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保は、私にとって、長い間、戦死した無数の軍人たちの一人でしかなかった。叔父と甥という血のつながりも、神話の冒頭を飾る名のみの神々の系図のように空々しく、生身の自分とは結びつかなかった。保が生きた戦争の時代は、私が生まれたときには終わっており、戦争は私にとって一篇の物語に過ぎなかった。
祖父母や両親が時折り溜め息のように漏らす遠い日の記憶が、私の中で古びたフィルムをつなぐように切れ切れの物語を作っていた。それが私にとっての戦争だった。保は、ストーリーさえ定かでないその物語の、暗い舞台の上をさまよう影たちのひとつだった。
私の周囲の大人たちは、戦争期の自分たちの生き方について、滅多に自分から語り出そうとはしなかった。そこには、沈黙への固い意志というほどのものは無かったにしても、或る種の自戒のようなものが潜んでいることは、私にも漠然と感じられた。
彼らが「戦時中」のことを語るのは、現在の社会の何事かが与える新鮮な驚きや違和感が、その自戒を破り、しかし注意深く核心を避けて、思わず過去を呼び出すといったふうにであった。そのため、戦時中はこうだった、という彼らの言葉は、おのずから、彼等の若かりし日々と現在との隔たりを強調するものであった。彼等にとって生々しいが故に喚起されたはずの過去は、その回顧的な語り口ゆえに、もはや彼等自身にとっても遠い世界の出来事になってしまったかのような印象を私に与えた。
まして私にとっては、彼等の思い描く思い出の日々の情景は、かえってそれらと自分との遙かな隔たりを確認させるものでしかなかった。保もまた、そのような情景の中に佇むおぼろげな人影に過ぎなかった。
保が幾らかなりと身近に感じられたのは、彼の墓の前に立つ時だった。祖父母の住む村の西外れにあるその墓地は、川の堤を背にし、三方をまばらな繁みに囲まれていた。繁みの周囲に広がる田圃よりも一段高い位置にあって、入り口は堤の方へ開いている。村から近づくには、畦道を抜けていったん堤の上へ上がり、同じ側の細い坂道を下りるのである。
墓地には大小とりまぜ五十近くの墓石が、堤を背にした側と奥の辺とに沿って、鉤型に整然と並び、一番奥の東南隅に、黒塗りの蔵のような火葬場が立っていた。
鉤型の開いている北側と東側には、ややゆとりのある空間が残され、北東の隅から桜が大きく枝をひろげていた。保の墓は、その桜の下に、ほかの墓石から離れてぽつりと立っていた。盛り土の中心に大人の背より少し低い、簡素な白木の墓標を立てただけのものであった。
私が祖父母のもとに預けられていた四、五歳のころには、その墓標はまだ木の香りがするかと思われるほど真新しかった。
祖父に手を引かれて墓参りに来ると、いつもまず入口に一番近い「先祖代々之墓」と刻まれた墓石の前にしゃがんで手を合わせた。祖父は「先祖代々」の意味を私に教えながら、自分も死ねばここへ入るのだと言った。実際には三男坊だった祖父が自分とあとに続く者のために新たに建てた墓であった。
伯父が戦争から持ち帰った、アルマイトのへこんだ水筒に水を汲んで、墓石にかけてやるのが私の役目だった。私は墓石の頂に水を注いだ。その水は、墓地と田圃の境を流れる小川へ汲みに下りた。「転ぶやないぞ」、と背後から声をかけられると、かえって足がすくんだ。墓場で尻餅をつくと、履物を片方脱ぎ捨てて帰らなければならない、と聞かされていたからだ。
祖父は新聞紙を丸めて手際よく付け火から線香の束の先端に火をつけ、炎が立つとふっと一息で吹き消した。私が消そうとすると、すぐにまた炎が立って手に負えなくなるのに、祖父が消すと魔法のように一度で鎮まるのが不思議だった。「保の墓にもあげとくれ」、と祖父が分けてくれる線香は、私の手に移ると急に脆くなるかのように、ぽろぽろ折れて、火のついたまま地面に落ちた。
保の墓には線香立ても花入れもなく、線香も花も盛り土へ直に立てた。花はじきに枯れたが、春には、真上に枝をひろげる桜が、墓標の周りを花びらで埋めた。
