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 車窓を掠めて次々と後方へ飛び去って行く家並みが途切れると、不意に稲田が視界いっぱいに広がった。緑の波の面を吹き渡って開いた窓から流れ込んでくる風は、瑞々しい陽の匂いがした。空気は遠くまで澄み渡り、山々の輪郭がくっきり際立って見えた。扇を廻すようにゆっくりと視界の中を移って行くその形に見覚えがあった。  「鉄橋だよ、鉄橋を渡るよ!」  身を捩るようにして窓の外を眺めていた前の席の四、五歳の男の子が、明るい表情を若い母親の方に振り向けて、弾んだ声を挙げた。ゆるやかなカーブを描く列車の行く手に広々とした河原が見えた。  「そんなに顔を出すと危ないわ。もうじき降りるから靴を履きなさい。」  母親は屈んで子供の靴を座席の下から出してきちんと揃えた。二十五、六歳の都会風に洗練された美しい顔立ちだった。この親子も、どこか都会から帰って来たのだな、と私は子供の言葉のアクセントを思い合わせながら推量した。  列車は鉄橋を一気に駆け抜けた。走り去る鉄骨の影の間から、陽を弾いて輝く川面が見えた。子供は窓際を離れずに、目を凝らして外の光景をみつめていた。  自分も幼い頃は、走る列車の窓から景色を眺めるのが好きだった、と私は思った。ガラスに額をこすりつけるようにして、いつまでも飽かずに外を眺めていた。あんなにも熱心に、一体何を見ていたのだろう。今の自分にはもう、この子供のようにいつまでも新鮮な興味をもって風景を眺めることができない。 いや、たぶん彼にとっては風景というようなものではない。山も、川も、田畑も、家も、電信柱一本でさえも、各々それ自身の輝きをもって見えるのだ。目に飛び込んでくるものすべてが新しく、どれひとつとして同じものはない・・・。あの頃は、今よりもずっと、ものがよく見えていたのかもしれない・・・。  窓の外は再び稲田が続いていた。その光景にはなにかしらほっと安堵させるような優しさがあった。その優しさに触れると、胸の奥に、軽い疼きに似た懐かしい思いが、甘酸っぱく溢れてくるようだった。  戦争が終わって帰って来た保は、どんな思いで、この故郷の風景を眺めていたのだろうか。保と共に村を出て行った若者の殆どは、二度と帰って来なかった。大陸の奥地や遠い南の島で死んで行った彼等の胸に蘇る最後の光景は、この青々と波打つ稲田の海ではなかっただろうか。  青い光の海の中に、麦藁帽を被った白い影が現われた。体つきから男だと知れたが、若いのか年寄りなのか、遠くて見分けがつかなかった。男は背筋を伸ばし、しばらく陽を仰ぐようにして、再び緑の波に身を沈めた。一心に草取りをしているようだった。除草剤の発達したいまどき草取りに精出すといえば老人に違いない。そう思うと見え隠れするその姿が一瞬、亡くなった祖父のように思えた。  「おやじさんは閑さえあれば田圃の草取りをしとったな。」  いつか父が伯父と碁盤を間に向き合いながら、笑ってそう言ったことがあった。その父が、閑さえあれば庭の芝生の草取りをしているのがおかしかった。  祖父は、一生、田を耕し、草と闘って生きた。曾祖父もその前の代も、ずっと百姓だった。私は、その血が幾世代もの間伝えられ煮詰められて、色濃く自分の中に注ぎ込まれているのだと思った。  「少しはスマートになって帰って来るかと思ったら、何のことはない。ますます野暮ったくなったねえ。」  大学の中途で一年ほどヨーロッパへ行って帰って来た私を見るなり、母は失望したようにそう言った。  「いよいよ父さんによう似てきて・・・」  その言葉を母が発する時には、失望の溜め息と同じ意味を持つのだった。  ボンド・ストリート仕立ての草色のスーツでも颯爽と着こなして帰って来ると思っていたのに、と母は苦笑した。この体の中を流れている百姓の血が、ヨーロッパの風土に洗われて一層純化されたのだと、私は冗談半分に応じたのだった。自分のその言葉が、いま真実味を帯びて甦ってくるようだった。  稲田の光景に感じる懐かしさの源をどこまでも訪ねていくと、自分一人の幼い日々の記憶を超えて、遙かな過去の時にまで行き着くような気がした。馴化された自然の見せる優しい表情や、それに感応する心の素地は、古くから農耕民族であった祖先たちが、幾千年もの歳月をかけて育ててきたものであるに違いない。私は空想の翼をはばたかせて、山野を駆け巡っていた祖先たちが初めて土地に向き合い、その僅かな一隅を征服し得たときの歓びを想った。そして、そんな彼等の歓びが、隔世遺伝のように、いま稲田を見る自分の内に静かな安らぎとなって甦ってくるのだと思った。  「ほらほら、もう着きますよ。早くなさい。」  子供を急かす母親の声に、私は自分が言われたような錯覚を覚えて、思わず腰を浮かせた。ちょうど網棚に手を伸ばそうとしていた母親を助けて、ずっしりと手応えのあるボストンバッグを降ろしてやると、彼女の幾分取り澄ましたようにも見えた美しい表情がほころび、人の好い笑みが現われた。ああ、この人はもともとこちらの人間だな、と私は直観した。  「すみませんねえ」と言う人懐こい表情の内に、私はあらためて見覚えのある顔を探した。しかし、そんなものは見つかるはずもなかった。たとえ彼女が村の人間で、私の幼馴染みだったとしても、二十年の歳月が互いに確かめ合う手立てを消し去っているに違いない。それでも私は、時折村へ帰って来るこの列車の中で、いつも無意識の習慣のように乗客たちの顔を一つ一つ見分け、そこに記憶の痕跡を探そうとしていた。何も見つかるはずはないと思い、事実、知り合いに出会うことは一度も無かったが、いつか不意に声をかけられるような気がして、軽い緊張を覚えるのだった。  敗戦の翌年、女学校帰りの俊子が、敗戦直後に生まれた私を抱いて大陸から引き揚げてきた父母に出会ったのも、この近鉄名古屋線の列車の中でだった。  「あのときは俊子、知らん顔しとったね。」  「そらびっくりしたもん。友達が一緒やったし、恥ずかして声もかけられんかったわ。」  母と叔母とのそんな会話を耳にしたことがあった。  気づくと、向かいの目の前の席に赤ん坊を膝に抱いた姉と、義兄が並んで座って、にこにこしながらこちらを見ていた。あっと思ったが、すぐに目をそらして、ひたすら両隣の友達とのお喋りで気づかないふりをした。とても一人席を立って姉たちのほうへ行く勇気がなかった。  それでも姉たちの様子はしっかりと眼の端にとらえていた。真向いの義兄は支那服で、髪を短く刈っていた。もともと丸顔に釣り目で背が低く、柔道で鍛えた体は骨太で胸板が厚く、肉付きの良い胴体首が幾分めり込むような稔の風貌は日本人よりも、俊子が思い浮かべる支那人に似ていたが、そんな頭と服装をしていると、すっかり支那人に成り切ったように見えた。  