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先生はシキを軽々と抱えるとソファーの上に座らせた。
最近は寝室まで行くことすらだるくてリビングのソファーで寝ていて、布団もそこにある。シキはソファーに座らされた後、いつもみたいに布団に包まった。
「寝るかい?」
「…うん、起きてるの最近つらいから」
「そう、わかった。おやすみシキ」
最近起きてるのが辛いのはご飯食べていないせいなのか、それとも寒いせいなのか。多分どっちもだ。
極端に寒くなったり暑くなったりするとどうしても食欲が落ちてしまう。今はおにぎりを作って食べたりするけど、この寒さだとそれすら食べなくなってしまう。先生はそれを気にしているんだろうけど、シキにとってはもうどうでもいいことだった。
優一郎と食べた大福の甘さが忘れられない。
先生はシキが目を瞑って数分後には部屋を出て行った。寝たと思ったんだろうけど、実際は寝ていない。日中もずっと寝ていたせいでだるく、寝ることができない。
シキはゆっくり体を起こすと、ピアノの部屋に入った。黒光りしたそれは、シキが弾かなくなってから少し寂しいよと言ってきている気がする。
ピアノの前の椅子に座って重い鍵盤蓋を開けると、白い鍵盤が現れる。シキはそっとそこに触れると、ドの音をそっと押した。調律されていないピアノは妙に外れた音を出した。
お母さんに仕込まれた音感のおかげで、普段は調律もシキが行っている。 年に2回ほどいつも調律を行っているが、今年に入ってからは1度もしていない。徐々に音は狂いだすだろう。
ぼんやりピアノを眺めた後、月の光を弾いてみる。真っ暗な部屋の中でも、ピアノは弾ける。指が覚えている。多分目を瞑っていてもピアノは弾けるという自信はあった。
簡単で少し切なげな月の光。お母さんもよく弾いていた曲。
お母さんはだれを思い浮かべながら弾いていたんだろう。この曲はだれかを思って弾く曲だとお母さんは言っていた。じゃあお母さんにもそういう人がいたのかもしれない。
たとえば、シキの優一郎みたいな――
手を鍵盤にたたきつけると、ピアノが不協和音な悲鳴を上げた。
「もういやだ!」
頭を抱えて叫ぶ。優一郎、優一郎、優一郎ばっかり。思い出すのは優一郎のことばっかりだ。せっかくお母さんのことを思い出しながら弾けていたのに、また頭の中は優一郎で埋め尽くされてしまった。
「…嫌い」
嫌い。
「優一郎なんて」
嫌い。
「うう」
言えなくて、口ごもる。嫌いじゃない、好きだった。大好きだった。一緒にいてくれると思っていた。
でも全然そんなことはなくて、優一郎は簡単にシキから離れていった。どうして、なんで、どうして、なんで。そればかりが頭の中を占めてつらい。
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