御影石の墓の列から離れて立つこの簡素な墓に、幼い日の私は特別な愛着を感じていた。白木の墓標は、重々しい石の墓よりも好ましかったし、それが孤立していることに、孤独な保の魂の位置をおぼろげながら察知して、切ない共感を覚えていた。
「ドウカ ヤスラカニ ネムッテ クダサイ」・・・これは私が母に教わったお参りの仕方だった。祖父は、あるとき私のその祈りのつぶやきを嗤い、ただ「ナンマンダブ、ナンマンダブ」を繰り返せばいいのだと言った。それ以来、私は声に出しては祖父の教えに従い、胸のうちで唱えて声に出さないときは母の教えに従った。ナンマンダブの方は、近所の悪童たちがふざけて言うのを知っていたから、それほど値打ちがなかったのである。
祈りを唱えながら私が思い浮かべる保は、いつも同じ表情をしていた。それは、掛軸に収まって、年中、祖父母の家の床の間からこちらを見つめている、穏やかな顔つきをした保だった。
二十歳を少し過ぎたところらしい彼は、頭に防寒帽をかぶり、新調の軍服に身を固めていたが、その顔立ちはふっくら丸みを帯びて、全体にまだ幼いものの影をとどめていた。肖像全体は褪せたような枯葉色で、上半身だけが描かれ、脚の付け根のところがぼかしてあって、そこから下は窺えなかった。
あとで考えれば他愛のないことだが、幼いころの私は、この写真に下半身が無いのを、保が実際に脚を切断されていたためと思い込んでいた。そしてその傷ましい「両脚切断の重傷」を漠然と戦争に結びつけ、他方では保の死そのものと結びつけていた。
おそらくは、当時至るところで目にせずにはいられなかった傷痍軍人、とりわけ街なかや駅で松葉杖をつき、失われた片脚を誇示するようにして物乞いをする彼等の姿が、私の目に焼き付いていたからであろう。
保が戦死したという私の思い込みは、それが原因の全てではなかったにしても、この肖像によって確かな現実感を与えられていたことは事実である。仏壇や墓の前で手を合わせるとき私の思い浮かべる保には、長い間、両脚が無かった。
もっとも、肖像と現実とのこの混同は、比較的早い時期に正された。大人たちの雑談を傍らで聞くともなしに聞いているとき、私はふと疑問を感じて、「保叔父さんには脚が無かったんでしょう?」と口をはさんだ。みんなは一瞬けげんな顔つきをして私に目をやり、やがて私の思い込みが掛軸のせいだとわかると大笑いになった。思い込みの惰性でまだ両脚の無い保を思い描いてはいたものの、言われてみればすぐにその滑稽さに気がつく年齢になっていた私は、恥ずかしさに全身が熱くなった。
しかし、このときにも、保が戦死したという思い込みのほうは訂正されないままだった。
保の死が覚悟の自殺であったことを私に教えてくれたのは、母の末の妹、俊子である。十四の歳に敗戦を迎えた俊子にとって、戦時下の生活はそのまま思春期に重なっていた。だが、と言うべきか、それゆえにと言うべきか、彼女の語る戦時下の生活は、あたかもあらゆる時代を通じて最も良き時代であったかのようだった。それは、「戦争に押しつぶされた青春」というような予断を持っていた私を、しばしば驚かせた。
もっと年上の伯父や伯母たちは、戦争期のことを少なくとも進んでは話そうとはしなかったし、話すとしてもどこか逡巡の色を見せるのが常であった。
珍しく身を乗り出して語りつのるようなことでもあると、決まってその時代に暗い色彩を与える挿話を添え、もう二度とあんなことがあってはならない、と否定的な言葉で締め括るのである。
ところが、俊子にはそういうところがなく、いつもさばさばした調子で戦時中の思い出話をした。
私の母が嫁いでから、俊子はよく用を言いつかってその姉のところへ通ったものらしい。その度に私の祖父にあたる姉の義父は、畑で採れた野菜や果物を持たせてくれたという。
「食糧難のときやろ。それに付け込んで法外な値段を吹っ掛ける百姓が多かったのに、お父さんは(彼女はいつも、姉の舅のことを自分の父親のように親しみを込めてそう呼んでいた)持ってけ、持ってけって、一緒に連れて行った私の友達にまでただでくれてね。」
俊子は、帰り道に友達と瓜やトマトを食べてしまって、家には残った野菜や米だけをなにくわぬ顔で持って帰ったというような話を楽しそうにするのだった。