姉は薄手の渋緑のセーターを着ていたが、それについた釦が三角錐の形をして変わった文様が刻まれた、内地では見たこともないようなものだった。髪を引っつめにしていて、姉もまるで支那人のようだ、と俊子は思った。  おまけに姉が膝に抱いてこちらを向いている赤ん坊は、肌が真っ白で、眼は顔に不釣り合いなほど大きく真ん丸で、黒目が下についている。俊子はただただ驚ろき、支那で生まれるとこんな子ができるのかしらん、と思った。義兄とそっくりの丸顔で、とても日本人の子には見えなかった。  姉たちは北楠に着くと赤ん坊と大きなトランクと共に降りて行った。その間も俊子は知らん顔で横の友達とおしゃべりをしてやり過ごした。  のちになって俊子は何度かこの時自分がどれだけ驚き、戸惑ったかを話し、私がどんなに日本人の赤ん坊らしくない、「支那人の子」のような赤ん坊だったかをいささか大げさに語って聞かせた。  そういやそうやったねえ、と母はそんな俊子の話に苦笑した。お月さんみたいな眼やなって、よう言われたわ。肌の色も女の子みたいに白うて、綺麗な赤ちゃんやったけど・・・いつの間にか黒うなってしもたねえ、と面皰づらの私をつくづく眺めたものだ。私は自分の肌の色が黒いのは、母親似だと思っていたので、赤ん坊の時は色白だったと言われてもぴんとこなかった。  列車がホームに滑り込むと、スピーカーの声が眠そうに二度、「きたくすぅ~、きたくすぅ~」と駅名を繰り返した。語尾を長く引き伸ばすその響きが懐かしかった。  「どうもありがとうございました。」  丁寧に頭を下げて、母親は男の子を促しながら降りて行った。私はそのあとについて駅に降り立った。五、六人の中学生らしい背の高い若者たちが先に立って改札口を出て行った。背広を着たセールスマン風の男もいれば、百姓であることが一目瞭然の男も居る。主婦も老婆も居る。この駅にも沢山の乗降客が出入りするようになったものだな、と思った。  暗い待合室から外に出ると、不意に体が透明になって陽の光が皮膚を通り抜けていくような気がした。こんなに明るかったかしら、と思った。地面は白く乾き、影が足元に固く縮んでいた。正面の自転車屋の店先に並んだ真新しい自転車が銀色の光を弾いていた。この前に来た時には無かった店だ。先ほどの親子がその店の前で立ち止まり、母親が荷物を地面に置いて持ち替えている。ふとこちらを振り返り、軽い会釈をして右手の街の方角へ去って行った。村の人ではなかったのだな、と軽い落胆に似たものを覚えた。駅を出た乗客たちは、みな右手の街に通じる道に消えていく。左手の細い路地へ入って行くのは私一人だった。こちらは線路をわたると北一色の村へ通じる一本道があるばかりだ。  駅裏の便所の脇にも、自転車の列ができていた。こちらは古いのや新しいのや色々だ。電車で通勤通学する者が毎日ここへ乗り捨てて行くのだろう。村から駅へ来るにも自転車が便利だった。祖父や伯父が、骨組みがいかにも頑丈そうな黒塗りの自転車の荷台に私を乗せて、よく駅まで送ってくれたものだ。私が毎月愛読していた「少年クラブ」という雑誌は、この駅の売店まで来なければ買えなかった。小学校の低学年のころ、夏休みに祖父母を訪ねているときも、私は発売日になるとその雑誌をせがみ、祖父が自転車で駅まで買いに行ってくれた。  板塀に挟まれた暗い路地を抜けてさらに畦道を左手へ行くと、駅裏をぐるりと回ったことになり、再び線路際に出る。左手は無人踏切を経て村への一本道、右手は先ほど乗客たちが入って行った街を貫き、伊勢湾の湾岸に沿って長く伸びる浜街道に通じている。岐路に立って右手を見ると、喫茶店の看板が目についた。腕時計の針は正午を少しまわったところだった。祖母が二つに折れた腰を上げて台所に立つ姿が目に浮かんだ。  店は小ぢんまりして地味なつくりではあるが、入り口のサインボードも戸口に這わせた蔦も洒落た印象を与えた。テーブルも椅子もアンティーク風の重厚な味わいがあり、店内は落ち着いた雰囲気を持っていた。壁には大小四つの額が掛けてあり、思い切った抽象画がやや古風な店にモダンなアクセントを与えていた。  私は衝立の影のテーブルについた。垣間見える奥のカウンターで、二人の客と言葉を交わしていた三十前後の体格の良いマスターがおしぼりと水を持ってきた。冷たいおしぼりで顔を拭くと、くつろいだ気分になった。田舎にはもったいないような店じゃないか、と私は内心ひそかに考えた。きっとこのマスターが経営者で、Uターン組に違いない、と。   「・・・畑で腐らしとるわ・・・」 「・・・娘の方がええ給料とってきよるでな・・・」  途切れ途切れに客の声が聞こえてくる。どちらかが店の前にとまっていた軽四輪の持ち主なのだろう。  「そらもうケンちゃんなんかの商売のほうがよっぽどええ・・・」  「あかんあかん。四日市あたりやとええやろけど、ここではあかんわさ・・」  ケンちゃんと呼ばれた若いマスターは慌てて否定したが、その口振りにはゆとりがあって、まんざらでもなさそうだった。店のある線路の東側は、今では街として開けていて、駅の乗降客も多い上、浜街道を走る車が結構立ち寄っていくのだろう。  「うちも田圃やっとったけど、兄貴の代になってみな売ってしまいましたわ。」  「そら賢い。若いもんは目先が利くでな。」  二人の客はしきりにうなづきあっている。  私は厭なことを思い出した。  「楠へ行くのなら、ちょっと田圃のことを話しとこう。」と父から聞かされた話である。伯父が田圃を売りたがっているという。父はその田圃が自分のものだというのだ。  「あの田圃は、親父がまだ生きとる時に、裏の座敷を兄貴たち夫婦の寝室として建て増すというので、その金をわしが出す代わりに貰ったものだ。ちゃんと親父と兄貴が連署して一筆書いたものが残っとる。」   そう言って、父は墨で書かれた古い書き付けを見せた。昭和27年、私がまだ七つの頃のものだ。  「兄貴もちゃんと分かっているはずなんだが、わしが抗議したら、今度はおばあちゃんが返事をよこして、遺産放棄すると言いながら田圃をよこせというのは欲が深いなんて書いてきている。おばあちゃんもちょっと耄碌してきとるし、兄貴たちへの遠慮もあるんやろうが、こっちとしちゃあ全く心外なことやし、譲るわけにもいかん。」  「黙っとったら、いくらでもとられてしまうんやから」と、傍らにいた母は一層腹立たしげに言う。  私は母のヒステリックな叫びには慣れていた。社長になっても家一つ持てんとはね、と母は始終こぼしていた。そのたびに父はつらそうな顔をして、仕方ないじゃないか、とつぶやいた。周囲の者が土地を買い、家を建てているとき、父はあり金をはたいて自分がサラリーマン重役をしている会社の株を買い集めていた。親会社の言いなりにならぬように、少しでも自分たちで株を持ちたい、というのが父の願望だった。それでも父の持ち株は、大株主の十分の一にも満たなかった。