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  次兄稔の一家が帰ってきたのは、保が帰郷した終戦の翌年四月だった。毎日大陸からの引揚げ者に関するニュースが流れ、アナウンサーは尋ね人の情報を延々と読み上げていた。四月八日に上海を発つという電報が届いたきり、何の連絡もなかった。  無事に帰ってこれるだろうか、生まれて間もない赤子を連れての引き揚げが支障なくできるものかどうか、現地の様子などまったく知る由もなく、末松もともゑもただ無事でと祈るほかはなかった。敗戦国の国民とはいえ、軍人でもない民間の家族づれに、いくら出国管理が厳しいとしても、それほど長く留め置かれることはあるまいに、と気が気ではなかった。  だから、四月十七日にようやく博多に上陸できたという電報が届いたときは心底安堵した。博多で一泊し、翌日夕刻には帰れるだろうとのことだった。  その日、末松と保は新たに末松の田圃になった南の五反田に出ていた。広がる田圃の南端に接する東洋紡の工場の煙突から煙がたなびいていた。つい隣の塩浜までは空襲を受けて大きな損壊を被ったと言われているが、村にあったこの工場は無傷で、勤労動員で不足した女工たちも戻ってきたので、フル操業で活気づいている。  一年中で一番多忙な季節を、保は職探しを中断して父の末松と二人で乗り切った。末松は張り切っていた。長年小作を続けてきたおかげで、末松名義の田畑は倍増していた。これなら、しばらく稔たち一家がともに暮らすことになっても、ともゑの産婆稼業の臨時収入を加えれば、やっていけそうだった。   ともゑはいたって元気ではあったが、まだ老けるには早い歳で腰が曲がり始め、痛みを訴えていた。頼まれれば産婆は引き受けたが、それも村の男たちが兵隊にとられて払底してからは、ほとんど開店休業だった。  これから逆に忙しくなるぞ、と保は笑って云うが、今度はともゑの身体のほうが言うことをきかないかもしれない、と末松は思った。ともゑも自分の身体が思うようにならなくなってきていることを自覚しているらしく、田圃仕事は末松と保に任せて、自分は漬物をつけたり煮干しを干したり梅干を作ったり鶏の世話をしたり、うちうちと家まわりの仕事しかしなくなった。  三人の息子たちが帰ってくれば、勤めながらでも多忙なとき田圃を手伝ってくれればやっていける、と末松は胸の中で皮算用していた。  長兄の俊雄は復員がずいぶん遅れたために、ひどく心配させられた。突然顔をみせるまで、一切消息が断たれていた。戦死公報が届かないのが唯一の救いであり、最後の頼みの綱だった。激戦地になったビルマやでなぁ・・・と末松は何があっても仕方がないと覚悟はできている、と村人の誰かになく話すときには言ってきた。  しかしもとより本音ではない。きっと帰ってくる、と信じている。前庭に人影を見るたびに、息子ではないか、とハッとした。大抵は物売りか近所の者だった。それでも終戦から二年を過ぎようというころには、時折、こんなにも何の知らせもないのは、駄目かもしれない、と弱気になる事が多くなった。ビルマ戦線へやられたことが分かっている村人で帰ってきた者は未だなかった。  それなのに、ビルマは殆ど玉砕で生き残ってもジャングルで餓死したりマラリアにかかって死んでしまうそうだ、というような耳にしたくない噂だけはどこからともなく伝わってきた。みなまでは語らず、あっちはえらいことらしいでな・・・と親しい者たちも気の毒そうに言うのだった。  稔たちが帰って来たとき、末松は保と二人で予定した一日の作業を終えようとしていたところだった。  「今日はこれくらいにしとくか。」  末松が首に巻いた手拭で額の汗を拭いながら保に声をかけた。萬や赤ん坊の具合がよくないようなら、直接神戸(かんべ)のほうへ帰ってしまう可能性もあるのではないか、細かなことは電報には何も書かれていない。或いは今にも帰ってくるかもしれない、と思うだけで落ち着かなかった。夕暮れの気配が漂いはじめていた。午後4時は回っているだろう。  「ヨッショ!」  保は末松への返事とも掛け声ともつかない声をあげ、曲げた腰をせいいっぱい伸ばした。  胸元を払い、顔を起こすと、駅からの道を遠く眺めやる眼になった。