祖父母には三人の息子があったが、娘は一人も無かった。旧弊な零細農家の「嫁」としてこの家に入った私の母の立場はまた別であったにしても、時折り華やいだ空気を運んでくる娘盛りの俊子が実の娘のように可愛がられたことは容易に想像できる。
「楠の嫁になるか?」俊子は私の祖父にそう言われたことがあるという。もちろん笑いながらの軽い冗談ではあったけれど、祖父が実の娘のように俊子を可愛がっていたことは、そんな言葉からもわかる。
母の生家と嫁ぎ先とは、堤の道を自転車で一心に走れば三十分ほどの距離である。私の父も、長兄の俊雄伯父も、保叔父も、その道にペダルを踏んで、母の生家のある神戸(かんべ)の町の中学校へ通った。俊子が伝令として姉のところへ遣られるように、姉のところからは、時々保が畑のものなど持ってやってきた。彼は九つも年下だが、ものおじもせず保っちゃん、保っちゃんと慕う俊子を幼い妹のように可愛がり、からかいもした。むろん、保にとって、彼女はまだ一人前の娘として向き合うには幼なすぎただろう。神戸の家を訪ねるときは、齢の近い好子と楽しそうに言葉を交わしていることが多かった。
「保っちゃんてほんとに面白い人やわ」、と好子は保の連発する冗談話を楽しんでいるふうだったという。「あの人は下の姉さんが好きやったんと違うかしら」、と俊子は私に言ったことがある。
歳の近い姉妹でも、「私ははっきりせんのは大嫌いやから」と男勝りにも見える活発な明るさ、積極的な態度を見せる俊子や私の母と、いかにも柔和な「女らしい」立ち居振る舞いの好子とは対照的だった。
或る時、そんな俊子の思い出話を聞くうちに、私はその中に何気なく紛れ込んで通り過ぎて行った一つの言葉に、ふと違和感を覚えて耳を欹てた。
「・・・鉄道に飛び込んで・・・・」
誰が? いつ?
私は俊子が先へ先へと言いつのる言葉の波に抗うように、過ぎ去った言葉を辿っていた。
「鉄道自殺?」
「そうよ、知らなんだ?」
俊子は一瞬たじろいだように言葉を切り、当惑した表情で私を見た。
「でも、あんたももう十六なんやから、ええわな。まさか真似しようとなんて思わんやろから」
自分を納得させるような口調で言って笑い、ちらと私の顔色を窺う目付きになった。私の方はようやく衝撃が胸の内に徐々に広がってきて、彼女の冗談にも笑えなかった。
「たしか、あんたらが支那から引き揚げてきて一年経つか経たんかの内やったよ。」
「じゃ、戦争が終わってから?」
「もちろん。あんたも、よう保っちゃんに抱いてもろとったよ。」
そこが行き止まりだと思っていた記憶の壁が反転して、その向こうに不意に隠し部屋が現われたかのようだった。そこには私が触れたことのない未知の時間がひっそりと潜んでいたのである。
「目付きがきつうて、どっか怖い感じのする人やったから須賀の姉さんなんか、気味悪がってったわ。私は平気やったけど。あの目は楠のおばあちゃん譲りやろかね。あんたも同じ目をしてるわ。」
俊子の語る保のプロフィールは、私が見慣れた掛軸の保の印象とはかなり違っていた。彼女が、自殺という暗い事件の記憶を通して保を見るためにそんな印象を持つのだろうと思った。
保はなぜ自殺したのだろう、と私は尋ねた。あの人はコチコチの国粋主義やったから、と俊子は事も無げに言った。
「戦時中はみなそうやったけどな。まじめな人ほど一途に思い詰めるもんやから・・・。私もあの頃はいっぱしの愛国少女やったんよ。」
私は、決して腑に落ちるというものではなかったにせよ、自分が生きている世界とはまったく異なるそんな世界があったのだろうという距離をおいた形で、叔母の言葉をそのまま受け入れていた。敗戦の時、國に殉じて自決した軍人がいたことは私も既に知識として知っていたので、保の死もそういうものなのだろうと思った。しかし、私は同時に、自分が受け入れた言葉を何一つほんとうには理解していないことを感じていた。そこに示された保の死には、自分と繋がるものが何も無かった。
それにしても、なぜ父も母もこれほど長い間、保の死の真相を隠してきたのだろう?