そして、世間で高度経済成長を謳歌しているというのに、その株価はいつも五十円の額面すれすれのところを上下し、配当も無ければ役員のボーナスも出ず、役員の給与カットまで行なうような時期が続いた。 そんなとき、親会社の社長の一存で上役がすべて辞職させられたり、名誉職に棚上げされたりして、父は最年少の末席重役から一挙に社長の座に据えられた。それ以来、父は、自ら「巡業」とか「出稼ぎ」と呼ぶ得意先回りに、東京から福岡まで駆け回るようになった。一週間出張すると、靴下の全てに穴をあけて帰って来た。社長になったらもう少し楽な生活になると思ったのに、と溜息をつくのは、いつも父ではなく、母の方だった。こうして父は家も土地も買う機会を逸した。その間に土地の値段がどんどん上がって、母が夢見たマイホームはますます遠退いていったのである。  「なんと目先のきかんことよねえ」と当てつけがましく言う母を、私は憎んだ。  「社宅があるんだからいいじゃない。ぼくは一生借家住まいでも平気だよ。」と私が言うと、父は  「若い時はそうだったな。青山至る所にありでね。長い一生の内には何が起こるか分からんし、どこへ行くはめになるかも分からんものさ。」 と嬉しそうに言った。  その父が、「いざとなれば裁判になってもやむを得ない」と言うのである。私は、かつてない父の強硬な姿勢に驚いていた。  「兄弟なら話せば分かるのだが、他人が入ってくるとまたちょっと話が変わってくるでな。」  そう言ってあとは言葉を濁した。  伯父は八年前に離婚して、その翌年、現在の伯母と再婚していた。前の伯母との間に生まれた二人の息子は既に成人し、長男は独立して名古屋に一家を構え、次男は独身だが祖母と村の家に残り、伯父と後妻とは二人の間にできた三男を連れて新居に移っていた。  「兄貴もいま、しんどい時なんじゃろうが・・・」  母の激しい非難から血のつながる兄を弁護するように、父はつぶやいた。  祖母の家に行けばその話が出るかもしれないから一応頭に入れておくようにと、父は村の略図を描き、いくつかの散在する田圃を書き込んで説明した。田圃の一つ一つに、藤縄とか、抜き縄とか名前がついている。図の上では理解できても、私にはさっぱり実感が湧いてこなかった。  そもそも私は、父が田を持っていることさえ知らなかったし、それが自分と関わりがあるようには感じられなかった。うちには何の財産も無い、という父母の言葉をそのまま受け取ってきたし、零細農家の次男坊であった父が、身ひとつで自分の道を切り拓いてきたように、私も都会で何らかの職を見つけて生きていくものと考えていた。村に土地があると聞いても、そこに住んでみようという気はまるで生じない。欲がないわけではないが、話を聞きながら,どうでもよいような感じがつきまとうのである。  「あんたのものになる田圃なんやから、他人ごとみたいに聞いとったらあかんのよ。何か言われたら、ちゃんと父さんの言うたように言わんと・・・」  その母の執着が、ほんとうのところ分からなかった。  「二反ほどの田圃のことでそんなに・・・」  私が面倒になって、うんざりした口調でつぶやくのを、みなまで言わせず、  「何てこというの。」と母は声を一オクターブほど高くした。  「二反くらいて言うけど、あんたはどんな広さかも知らんのでしょう。うちはその十分の一の土地も買えんから、いつまでたっても社宅が出られんのじゃないの。父さんにもしものことがあったらどうする気?この社宅も追い出されるのよ。あんたの力で私や将来の家族を養うていけるんね。」  そう言われると、内心では坪何十万もの都会の土地と坪一万円にもならない田舎の土地じゃ違うよ、とつぶやきながらも、一言も言い返すことができないのである。まあまあ、と父がとりなした。  「別におまえに代わりをして何か言ってくれと言うんじゃない。ただ、むこうが何か言うてきたときに、本当のことを知らずに妙な返事をしても困ると思うから説明しただけだから・・・」  父はそう言ったが、私はうっとうしい宿題を背負わされたように気が重かった。もしあれが話題に出たらどうしよう。厭な思いをしなくてはならないだろう、と思うと気が滅入った。  コーヒーの香りが漂ってきた。ぐつぐつとサイフォンの中で沸き立つ音がしていた。やがて、お待ちどおさま、とマスターがコーヒーとサンドイッチを運んできた。トレイ、カップ、ソーサーなどが揃いのデザインで気がきいている。こんなところで本格的なコーヒーが飲めるとは、と私は思わぬ拾い物をしたような気分だった。ミルクは付いているが、砂糖が見当たらないので声をかけると、「入れてあります」と言う。  一口飲んでみると、確かに入っていた。これは一匙、二匙入れた味とは思えない。そうだとすれば大匙二杯だ。私は思わずマスターの方を見た。彼は背伸びするようにカウンターの向こうからこちらを見て、「足りませんでしたか?」と言った。その無邪気な表情に毒気を抜かれ、私は「いや・・・」と言葉を濁して諦めた。  こいつは飲めない、と思いながら、喉の渇きに促されて、私はサンドイッチでごまかしながら、少しずつ飲んだ。舌に粘りつくようなアクの強い甘味が、いつか遠い昔に味わったことがあるような気がした。おやつに貰った水砂糖ではない。雪の日に、綺麗な雪を皿に受けて黒砂糖と一緒に食べた、あの甘味でもない・・・。  そうして思い当たった。祖父母の家の台所の流しの上の棚に並んでいた薬壜の中のサッカリン・・・私は、祖母がそれを使うのをよく見ていて、それが自分の好きな味を生み出す秘密だということを知っていた。ある日、誰もいないのを見すまして、私はこっそり流しの上に土足で上がり、その壜を手にした。器も栓も分厚く重いガラスでできた広口壜で、中に小さな木の匙が突っ込んであった。私は中の粉を一匙掬って口に入れた。それは舌の上にざらりとした心地悪い感触を与えた。甘いというよりも、なにか悪寒を覚えるような気色の悪い、べっとりした刺激が舌を覆った。私はもっと素敵な味を期待していたので、大いに失望したのだった。  あの味だな、と思った。しかし、むろん今どきコーヒーにサッカリンを入れて出す喫茶店はあるまい、と思い直した。今でこそダイエットがやかましく言われるようになって、低カロリー甘味料としてサッカリンが見直され、喫茶店にも出回っているというが、七十年頃にはまだ思いもよらないことだった。ひどい甘さが、類似の記憶を呼び起こしただけのことだろう、と私は思い直した。  小さいころは甘いものが好きだった。祖父が畑でとってきてくれる砂糖黍は私の大好物で、皮を綺麗に剥いてしがむのが楽しみだった。父が村へ来るときには、私や二人の従弟に、必ず金銀の錫箔に包まれたコイン型のチョコレートを買って来てくれた。生卵も煎り卵にも餅にも、たっぷり砂糖(と思っていたが、あれがサッカリンだったのだろうか)を融かしこんだ砂糖醤油を使った。