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逃がさない
コミュニティとの決別を決めた私を待っていたのは、戒律に背くような嫌がらせの数々だった。深夜に鳴るアパートのドアチャイム、スマホへの非通知着信。職場にまで頻繁に電話を掛けてくるせいで、上司に叱責された。
負けてたまるか。仕事が終わると新しい小説の原稿を書いて、嫌がらせを無視し続けた。職場と家の往復、久しぶりに書く小説。充実した毎日さえあればきっと大丈夫。
ところが、ある日職場に行くと皆が私を露骨に避ける。営業職なので事務所にずっといるわけではないから何があったか聞く暇もなかった。客先に出向こうと支度を始めたときに、部長と所長の二人に呼ばれた。
面談スペースで見せられたのは、コミュニティで私が書いていた広報誌の記事のコピーと会合で皆で撮った写真だった。
「いや別にね、個人の信仰に踏み込むつもりはないよ。ただ、長期間、副業禁止規定に違反してそれを隠していたとなると懲戒対象だよ。わかるよね?」
部長はもう一部、別の書類をテーブルに取り出した。それは、コミュニティが私に支払い続けた原稿料の明細と総額だった。所長は、侮蔑の眼差しで私を見ていた。
「懲戒免職だと次の職探しが大変だろうね…。自主退職で手を打ってもいい」
所長は冷たく言い放った。私は、ただ頭を下げて謝罪することしか出来なかった。まさかコミュニティがここまで追い込むような嫌がらせをしてくるとは。
自主退職扱いで仕事を辞め、数ヶ月後からは失業保険を貰って糊口を凌ぐ。がむしゃらに新しい小説を書き続けていた。人の噂も七十五日、嫌がらせが終わるのを待つ間、物語を書くことに夢中になっていた。
300頁の原稿を書き上げて、久しぶりに賞に応募した。そろそろ失業保険も切れる。新しい営業の仕事でも探そう。営業はノルマがきついと人が嫌がる仕事だから意外と不景気でも求人はある。ハローワークで求人票を閲覧していると、急に肩を叩かれた。
「逃がさないから」
後ろを振り返るとコミュニティに私を誘ったあの友人がいた。バネ仕掛けの人形のように飛びのいて逃げる。駐車場から車を出して、でたらめに走る。
郊外の大きな川沿いの道を走り、車を路肩に止める。歩道を少し歩いて欄干に肘をつく。
「ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに水くくるとは」
百人一首の一つをうわ言のように呟いていた。死ぬしかないのか、逃げられないのか。真冬の橋の欄干から身を乗り出してみる。田舎道で歩行者はおろか自転車もいない。
川面が私を呼んでいる。
母親を殺したあの少女が泣いている。
殺された母親の白く細い腕が、飛沫の波間から伸びて道連れに私を抱き抱えようとする。
利き手の左手で欄干を強く握り、足を掛けようとしたその時、突風が吹き抜けた。
一羽の空を飛ぶ白鷺が突風でよろめき、欄干をよじ登る私の頭を足場代わりにして蹴り上げていった。よろめいていたのが嘘のように力強く羽ばたいて、夕日を追い掛けるように泳ぐように飛び去っていく。
「まだ…賞の結果を見てなかった。どうせダメだろうけど。しつこくあいつらが追い掛けて嫌がらせしてくるなら、引っ越せばいい。営業の仕事ならどこにでもある」
自分に言い聞かせるように、ぶつぶつと独り言を言って車に戻る。カーステレオのCDは激しいロック。
「禁欲的な信仰より欲にまみれたギラギラしてた方が、挑戦してやるって気になれる」
静けさの中で祈りを捧げる世界より、騒がしく賑やかな世界が戻ってきた。華やかな色彩と満ち溢れた野望とともに。
(了)
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