自殺という初めて知らされた事実の意外さとその言葉自体の持つ衝撃力からいくらか解放されると、そんな疑問が水中の気泡のように胸のうちで膨らみながら浮かび上がってきた。父母だけではない。祖父母も伯父たちも、みんな口をそろえて嘘をついていたのだろうか。彼等は、保は戦死した、と言っていたのではなかっただろうか。保に最も近い肉親である彼等からは何も聞かされず、今ごろになって母方の叔母から真相を教えられるというのは、実に奇妙ではないか。
「保っちゃんは自殺したんだってね。」
家に帰ると早速私は母にそう訊ねてみた。どんな微妙な顔色の変化も見逃すまいとして、じっと母の表情を窺った。しかし母は縫物の手を休めず、「いきなり何ね?」と訝しげに眉を寄せただけだった。私はその表情を見て自分のやり方がまずかったことを覚った。祖父母のことでも話してから、さりげなく触れるべきだった!
母は格別動じる気配もなく、それがどうしたのかと言い、私が今頃なぜそんなことを言い出したのか理解に苦しむといった風だった。私は、俊子から初めて聞いたのだと言い、なぜこれまで話してくれなかったのかと問い詰めた。
「そう? 言わなかったかねえ。」
「だって母さんたちは、保っちゃんが戦死したって言ってたじゃないか。」
「そうだったかねえ。まあ戦争で死んだようなものだから・・・」
母の口調は、少なくとも今は何も隠し立てするつもりがないことを感じさせた。しかし、かつては隠そうとし、そのことをもう忘れてしまっただけなのか、それとも私の思い違いで、もともと隠してなどいなかったのか、判断がつきかねた。
誰かから戦死だったと聞いたという私の記憶自体が、今では怪しくなってきた。私がまだ幼かったために、子供の理解を超えるだろう自殺という言葉を避けて「戦争で死んだ」ことにしておいたのか、或いは曖昧に「戦争で死んだようなものよ」とでも言っただけなのかもしれない。だとすれば、戦争という言葉から激しい銃撃戦だの爆撃だのというイメージを描いていた私の方に問題があったのだ。
保の自殺に父や母が隠さねばならないような秘密めいたものが無いらしいとわかると、私は軽い失望に似たものを感じた。それでも、ごく近い身内の異常な死はそれだけでかなり私の関心をそそるものがあった。私はそれまで戦争期について特別な関心を抱いたことはなかったが、叔父の死への関心は、自分が生きている世界とは異質の、戦争期といういわば異次元の時空に対する好奇心をいくぶんか掻きたてた。というのも、保がいわゆる戦死ではなかったと知ってからも、私は保を戦争と切り離して考えることはできなかったからである。
私は周囲の大人たちから、機会あるごとに保のことを訊き出していった。ストレートに、保のことで知っていることをみな喋ってくれと言うには、私のほうに一種の気恥ずかしさとためらいがあった。私には新聞記者やルポライターのような取材の技術も経験も無かったし、彼等のように明確な目的を持つことからくる確固とした取材の態度を保つこともできなかった。私にあるのは異常な死への気まぐれな好奇心だけであるように思われ、それを満たすために一人の人間の死を嗅ぎまわることには不遜なものがあることを私は感じていた。そこで私は、いつも保のことを訊くときは、他の近い話題から入り、たまたま思いついたかのようにさりげなく尋ねるというような策を弄したが、それでもうしろめたい気持は拭えなかった。
保のことを一番よく知っているはずの人々の口から彼の名が洩れることは滅多に無かった。たまに話題にのぼることがあっても、何かのついでに、ちょっとした寄り道のように二言三言交わされるだけで、すぐに別の話に移って行った。そんなとき私は、彼等の間に私の知らない暗黙の合意が交わされているかのように感じた。