ご飯のおかずも、甘いものが御馳走だと思っていた。  店を出ると、私は元の道へ戻り、岐路を踏切の方へ向った。遮断機の無い踏切を越えるとあとは村まで一本道である。田圃の中をアスファルトの道がまっすぐに伸び、村はその突き当りに、古びた記憶のように孤立していた。   一本道に入ると、すぐに強い異臭が鼻を突いた。その臭いは、広々と田圃や畑が広がる、初夏の真昼間の日差しを浴びたあまりにも明るい光景にそぐわない異様なものだった。  北側の田圃の向こうに立つ工場の高い煙突から炎が噴き出し、その先に黒い煙がもくもくと湧き出ていた。北楠の一つ手前の駅、塩浜はいまや「塩浜喘息」あるいは全国には「四日市喘息」の悪名をとどろかせるようになった石油コンビナートの排出する煙による公害の最大の発生源だ。煙突がいかに高くても、それが噴き出す煤煙は風にのって飛んで来て、北楠の村や田圃を覆いつくす。  俊雄伯父は勤務先も四日市の学校で、毎日勤務先でたっぷり煤煙まじりの空気を吸い、帰宅すれば村を覆うこの異臭を放つ空気を吸って、激しい喘息の発作を起こすようになり、一時期塩浜の病院に入院していた。私はその病院に一度見舞いに行ったことがある。伯父は傍らのサイドテーブルの上に置かれたガラスコップを手にとり、いまは少し楽になったが、多い時は日によってこれに七分目くらいの痰が出ていた、と言った。いったん発作が起きると、体の内側から噴き上げてくる激しい咳で息をつぐをこともできず、酸素吸入器に頼るしかなかった。いまでもいつまた発作が起きるのではないかと恐れている。発作が起きれば、いつでも手に取れる位置にあるチューブつきのプラスチック製マスクを鼻と口を覆うように押し当てて、看護婦が駆け付けるまで、ベッドの上で腹ばいになり、ただ体を硬く丸めてやり過ごす以外になすすべもない、と。   このままでは命に係わると思ったのだろう。退院して間もなく、伯父は湯の山に家を買い、再婚相手の伯母と彼女との間にできた彼にとっては三番目のまだ幼い子とともに新居へ移って行った。   ほんとうにひどいことになったものだな、と私は思った。そのころ高度成長期を経て日本は戦後的世界を脱して経済的な豊かさを獲得しようとしていたものの、他方では全国的にこうした公害が大きな社会問題になっていた。   しかし異変はそれよりもずっと以前から起きていたにちがいない。まだ大学の学生だったころ、一度夜になってから村を訪れたことがある。その時、この道に入ると、私はまるで別の星へ足を踏み入れたかのような錯覚を覚えた。まっすぐに伸びる一本道の両側にほぼ等間隔で背の高い集虫灯の柱が立ち並び、その青白い強烈な光が煙るようにその周囲だけを浮かび上がらせ、あとは真っ暗な闇の中に沈んでいた。その光景は、まるで大都市郊外にベッドタウンとしてつくられた人工都市の人気のない夜の光景のように見えた。 ひとつひとつの灯火に近づくと、そこには大小の蛾をはじめとする無数の虫たちが群がり、炎の中へ自ら投身するかのように青白い光の源へぶつかり、またその周囲をめぐって羽搏いていた。足元には様々な虫たちの死骸が柱を囲むように散乱し、まだ死にきれない虫が弱々しく羽搏き、四肢をばたつかせていた。   あのころすでに村を流れる小川から、かつては数限りなくいた鮒や泥鰌の姿が消えていた。大量の農薬が使われていたせいだ。私が村にいた幼いころには、毎日のように村の子供たちに交じって、タモ(網)をもってそれらの川魚をとりにいった。鮒や泥鰌はありふれていたが、ときには幼い鯉が混じり、稀にはメソと言っていたが、鰻の稚魚だという細長い魚がとれた。ある時、伯父が田圃と小川をつなぐ土管を「掃除」したときには、大量の鮒や泥鰌にまじって、大きな鰻となまずが取れ、伯父がさばいて家族の食卓にのぼった。鰻はよく肥えていて旨かったが、期待した鯰は不味かったし、鮒は骨っぽくてほとんど食べるところがなかった。  一度祖父と電車でどこかへ出かけるときに、この道を歩いていて、祖父が田圃の水が干上がった泥の中に、大きな鰻がのたうっているのを見つけたことがある。祖父はすぐにしゃがんで鰻の首根っこをつかまえ、稲の茎を鰻の鰓に通して、巧みに鰻の体を丸めて縛り上げると、それを少し中のほうの稲の株の根元あたりに縛り付けて隠した。辺りを見回して誰も見ていないことを確かめると、「こうしときゃわしらが帰ってくるまでよう逃げんやろ」と言った。実際、その日の夕方もう一度ここを通りかかったとき、まだ生きてそこに縛り付けられていたこの鰻を持ち帰り、このときは祖父が捌いて食卓に供した。   そんな牧歌的な田や畑や小川のありようが、農薬が盛んに使われるようになって、すっかり変わってしまった。もう鰻をみつけたとしても、食べるのはためらわれただろうし、もうそんなものは居なくなってしまった。遊び道具のようにいじりまわしていたタニシも、田に入ると脚にへばりついて気色の悪い思いをしたヒルも居なくなってしまった。虫たちもまたその本能を利用して集虫灯に集められ、一網打尽にされていく。魚や虫ばかりではなく、人間たちもまた大気中に放たれる目に見えない毒物に冒されて徐々に壊れていくところまで来たのがこの公害の時代なのだ。   この道は私自身が幼い頃から何度となく通った道だ。村の表側にあたるこちら側、北楠もその行政区の一端に属する楠町があるのも、都会に通じる電車の駅があるのも、この海側、東側の出入り口であり、駅までの一本道を通って行き来するのだ。祖父の三人の息子たちが戦場へ、大陸へと出て行ったのも、この道を通ってだった。保が千葉の戦車隊で解散式のあと帰郷したのもこの道を通って帰って来たのだし、その後、私が両親に抱かれて大陸から父の故郷へ帰って来たときもこの道を通ってだった。そしてだいぶ遅れて南方戦線へ行っていた俊雄伯父が復員したのもこの道を通ってであった。 それは村と外の世界とをつなぐ道だった。一方の端は村であり、他方の端は北楠駅だった。幼い頃の私にとって、両者の間には一人では行けないほどの距離があった。小川の鮒をとり、蝉を追いかけ、墓参りをし、祖父たちについてその田畑へ行くのも、一方の端である村の生活圏の内輪でのことだった。そこから出ていくのは、祖父母や伯父たちと、その生活圏を出て外部の世界へ行くときだけだった。線路を隔ててすぐ向こう側にある楠町には私自身は一度も行ったことがない。村を出ていくとすれば、それは四日市か名古屋に限られ、村では買えない肉類を買いに、あるいは御遣い物を買うために大人たちが訪れるデパートへついて行き、帰りに彼らが私を喜ばせるために連れていってくれる遊園地へ寄るためだった。   村の中からこの道とその周囲に広がる田圃を眺めているとき、心を誘われるのは道の向うの端で直角に道と交差する近鉄名古屋線の電車で、とりわけ鮮やかな黄色と紺の特急が各停しか停まらない北楠駅を猛スピードで駆け抜けていく美しい姿だった。