を呼ばれ、その声にようやく信幸は思い出す。ああそうだ。自分は、独りではない。未来に待つであろう数々の困難や悲劇。でも秀介と一緒なら、きっと、いや必ず乗り越えられる。 「男に二言はない」  なおも小刻みに奥を突き上げながら、さらに秀介は信幸の背中を掻き寄せ、首筋に吸いついてくる。 「死ぬまで、俺のそばにいてもらう。お前が、言ったんだ・・・っ、お前が、約束した」  喘ぎ喘ぎ紡がれる声は、心なしかひどく上擦っている。泣いているのだろうか。いや、この人に限って――そんな疑念も想像も、次第に激しさを増す波に揉まれ、やがて水平線の彼方へと消えてしまう。 「約束だ」 「っ・・・はい。約束・・・っ、あぁ」  顎を掬われ、肩越しにふたたび唇を奪われる。もはや恥じらう余裕すら許されないまま、信幸は、眼下の星空めがけて欲望の証を吐く。  ベッドに移った後も、二人は際限なく求め合った。旅の疲れなど嘘のような終わりのない交合にようやく精魂尽き始めた頃、窓越しに広がる摩天楼の森に新たな朝が覗く。 「・・・明けたな」  なおも信幸を貫きながら、言わずもがなのことを囁く。信幸の痩せた腹は、汗と、それから彼自身が吐いたものでどろどろに汚れ、また随分と出したなと呆れがちに秀介は思う。いや、それを言えば自分こそひどいものだ。試しに雄を抜き取ると、丸一晩の交わりですっかり緩んだ肉の花から、溜め込んだ白い精がごぼりと溢れ出た。 「あ・・・やだ」  排泄じみた感覚が恥ずかしいのか、身を震わせて信幸は泣く。そんな信幸の、赤く腫れた目尻に軽く口づけると、今度はその耳元でそっと囁く。 「今日は、どこに行こうか」  仕事も探したい。いや、その前にまずは家が要る。ただ、せっかくの異国の街だ。着いたそばから生活のためにあくせく動くのも味気ない。何より今はまだ、街の空気そのものに慣れる段階だとも思う。だから今日は観光でもと、そのつもりでかけた一言だった。  すると信幸は、目を蕩かせたまましばし考え込んで、 「秀介さんと一緒なら、どこでも」  と、嬉しそうに微笑む。  そんな信幸に、ああ、やっぱりこいつには敵わないなと観念しながら、秀介は、今度はその唇にそっと口づける。  ああそうだ。どこだっていい。  この愛しい命と共にあるなら、たとえ地の果てでも。
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