末松は保の視線の方角を見た。  男女らしい二人、男は背嚢の大きなのを背負い、おまけに大きなトランクのようなものを右手に下げている。女のほうは何も持って居ないように見えたが、近づくにつれて、胸に赤ん坊を抱いているのだと分かった。少し女のほうが背が高かった。  「稔たちじゃないか!」と末松が叫んだ。  男は背丈は低いががっちりとした体躯で、いわゆるO(オウ)脚の安定した歩き方だった。間違いない。柔道で鍛えた次兄の姿に相違なかった。  末松は田の畔を小走りに駅に通じる道に躍り出た。保もあとに続いた。兄とは日支事変が勃発した年の夏休みに、柔道部の西日本大会で九州に居て、一時待機となって帰省した折に会って以来、八年ぶり、義姉とは彼女が終戦の前年四月に写真の稔と結婚式を挙げ、半年後に上海の夫の許へ行く直前に、保が実家に立ち寄った時以来二年ぶりだった。      近づくにつれ、義姉(あね)の胸に抱かれた幼子が母親に促されるようにしてこちらを見るのがわかった。自然保の目はその幼児に向けられた。まん丸な驚いたような目がこちらを向いていた。  兄たちは笑顔で末松の声に応え、「ただいま。」と毎日の勤めに出て帰ってきたかのように言った。  「ただいま帰りました。お義父(とう)さんたちもお変わりありませんか。」萬(かず)が言った。  稔はくすんだ薄ねずいろの作業衣のようなくたびれた着衣に軍帽をかぶっていた。萬も戦時中と異なるところのない地味なモンペ姿だった。  「これが精(せい)かな。」  萬の両腕に抱かれて、目をまんまるに見開いた幼児の顔を覗き込むようにして末松は言った。  赤ん坊は最初から驚いたように目を見開いて末松と保を交互に見ていて、とくに驚きも怖がりもせず、下から母親の顔を振り返るようにして見上げた。 「はじめまして。精です。」 萬は精の代わりに言うというように、幼子と目を見かわしたまま、末松たちに向けて頭を下げた。 「だれに似たやろな。目のおっきな子やな。」と末松が言った。  そう云えば次兄はどちらかと云えば釣り目の細い眼、義姉も浮世絵師が一筆で描いたようなやや古風な一重の切れ長の目だ。 (大陸で生まれるとこんな目になるのか)とその満月のような瞳を見て、保はあらぬことを考え、自ら心中で苦笑した。  次兄が学んだ東亜同文書院の創立者の一人、荒尾精に因んで、日中の架け橋とならんと願った兄夫婦がその名をつけたという。それも日本がこの戦争で勝利をおさめたればこそ叶う願いではなかったか。敗戦国の貧しい農家へ無一文で帰って来た両親のもとで、この赤子の運命はどうなっていくのだろう。  「よう帰ってきた。」  末松は顔をしわくちゃにして、両手を赤ん坊に差し出した。萬は痩せた肩に食い込んだ抱き帯を緩めて、赤ん坊を末松の手にゆだねた。赤ん坊は一瞬不安げな顔つきをしたが、泣きもせずに末松の腕に抱かれた。  保は稔の右手に下げた大きなトランクを手に取った。  「いや、すまん。博多港の入国審査でえらい待たされて、もう一日遅かったら子供は死なしてしもたとこやった。」と稔が言った。  「それは大変やったな。なんでまた」末松は腕を揺らして孫に笑顔を振りまきながら言った。  「疫痢が発生したとかで、えらい騒ぎやった。十日に博多湾へ入ってから、丸四日間、船の中へとじこめられてな。」  「乳が出ないもんですから、粉乳をやっていたんですが、それもなくなって、この子の口へ入れるものが何もなかったのです。最後は大豆を一粒一粒匙で潰して水でふやかして何とかしのいでいたのですが、それも今日で切れる、というときにやっと上陸許可が出ました。」萬が稔を補って言った。  「えらい目に遭うたな。疲れたろう。とにかく家に帰ろう。話は帰ってからまたゆっくり聴かしてくれ。」  末松は赤子を抱いて先に立って歩き始めた。不思議なものを見るように目を見開いて末松を見ていた赤子は、母親の顔が見えないことに気付くと顔を歪めて泣き始めた。  「おゝ、よしよし、泣かんでもええ。じいちゃんやぞな・・・」  末松はゆっくりと揺すりながら話しかけた。しかし赤ん坊は泣き止まない。  「電車の中で寝てたのを起こしたから、まだ機嫌がよくないんです。」  言い訳するように萬が言った。  