特急はいつも駅を通り抜けていくとき、警笛を鳴らし、その響きは風になびき、尾を曳くように感じられた。その度に、列車の行き先にある都会の賑やかで何かしら華やかに思える光景が脳裏をかすめ、とりたててそのどこに魅力を感じていたわけでもないのに、或る種の憧れに近い気分を抱いた。   私の父を含む、祖父母の三人の息子たちも、おそらく幼いころから、ずっとこの村の中から駅を無視するように駆け抜けていく列車を眺めては、その行き先にある都会を、あるいはさらにその先にあるもっと大きな世界を思ったに違いない。彼らはみなそれぞれに村を出ていきたいと思い、事実それぞれに異なる道ではあったけれども、外の世界へ出て行ったのだ。   百姓の子は百姓というのが常識で、教育は尋常小学校まで、せいぜい中学校まで、というのが村の常識だった戦前に、彼らの母親である私の祖母は、三人の息子たちのすべてに、村の子供たちとしては例外的な教育の機会を与えようと自ら産婆を副業として家計を支え、教育費を捻出して、それぞれ上の学校へやろうとした。長兄は農業の専門学校へ、次兄は県と国の奨学金を受けて上海の東亜同文書院へ。だが、三男の保まで学業を続けさせるまでの余裕はなかった。保は中学を出て朝鮮鉄道への就職を志願し、朝鮮半島に渡るのである。   この道についてはいくらでも思い出の中の光景が甦ってくる。しかし、周囲の田圃や畑については、村にいた期間が四、五歳のころの二年足らずだったこともあって、ほとんど何も憶えていない。というよりも、土地の所有をめぐる知識など当時から何も与えられることはなく、たとえ耳に入ることがあってもまるで理解することなどなかっただろう。祖父母や伯父が働く姿を毎日のように見ていても、どのあたりの、どこからどこまでが祖父の田圃なのかも定かではなかった。  ただ、一か所だけ、「カマヤ」と呼ばれていた畑だけはよく覚えていた。なぜなら、砂糖黍、スイカ、イチゴなど、私や従弟たちのおやつになる大好物は、いつも祖父がそのカマヤで採って来るものだったから。時には自分でスイカを指でたたいて、その音で熟したかどうかを見立ててもいでくる、といったことも祖父が任せてくれて、カマヤは「私の畑」でもあった。  夏にはここで毎日のようにスイカをもぎとり、冷やしておいて、午後の一番暑い時間に一家で木製の大きな盥(たらい)を囲んでむしゃむしゃと食べた。そのあとみな畳の上にごろごろ転がって昼寝をするのが習慣だった。ときには子供用に熟してはいるが小さな中身が黄色いスイカが与えられ、これを真っ二つに割って従弟と半分こし、匙で削り救い取りながら食べるのが、私の何よりもお気に入りのおやつだった。  しかし、そのカマヤがどこであったかも、もう私にはわからなかった。たしかこのあたりだった、と村からの距離で思いはするものの、広がる田圃の中でそれらしい目印も境もなく、私にはまったく見分けがつかなかった。以前はカマヤの縁に柿の木が立っていて、すぐに分かったのだが、いまはそれらしいものも見当たらなかった。  村へ入ると以前にはなかった新築のこぎれいな住宅が2,3軒立っていた。ここは伊勢湾に沿って走る近鉄沿線の都市や海水浴場が数珠つながりにつながる一帯で、今は公害でひどい状態ではあるが、山奥の村のような過疎地ではなく、名古屋を中核とする中部大都市圏の圏内に位置する近郊農村のひとつ、ないしはある程度の人口を擁する諸都市の間に位置しながら、たまたまそこだけ取り残されたエアポケットのように孤立している村だから、なにかきっかけがなければ人口が増えることはないにせよ、そう急激に過疎化する村というわけでもない。土地が安いからこうして新たに家を建てて住み着く若い世代もあるのだろう。様々な公共施設の整った町は線路の向こう側にあるし、車があれば桑名も四日市も楽に通勤圏内だし、首都圏や関西圏を思えば名古屋もゆうに通勤圏だろう。  小川に沿って村の入口から四、五十メートルほども歩けばもう祖父母の家の前に出る。そこには門ひとつなく、ただ車がらくに通れる広い入口とそれにつづくこのあたりの農家では一般的な、作業場を兼ねた、だだっぴろい前庭が広がって、そのむこうに母屋が立っている。入口のすぐ左手には昔、やんちゃな従弟とともに伯父にとじこめられたことがある木造の蔵、実際には農機具置き場があり、その前の前庭の左半分は野菜が植えてある畑、右手にはかつて牛小屋があった、いまは雑多なものの置き場になっている小屋のようなものが残っていた。それでも玄関に通じる前庭の道は道というよりだだっぴろい空間というほうがふさわしい広がりがあった。秋にはここで脱穀の作業が行われたり、蓆を敷いて豆や梅や煮干しやおかきを干したり、砂糖黍の皮を剥いたり、といった作業が行われた。  夏には玄関先にいつも広い縁台が出してあって、風呂上がりの夕暮れには蚊取り線香を焚き、団扇を仰ぎながらその縁台に家族皆が思い思いの位置に腰かけて夕涼みしていた。  玄関の戸は開けっぱなしで、家の中からテレビに違いない歌手の歌声がかなり大きな音で聞こえていた。伯父がいつかからかうような調子で、おばあちゃんは三橋美智也の大ファンやでな、と言っていたのを思い出した。その歌声はまさしく三橋美智也のものだった。  「こんにちは!おばあちゃん!」と何度か大声で呼んでみたが、出てくる様子はない。祖母はもうかなり耳が遠くなっていてよほど近づいて大きな声でしゃべらなければ通じない。長年の百姓仕事のせいか、腰もまっぷたつに折れていまでは手押し車を押していかなければ歩くのもままならないはずだ。一度座れば、よっこらしょ、と立ち上がるのも大変だ。  私は玄関で靴をぬいで上がり、玄関の間(ま)から横の八畳の座敷へ出ると、その右手の庭に面する中の間に祖母はへたりこむように座って、ほとんど鏡を覗き込むほどの至近距離でテレビ画面に見入っていた。  「おばあちゃん!」  私は立ったまま声をかけたが、祖母はまったく気づかない。  「お・ば・あ・ちゃん!」  私はしゃがんで祖母の耳元に顔を近づけて、もう一度大きな声で呼んだ。  祖母はそのとたんに、びくっとして顔をこちらに向け、眼を丸く見開いて、ほとんど恐怖に襲われた人のような表情をみせた。  「ごめん、ごめん。精です。」    それでも祖母はしばし私の言葉が理解できない表情で、まじまじと私の顔を凝視するふうだった。  「こんにちは!」  すると祖母はあらためてびくっと反射的な動作で顔を上げた。その表情はパッと明るくなった。  「あれっ!精ちゃんかな!」  祖母はようやく緊張が解けたように相好を崩して嬉しそうに叫んだ。  私が祖母を訪ねるときは、いつも突然で、前もって連絡することがなかったから、いつも不意に現れては祖母を驚かせた。