敢えて私の方から問えば、彼等は応えないわけではなかった。しかし、彼等の言葉は、打てば響くように返ってくるというものではなく、私はいつもそこに、ほんのわずかな間(ま)を見つけることができた。その一瞬に私の口にした保の名が素早い影のように彼らの胸の底へ降りて行くようだった。保の名はどんな時も彼らの唇の間を滑って行くことができず、一旦は必ず彼らの胸の底まで降りて行くということが私にもよく分かった。このような彼等の反応は一層私をためらわせ、みだりに訊ねることを私の内部で押しとどめた。
そうこうする内に私は大学の受験準備に追われるようになり、保どころではなくなった。大学へ入ってからは、たっぷり暇はあったものの、その頃にはもう保への関心も薄れていた。
その間に伯父が離婚し、祖父が肺癌で亡くなった。伯父はじきに再婚して三男ができると、それまで住んでいた村から車で一時間ばかりの風光明媚な鈴鹿山系の渓谷、菰野に新居を建てて住み、村へは週に一度帰って来るだけになった。長男は名古屋の大学へ進学して家を出て行き、次男だけが祖母と共に村に残った。その次男も高校を出るとすぐに長島温泉のホテルに勤め、仕事がらホテルに泊まってくることが多くなった。
学生時代、私は父に祖母の様子を見て来てくれと言われて、一人で村にとどまっている祖母を二、三度訪ねたことがある。しかし、そのときには保についてあれこれ訊ねる気持ちはなかった。
そのまま四年間で大学生活を切り上げて、無事就職していたならば、私は二度と保に関心を持たなかったかもしれない。ところが私はそれまで関わって来た理科系の学問に飽き足らず、そこで思い描くことのできる科学者あるいは技術者としての将来に漠然とした不満を覚えて、それまで昇って来た階段を踏み外した。
私は既に学問への興味を半ば失いながら、就職する気にもなれず、あたかも何者でもありたくないし、何者にもなりたくない、とでもいうように、無為の時間を求めて、二年間の余分な学生生活を送るために文科系の学部へもぐりこんだ。そして一年と経たない内に、いわゆる大学紛争に巻き込まれることになった。もう少し正確に言えば、まるで退屈しのぎのように、そんな状況を待っていましたとばかりに自ら飛び込んでいった。
講座制がどうの、試験制度がどうのと議論しあい、教授たちの権力づくの態度や社会的な自覚のかけらもない専門馬鹿ぶりを非難し、その学問のあり方を批判しながら、私は終始自分が場違いな所に居るような気がしていた。自分が批判し、糾弾している対象に殆ど何の興味も感じていなかった。
実際のところ、大学がどうなろうと、教授たちがどんな学問をしていようと、私にはどうでもよかった。私はただ、混乱の中で沸騰するものにだけ親近感を覚えた。日常的な倦怠の中に埋もれていたぎこちない言葉の噴出や肉体のぶつかりあう鈍い響きは悪くなかった。党派の連中から「一般学生」とか「学生さん」と小馬鹿にされながら生真面目に自分だけを苛んでいる仲間たちの暗い顔が好きだった。
「どうでもいいと言うなら君には大学を云々する資格は無い」と同じ専攻の者どうしの集まりの席で私は批判された。思わず漏らした本音を突かれたのである。言った男は学問一筋というタイプの三十歳前後の助手だった。「じゃあ君たちは大学がどうなればいいと思うのか、現実的な改革案を示せばよいではないか」という助手には、若い学生たちの苛立ちも私の無力感に似た虚しい気持もうまく伝わらなかった。
彼はたちまち若い学生たちから袋叩きに遭った。「幻想から覚めた者が後から来る者のために幻想を破壊するのがなぜ悪いか、大学がどうでもよくなったからこそ大学解体を叫ぶのだ」と彼等は私を弁護するかのように言った。