「そらこの子もくたびれたじゃろう。大陸からの長旅じゃもの。」  保はようやく口を挟むきっかけができたことにほっとして言った。初めて見る赤ん坊と長らく会わなかった次兄夫婦を迎えて、お帰りと言ってしまうと、後の言葉に困っていたのだ。  「保っちゃんもよう無事で」  萬は赤ん坊の頭に手を触れながら保の方を見て言った。  「わしは何もせなんだで」  「そんなことはありません。お国のために精一杯努めて来られたんですから。ほんとうに御苦労様でした。」  萬は保の方を向き直って軽く頭を下げた。  「いつ帰ってきた?」と稔が言った。  「暮れじゃ。なんやかや後始末があって。」  「最後は稲毛か。」  「あぁ。牡丹江へ行って三月もせんうちに帰国命令で、帰ってきたと思う間もなく解散式じゃ。」  「兄貴は・・・」と稔は保の表情をうかがうように訊いた。  「まだ帰らん。」  「そうか・・・」稔はそれ以上訊こうとはしなかった。戦死公報が来て居れば保は死んだと答えただろう。まだ帰らぬということは生きて帰る可能性はあるということだ。俊雄が南方へ遣られたらしいということは末松からの手紙で稔も知っていた。本人が部隊の所在を知らせてきたわけではないが、終戦後に所属部隊がビルマに行ったことが分かったのだ。  「向こうはどうだった?」保が訊いた。  「上海は蒋介石がおさえたから心配したほどの混乱はなかった。ちょうどこれが生まれた日の朝、重慶から蒋介石の軍が上海へ移動したんだ。」  「朝の六時過ぎだったかしら。この子が生まれたばかりで、ほっとしたところへ、すごい爆音がして病院の窓を開けたらよく晴れて青空が広がる日だったけど、その空がふさがるほどたくさんの機影が見えたわ。」と萬が言った。  「むしろ上海を出てからが大変じゃった。これは肋膜炎で高熱を出すし、乳が出んから赤ん坊にのませる乳を手に入れにゃならんし、その赤ん坊と荷物を担いで、それこそ命からがら脱出してきたでな。」  「私は武義から上海へ移って来る時が一番怖かったわ。貨車の荷の上に乗って・・あのときはもう駄目かと思った。その荷物というのが青竹なの。つるつる滑って、いつ落ちるかわからなくて、あんなに怖かったことはなかったわ。」  家に帰ってから、と言いながら、喋り出すと次々に頭の中についさきごろ味わってきた恐怖やそれにまつわる後先の出来事が甦ってくるらしく、稔も萬も家に着くまで喋り続けていた。  「上海で持っていたものは一切合切置いてきましたよ。何も持って行けない、って言われて、私たちは本当に着の身着のまま。でも内地へ帰り付いたとたんに、みんな鞄の底や外套の裏地に縫い込んで宝石を持ち出したとかそんな話ばかり。正直者が馬鹿を見たのね。」と萬は口惜し気に言った。  「そんなやつらは屑じゃ。日本人の風上にもおけんやつらじゃ。」  保は吐き捨てるように言った。  「一家三人無事に帰ってこれただけでもわしらは運が良かったと思わなにゃいかん。」  稔は萬を嗜めるというより、自分に言い聞かせるように言った。「早々に武義を引き払うて上海へ移っていたから助かった。あのまま武義におったら、こうは行かなんだろう。」  結婚後に単身大陸へ渡った萬が、はじめて北京駅頭で出会った萬が、新婚旅行さながら各地を旅しながら最終的に連れて行かれたのは稔が工場長を務める蛍石採掘工場のある奥地の武義だった。しかし、萬がそこで慣れない新婚生活をはじめたころには、すでに目と鼻の先にゲリラが出没して、夜になるとこれを掃討するわが国の駐屯軍との間で交わされる砲撃の響きや銃声が聞こえるようになっていた。工場が閉鎖され、社宅を引き払って上海へ移ることになったのはそれからわずか一年あまり後のことだ。そして、そのとき、萬は子を宿していた。  着の身着のまま帰国した稔たちは、当面一家3人で北楠の家に居候するほかはなかった。それまで保が占領していた離れの一部屋を明け渡し、そこに夫婦と生まれて一年ちょっとの赤子が住むことになった。  萬の実家にも一週間ばかり帰り、萬の両親や父母と互いの無事を喜びあった。萬は十二人いる兄弟姉妹の五女だったが、すでに兄弟姉妹のうち五人が亡くなっていた。すべて肺結核で、中には赤ん坊のうちに亡くなった者もあった。