電話はあることはあったが、祖母はひどく耳が遠いので、そもそも呼び出し音が鳴っていても気づかないし、相手の話を聴くこともできないから、伯父たちが出て行き、俊秀が不在ならまるで役には立たなかった。  「ご無沙汰しています。おばあちゃん、元気そうだね。」  私は生き生きと色つやのよい祖母の顔を見ながら言った。  いつも胃が悪くて、枕元にこみ上げてくる過剰な胃酸を吐くための小さな専用のバケツを置いていた祖父とは違って、祖母は病気知らずで、私が知る限り一度も寝込んだことはなく、「嫁」である私の母や私が「病弱」なのをぼやいていたものだ。もっとも、母に言わせれば、自分は娘時代にはいつも健康優良児で病気知らず、スポーツも万能だった。こんな体になったのは結婚して大陸へわたって、敗戦の混乱の最中にあんたを生んでろくに栄養も取れん中で、肋膜炎になって、それでも無理をして引き揚げてきて、ボロボロの体になったところへ肺病にやられたからで、もともと弱かったわけじゃないのよ、ということだった。私の父もまた、幼いころから健康優良児で、学校は尋常小学校から中学卒業まで一日も休んだことがなく遅刻もなし。すべて皆勤賞だったというのだから、私とはえらい違いだ。どうしてそういう両親から私のように「病弱」な子供が生まれてくるのか不思議ではあるけれども、おそらくはその後長い間肺結核との闘病生活に苦しんだ母が、過剰な衛生観念と潔癖症にとりつかれて、幼い頃から私を比喩的に言えば無菌状態で育てようとするかのような過保護的な環境を作り出してきたためではないか、と私自身は疑っていた。  祖母は耳は遠くなり、髪は薄く真っ白になり、腰は二つに折れて、立ち上がって歩くこともしんどそうだったけれど、体はほかにどこといって悪いところはなく、皮膚の色つやもよくて元気そうだった。若い頃から賢い人だったけれど、喜寿を目前にした今も、あたまはしっかりしていて、記憶も人並み以上にすぐれ、話す言葉は明晰だった。  「きょうは一晩泊めてもらうよ。おばあちゃん、一人になってどうしてるかなって、おやじも気にしてたから、様子を見に来たんだ。」と私は言った。  「そらよう来とくれた。ゆっくりしてって。俊雄たちが湯の山へ行ってしもたで、部屋はみんなあいとるし、いつまで居ってもろてもええよ。」  「俊秀はあんまり帰ってこんの?」  「長島温泉で働いとるで、このごろはちっとも帰ってこんわ。あっちで泊まるとこがあるらしいから、そらそのほうが、ここから通うより楽やでな。」  「おばあちゃんは毎日の食べるもんの買い物とかどうしてるの?俊秀がいたら買ってきてくれるやろけど・・・」  「食べるものはこのごろ車に載せてうちまで売りにきてくれるで、困ることはないわ。」  「でも毎度毎度食事を用意したりするの、しんどくない?」  「自分一人のことくらいは、まだできるわさ。俊雄たちには、施設へ入ったらどうやて言うのやけど、ひとの世話になると気い遣わんならんこともあるしな。何とか一人でやれるうちは、いまのままのほうが気が楽やで・・・」  しばらくは互いの近況など訊き合ううち、ふと思いついたように祖母は、「何もないけど、あんたメロン食べるかな」と言う。突然メロンと言われてちょっと戸惑った。「そりゃ食べるけど・・・」そんなものが買ってあるのかしら、と思った。  「そんなら、ちょっとそこまで取りに行っとくれ」  どこへ取りにいけというのか、どういう意味なのかわからないまま、祖母が紙に描く略地図に従って、そのうちまで「メロンを取りに」行った。ただ行って、メロンを一個くれるように言えばわかるから、という。どうやらそのうちは縁続きの家らしい。まあそんなことを言えば昔からこの村に住んでいて、互いにまったく縁続きでない家のほうが例外であったかもしれないが。  私が訪ねて行くと五十前後のおばさんが出て来て、祖母ともゑの名を告げて、メロンを戴きに来たのだが、と言うと、彼女は心得たというようにすぐに台所の三和土の奥に積んだ真新しい箱からメロンを一個持ってきた。立派なマスクメロンだった。それを手渡しながら、「精ちゃんでしょ?」と言う。これにはこちらが驚いた。祖母が知らせたわけでもないし、私も何ら自己紹介などしていない。祖母のところから来たというだけで、彼女は当然のように言い当てたのだ。  「小さいころからよう知っとるよ。」  私の戸惑った顔を見て彼女は笑みを浮かべて言った。  「おばあちゃんも一人になって淋しいから、また時々来てあげて」  私は礼を言って引き上げた。メロンの代金はどうなっているんだろう、と思ったけれど、祖母はもっていかなくてもいい、と言っていた。私にはわからないそういう関係にあるのだろう、と呑み込んで行くしかなかった。なんとなくきまりわるい思いはあったけれど、相手は祖母とそのへんはツーカーで了解しあっているようで、心配することもなさそうだった。  帰りには少し気持ちにゆとりができたせいか、その家の周辺に初めて目が行った。そのあたりは村の南端で、田圃のかわりに一面、たくさんのビニールハウスが立っていた。それがどうも全部マスクメロンを栽培しているハウスらしい。  もどってから祖母に、あのへんは全部メロン畑になってるんだね、と言うと、祖母は「米や野菜ではもうからんでな。いまはメロンづくりがえらい勢いで、みんな田圃つぶしてメロンハウス立てるようになってきとるでなぁ。」と言った。メロンの味は都会のデパートで売っている高級品と変わらなかった。100円、200円の野菜とは段違いに付加価値が高いことだろう。農家がメロンづくりになびくのも無理はない。しかし、この北楠でメロンとはなぁ、となにかそのハイカラさが不似合いな気がするのも事実だった。  その夜、私は祖母と夕食を共にし、一晩泊まっていった。突然の訪問だったので祖母にはむろん何の用意もなく、しきりに何もないが・・・と恐縮するふうだったが、食にあまり関心のない私には何ということもなかった。俊秀がいるかと思って私はステーキ用の肉を3枚買ってきていたので、あとは冷蔵庫を覗いてホウレンソウのお浸しに煮豆、漬物を添えれば十分だった。土間のかまどは昔のまま残っていたが、ご飯を炊くのはいまは祖母も電気釜で、すぐに炊くことができた。  食事のあと、伯父たちや俊秀のことを訊き、また両親のことなどあれこれ訊かれるままに話すと、あとはとくに話題もなかった。私は奥の座敷の床の間の壁にかかっている保の写真の掛軸を見ているうちに、以前の保への関心が甦ってくるようで、自然、保が帰郷した折のことを尋ねることになった。祖母もまた珍しく胸の内から溢れ出るように保の思い出を語った。  保が敗戦を迎えたのは、陸軍の戦車隊に所属する少尉として、千葉の稲毛にあった戦車学校の教官を務めていた25歳の夏だった。