私にはその論理が疎ましかった。むしろ助手の言葉をその通りだと抵抗もなく受け入れていた。しかし、私よりも二歳ほど若い学生たちには、彼が既存の秩序の上に胡坐をかいていると思われた。いわゆる一般学生の中では比較的早い時期に大学への批判的な立場を明らかにした私を、その助手が戦線から蹴落とそうとしているように見えた。彼等は「資格がない」という言葉に血相を変え、他人の資格を云々する権威主義的な助手の姿勢を責めた。私が彼等への違和感を語る訥々とした言葉は、彼等には全く理解されなかった。
半年の右往左往の後にそんなことがあって、私はすっかり嫌気がさした。仲間たちのしつこい誘いにも応じないで、私は終日下宿の四畳半に閉じこもることが多くなった。昼と夜とが逆さまになり、目を覚ますといつも日が沈みかけていた。金が無くなると、その場しのぎのアルバイト先を探した。誰ともうまくいかず、アルバイト先は転々と変わった。まともな職につく気も、大学へ戻る気もしなかった。
大学から一歩身を引くと、世の中は高度成長とやらで、結構景気が良かったが、私は一人で引きこもって鬱屈する心を持て余していた。自分をこれからどう始末していけばいいのか分からなかった。
ほどなく大学の騒ぎも収まった。仲間たちからの連絡も途絶え、そのほとんどが行方知れずになった。大学からは学費納入の督促状だけが定期的に舞い込んで来た。かつて解体を夢見られさえした大学は、びくともせずに日常の業務を続けていた。
私がスクラムを組みながら内心で軽蔑し憎悪しあっていた党派の連中の幾人かが、新聞の報じる逮捕者の名の中に見えた。途中で脱落した自分への嫌悪感があった。場違いな所へ飛び込んで行った自分への腹立たしさがあった。情況も「一般学生」の気持も無視してひたすら機動隊との「戦闘」に被虐的な悦びを感じるかのように自滅していった党派の連中への口惜しさがあった。自己批判を撤回して何食わぬ顔で教壇へ戻って行った教授たちや、その彼等に頭を下げて大学へ戻った学生たち、教授のコネで地方の大学へ就職していった旧友たちへの強い違和感があった。
せわしなげに街を行く勤め人や客待ち顔の店の売り子や、幼児の手を引いていく主婦たちへの得体の知れない苛立ちがあった。はじけるような軽やかな甲高い笑い声をたててすれ違う女子高校生たちへの、渇望に似た激しく暗い衝動があった。それらの全てを犯し、踏みにじり、破壊しつくしたかった。
誰の顔を見るのもいやだった。広島の家へ帰ると父母が腫れものに触るように私を扱った。勤め口を探してまともな生活をしろというふうなことは一切口にしなかった。ただ、就職する気があるなら紹介するが・・・と、おずおずと申し出るような調子で父が言った。私はそれに従って面接を受けた。どこのどんなところでもいい、この社会の目立たない片隅に自分を早くはめ込んでしまいさえすれば、と思った。しかし面接を三つ受けて三つとも体よく断られた。母は、私の目付きが鋭くなって、人相が悪くなったと言った。
「まるで死ぬ前の保っちゃんみたいにきつい目をして」と。
そんなとき、ふと祖母の居る北一色の村へ行ってみようという気になった。祖母の様子を見がてら行ってみてくれないか、とひとり村に残る母親のことが気になってはいても多忙でなかなか訪れる機会もない父が勧めたのである。その話の中に久しく忘れていた保の名があった。
父は私を慰めようとして言った。「わしも大陸から帰って半年ほどは職が見つからず、一家三人で親のところに居候していたものだ。保も一足先に帰っていたし、兄貴も遅れて帰って来た。みんなで狭い田圃を耕して、大の男がごろごろしていた時期があった。そんなときは面倒を見ている方は別に何とも思っていないのに、居候している方はいたたまれない気分になるものだ。わしも自分が経験しているからよくわかるし、自分がそうだったから、何とも思いはしない・・・・」
私は二十五歳になろうとしていた。保が自殺した齢だった。
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