萬を一番可愛がってくれたすぐ上の兄・正もまた、東京大学を出て家族の希望の星だったが、卒業後、三菱重工に勤めたと思ったら、あっという間に家族の宿痾である肺病にかかり、いまは実家に戻ってやせ細った身体を終日ほとんど離れの部屋に横たえて療養していた。  男子はその兄ともう一人十一番めの子であった圭司だけで、あとは全員女子だった。萬は生き残った姉妹のうちでは三番目だった。男勝りの勝気な性格だったその萬を常吉は姉妹たちの中で一番可愛いがった。  上海で生んだ子を連れて戻った萬一家を、常吉は喜んで迎えた。とりわけその子が男子であったことをことのほか喜び、一週間のあいだ孫のそばを離れなかった。  そんな父の姿を、萬は少し見ない間にひどく老けてしまったように思った。かつての父は常に傲然として、女中や小僧に、また子供たちにも恐れられる家父長として君臨した父親だった。十二人の子のうち十人が女子で、女中も多かったので、家の中はいつも女たちのお喋りで騒々しかったが、常吉のいるときは家の中は緊張した空気が張り詰めていた。  お父さんは怖いわ、と姉も妹も陰でささやくのが常だったが、萬だけはそんな父を恐れもせず、ぶつかることがあっても、好きだった。   母親は対照的に穏やかな、誰に言わせても「優しいばかりの」女だったが、萬はその母を嫌っていた。  「伴ちゃんのお母さん、とっても優しそうだねえ。」と友人によく羨ましがられた。  「私ははっきりした人が好き。おんなおんなしたネショッとした人は嫌い。」  萬はそう返事をした。  上の姉は隣町と言っていい須賀の山持ちの旧家に嫁いでいたが、夫は妻が外出することを好まず、いつも家の中で夫の傍に仕えていて、おい、と呼ばれて聞こえる距離にいなければ気が済まない男であったため、滅多には実家にも帰ってこなかった。夫は若いころからの乱脈な生活がたたり、悪い病をうつされたせいで足が細ってほとんど寝たきりなり、目の方も失明しかけていると噂されていた。  二番目の姉は、千代崎の海に近い材木屋に嫁いでいた。夫は、兵隊に行って無理に飲まされて飲めるようになったという酒が入ると、実際には弱い体質のせいで普段の自分を失い、手当たり次第にお説教を始めたと思えば突然泣き出してみたり、だれかれ構わず酌をしてまわったり、という酒癖の悪さはあったが、平生の仕事は生真面目にこなす小心な男だった。長男、長女、次男、次女と交互に男女の子を四人もうけて召集で大陸に渡ったが、幸い早く引き上げて、敗戦の一年前に末っ子の裕子が生まれた。この姉の一家はほとんど実家に入りびたっていた。長男の光男と、萬の末の妹の俊子とはわずか二つしか違わなかったため、実家で親しく遊んで姉弟のようだった。  萬と俊子の間に、圭司と、萬のすぐ下の妹淑子が居た。萬と俊子は好き嫌いがはっきりしていて何事につけ白黒をはっきりさせたい性質だったが、淑子は二人とは対照的に、あたりが柔らかで曖昧と云えば曖昧、優柔不断と云えば優柔不断な性質だった。  萬はこの妹と気が合わず、いつも淑子は頭が悪いから、と見下す風だった。淑子のほうもこの姉の癇の立ったような神経質なところが性に合わなかった。幼いころからよく喧嘩もしたが、大抵は萬に言い負かされて泣くのは淑子のほうで、ネショネショ泣いて気持ちが悪い!とよく萬に怒りの言葉を投げつけられた。そんな萬を厳しく叱らない父を、淑子は不公平だと思った。  四姉妹と弟、それに二番目の姉の夫と子供たちまで始終入りびたり、それに店の従業員や戦後も幾人か残っていた女中や小僧も加わって大所帯だったが、広々とした二階家に父が戦前に増築した離れもあって、これだけの大家族が差し障りもなく暮らしていけるスペースが用意されていた。  実家はやっぱり落ち着く、と萬は帰るたびにそう思った。嫁ぎ先は義父母と保に自分たちが加わればもう居場所がない気がした。遠慮もあるが物理的な空間として狭かった。稔ならずとも肩身が狭い思いをする。ともゑの口調が皮肉な調子を帯びることは変わらなかった。そのたびに一刻も早くこの家から出ていきたい、と思った。                 *** (第10章おわり)
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