彼は結局、軍人として敵とまみえることは一度もなく、ついに一発の銃弾も敵に撃つこともなく敗戦を迎え、3人兄弟の中で、一番先に郷里へ帰ってくることになった。    「稲毛の海岸に戦車を埋めてきた。好機が到来すればそいつを掘り出して戦う用意は出来ている。」などと言っていたそうだ。大真面目な口振りではあったけれども、祖母たちはそれを言葉通り信じたわけでもなかった。保は子供のころから悪気のある嘘ではないが、しばしば鬼面人を驚かす類のことを、冗談とも本気ともつかない口調で言い立てて、生真面目な父親や二人の兄たちに挑み、ときに彼らの生真面目さをからかうようなところがあった。戦車をまた使えるように浜に埋めてきた、などというのも、その類の保流の妄想的虚言ないしは単なる強がりだろうと祖母らには思えたようだ。しかし、一方で彼が、まじりっけのない、純粋な軍国主義敎育を受けて育ってきた「天皇の赤子」としての魂を持っていたこともまた事実だった。  そして、口では勇ましいことを言っていたが、彼は敗戦と同時に生きる意味を見失い、死のうと決めて郷里へ帰ってきたのだろう。毎日座敷机を前に座って、固い表紙のついた大判のノートに遺書を書き続け、仏壇の前に長く座って経を唱え、眠る時は傍に軍刀を置いて寝ていたそうだ。  「起きとるときは床の間へ置いたきりやに、寝るときそんなものなんで要るやな」と祖母が笑うと、寝とるときやから、いつでも使えるように側に置いとくんじゃ、と言っていたそうだ。  祖母も大抵は彼の言葉を他愛のないものとして聞き流してはいたものの、そんな彼の様子に不穏なものを感じてはいたようだ。彼が兄弟3人の中で最初に帰郷したとき、最初に言った言葉は、「生きて帰って済まん」だった。「すまんことあるかさ!よう生きて帰ってきてくれたわ」という祖母の言葉にも、彼の表情は硬いままだった。その後、保は父親の百姓仕事を手伝いながら、両親に促されて職探しをしていたらしい。  あるとき、警察官の募集に応じて出かけていき、早々に帰ってくると、「マッカーサーの指令で身長が××センチ以上でないと採用せんことになったらしい」と怒り心頭の様子だったという。「マッカーサーの指令じゃげな!」  見合いの話もあったそうだ。遠縁にあたるうちの娘で、うちでつくったおはぎを持っていかせて、それとなく娘を見てくるように言い聞かせて近くの村にある相手の家に行かせたところ、前庭に出ていた娘の姿を垣間見ただけで帰ってきてしまったという。  「せっかく行ったのに、なんでちょっと話でもしてこんやな」と言っても、「おれに見合いなんか。からかいにいくようなもんじゃ」と笑っていたそうだ。彼が列車に身を投げて覚悟の自死を遂げる数日前のことだった。  終戦後に兄弟三人がみな無事に帰還したとき、小古曽の末松の次兄夫妻から養子縁組の話があったことも、祖母は話してくれた。  末松は男三人、女四人の七人兄妹の六番目、男子では末の三男だったが、長兄は東隣の縁続きの松野家の養子にやられて、日露戦争のとき二〇三高地で戦死し、村の忠魂碑にその名が刻まれている。  養子縁組を申し入れて来た次兄は、戦前に夫婦で米国のサンタララ州へ農業労働者として渡り、それなりに成功して日米開戦以前に帰国して、妻が小古曽の人だった縁で、小古曽に六反ばかりの土地を買って暮らしていた。米国にいるときから、たまに帰国する折には末松の子たちに珍しい向こうの菓子や遊び道具、干したプラムや干し葡萄、大樽一杯の砂糖、コーヒー、ココア、パイナップルなどの缶詰といったものを大量に貨車で運び、また革手袋、テニスのラケット、革の帽子などを直接送っても来たので、子どもたちは当時三十数軒だった村の家々にその土産の菓子を配って歩いて誇らしく、この伯父にも親しみを感じていた。  しかし、嫁の方は祖母によれば「アメリカ流のハイカラで口やかましい」女で、子どもたちもこの伯母は苦手としていた。  その夫婦には子供がなかった。だから自分たちの老後の面倒をみて後を継いでくれる養子が血のつながりのある兄弟の中からほしかったのだろう。  ただし、その時に次兄たちは条件をつけてきた。どうやらほんとうは長男の俊雄がほしかったようだ。生真面目で義理堅く、物腰も柔らかなので、自分たちの面倒をよくみてくれそうだと思ったのかもしれない。もし俊雄がだめなら稔でも構わない、というのだ。ただし「保なら要らん」と言う。  その理由はいまもってわからないと祖母は言う。次兄たちも訳を言おうとしないので、三人の中で一人だけ排除される理由はだれにもわからなかった。この話を聞かされた息子たちのうち、上の二人は養子になることを拒み、あらかじめ排除された保も、もとより養子になるつもりなどなかっただろうが、「なんでわしはあかんのじゃ」と怒っていたそうだ。保には人にどこか不穏なものを感じさせる要素があったのかどうか。  祖母はこうした保の思い出話をしているときに、仏間へ立って行って、そこの戸棚に収めてあった保の遺書を持ってきて見せてくれた。保が帰省後に書き続けてきた長大な遺書だ。それは大判A3サイズの、しっかりとした綴じの、硬い薄茶色の表紙のついたノートで、私たちが普通によく見るようなノートとは異なる特別仕立てのそれは、保がここに自分の思いの丈をすべてぶつけよう、とする意気込みを感じさせるものだった。   表紙には、やや大きな字で、「白蟻」と墨書されていた。  ページを開くと、おそらく万年筆で書いた濃紺のインクの横書きの肉筆の文字が、ページの上から下まで、ぎっしり詰まっていた。旧字体、旧仮名遣いで書かれた漢字の多い文字列は、黒々として見えた。とりわけ最初の数ページは、一気に書き殴ったようにそんな文字列がぎっしり埋め尽くし、書き出しは丁寧に書かれていた文字がすぐに乱れて、心急くように書き殴った文字列へと変わるのがわかった。   さらにページを開くと、彼が兵士仲間と共に撮った写真や、戦車の姿も見える野外演習らしい光景の写った写真を貼り付けたページもあった。  「あんた、読んでみるかな」と祖母は言い、私がぜひ、と言うと「もう誰もそんなもの読むもんはおらへんでな」と保の遺書を私に託してくれた。  私は幼い頃、母が結核で人里離れた山の中の療養所で暮らした二年ほどのあいだ、父の実家であったこの北楠の家に預けられていたのだが、母が長い闘病生活の末に片肺を切除して生還し、親子三人の家庭生活を取り戻してからも、ほとんど毎年のように盆の前後には父や母と祖父母のところを訪れ、一晩、二晩泊まって、祖父の畑で取れるスイカをみんなでタライを囲んで食べたり、2人の年下の従弟と溜池で遊んだり、セミ採りや小川でのフナや泥鰌掬いを楽しんでいた。それだけの時間をともにしていても、祖母からもほかの誰からも、保の話を聞くことはなかった。  しかし、この日の祖母は、堰を切ったように保のことを話してくれたのだった。  「保が死んで半月経つ頃に、同期の戦友だったっていう四国の人から、保あてに手紙が届いてな。世の中がすっかり変わってしまって、我々には生きづらい世の中だが、これが受け入れざるを得ない現実であるなら、自分の方を変えていくしかあるまい。容易なことではないが、生き残った者の務めだと思って、お互い、この不愉快さに耐えて生きていこうではないか。そんなことが書いてあって、私はこの人は賢いな、と思ったな。」と祖母は言った。  保の自死を知ってから、私は、彼が非常に生真面目な性格の上に当時の軍国主義教育を受けてコチコチの国粋主義者となったために、敗戦の衝撃に耐えられずに自死を選んだ、と漠然と思って来たので、祖母が「俊雄と稔と保の三人兄弟の中では、保が一番面白い子やったな。しょっちゅう冗談ばっかり言うて。」と言ったときには、それまでもっていた印象と違うな、と思った。祖母の「面白い子」は、私にはほとんど、「頭の柔らかい、賢い子」と言っているように聞こえた。「俊雄は生真面目な子やし、あんたのお父さんはガンパリ屋さんやったけど、保はいつも人を笑わせてばっかりいるような子やったな」  その保が帰省した敗戦の年の翌年四月には生後8ヶ月のわたしを抱いて、稔と私の母である萬が上海から引き揚げてきて、北楠の家に一家で居候することになった。さらにその3カ月後には、南方の戦線に出征して音沙汰がなく、戦死した可能性が高いと誰もが内心で危惧していた俊雄が、ひょっこり帰ってきた。目の前で手榴弾が爆破してアッと叫んで血だらけになって倒れ、あとで気づくと前歯を全部失っていたものの、命に別状なくビルマ戦線から生き延びて帰省したのだという。  帰省した俊雄を見て、保が発した言葉は 「何や、お前まで帰ってきたんか」だった。  「何を言うのやな。生きて帰ってくれて良かったやないかな」と祖母がたしなめると、保は、「これでもう俺は居らんでもええな」と言っていたそうだ。  保が鉄道に跳び込んで自死したのは、その翌年の夏のことだった。  ノートとは別の紙に書かれた遺書には、葬式は無用、墓も無用、通夜には夜通しみなで酒を飲み、うまいものをくって騒ぐべし、など、数箇条の遺言が記されていたが、祖母によれば、一つも実行されたものはなかったそうだ。  私は、実はおそらく保の遺体を見ている。  それは、深く掘られた穴の底に白い裸体でうずくまるように横たわっていた。  私は当時まだ二歳だったはずだが、なぜか地面を深く掘った穴の底にうずくまるように横たわる白い死体の印象を鮮明に記憶している。周囲を囲むひとたちがいたことや、それが北楠の墓地の入口付近であったこともわかっていた。ただ、私はずっとその光景を保叔父の死と結びつけて考えたことがなかった。単に誰かが埋葬された光景の記憶として持っていただけだったのだ。  祖母の話を聞いてからは、両親をはじめ、伯父や生前の保と接触のあった母方の叔父、叔母などにも話を聞く機会があり、どうやら私の見た光景が保と関わりがあるらしいことを知ったのだった。  私が聞いた人たちの話を総合すると、当時は村では土葬が行われていたこと、幼児の私を連れて埋葬に両親が立ち会うような機会は、あのころ保の死んだときしかなかったこと、保の遺体は北楠の墓場の入口近くの桜の下に埋葬され、一本の白木の墓を立てたが、のちに掘り返されて、先祖代々の墓に移され、合葬された、ということがわかった。  そういえば、幼い頃、伯父や従弟と墓参りに行ったとき、伯父が先にある先祖代々の墓に参り、そのあとで、必ず「保っちゃんの墓にも参っとけ」と言って、細く、真新しい木が一本立つだけの、線香台もない地面に線香を置いて手を合わせるよう指示したのを覚えている。  祖母の話を聞き、保の遺書を読んだとき、私は唐突に、保叔父の死をめぐって小説を書こう、いや、書かなくてはならない、と思った。  今思えば、ほんとうのところ、なぜそんな思いにとらわれたのかはよく分からない。祖母の話や少しあとでじっくり読み通した保の遺書が、私に保の生きた(そして自死した)世界を辿りなおすという、今考えれば自分には荷の重い作業を自ら負うことになった。なぜそんなこだわりをもつようになったのかは、いまもうまく説明することはできそうにない。それ以前に母が若いころから文学好きで、自分でも小説らしいものを書いたりしていて、そんな母と「ずっと反抗期」みたいな反撥をしてきたにもかかわらず、そういう母が夢見る物書きとしてのイメージを反転させる形で、彼女とはまるで異なる物書きのありように自分をもっていこうとしていたのかもしれない。  ただ、自分は保の死にこだわっていると思っていたけれど、彼の死については、その遺書を読む限りむしろ分かりやすいと言ってよい印象をもっていたような気がする。たぶん彼の死を小説として描くとしても、思春期から青年期にかけてそれ以外の世界に接する機会のなかった一人の純粋な軍国主義思想に冒された青年の死以上のものは、なにもそこに見いだすことはできなかっただろう。それよりも不可解なのは、彼が死のうと決めて帰郷し、毎日遺書を書き続けながら、両親と、また次々に帰還した兄たちと日常生活を送りながら、1年余も生きていたことのほうなのだ。  彼は軍人になったにもかかわらず、一発の弾丸も撃つことなく、銃剣で敵とわたりあうこともなく、ただ戦車隊に属していくばくかの演習に参加し、最後は戦車学校の教官になって後輩を指導する立場で敗戦を迎え、いわば無為の時を過ごしただけで郷里へ帰還する。ほかの考え方など目に触れ耳に入ることもない軍国主義教育一辺倒の教育を受け、「天皇の赤子」として御国に殉じる身と自覚して生きてきながら、肝心のその任務を果たすこともできず、いわば何もせず、何もできないまま、生きて郷里に帰還してきたわけだ。そんな彼がどうやってほかの誰にとってもいとも簡単な日常生活にすんなり着地する、ということができただろうか。彼は毎日ただ、「なぜ生きるのか」「なぜ死なないのか」という自問を反復していたのではないか、そう思えてくる。  保は私だ、と私には思えた。  書くことについて何の修練もない自分が、いきなり保の死あるいは生について一編の小説を書くということが困難なことは分かっていたけれど、毎晩とにかく机の上に置いた原稿用紙に何か書き付けるような形で、二十代から三十代の前半くらいまで、本番と修練を兼ねるような無謀なやり方で、幾度も挑戦しては挫折し、また書き出しては中断し、というふうなことを繰り返すうちに、自分にとって保の世界と、とにかく「書く」ということがひとつの習慣でもあり、日常生活を精神的に支える拠り所のようなものになっていった。そのきっかけになったのが、この日、一人で祖母を訪ね、保の話を聴いた時だった。         +++++++++ (第2章おわり)
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