ことの始まり

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ことの始まり

 千歳烏山の駅に着くと、大あわてで改札をぬけ、閉館間まぢかの市民センターめざして、一目散で階段をかけ上った。  初めてのアフリカ行きだ、しかも赴任地はアルジェだ。出発は一週間後、目前にせまっている。夢はふくらむ一方、なのに、肝心の渡航書類が、ひとつもそろっていない。急がねば。 「まだ間にあう…」  閉館ぎりぎりすべり込めば、なんとかなる。頭を下げて頼み込もう。オレも納税者のひとりだ。向こうだって、無下に断るわけにもいかないだろう。でなければ、なんのためのお役所か…。  あと、なん蹴りかで路上というとき、急ぎ足で階段を下りる一人の女と、すれちがった。 「?…」   一瞬、女の軽やかな動きが残した、わずかな空気の乱れの中に、鼻腔に覚えのある刺激臭が、かすかに漂うのを感じた。クミン、キャネル、シナモン、カルダモン、ガラムマサラ、コリアンダー、ミント、アニス…それは紛れもない、八年前の帰国以来、まず嗅いだことのない、北アフリカの白い街の、あの、さまざまな香料の入り混じった、鼻を突くにおいだった。  思わぬ刺激に、胸がさわいだ。  女は、反対側の階段から、いままさに地上に消えようとしている。オレは焦った。 「いま、のがせば、取返しのつかないことになる…」  後を追った。  女の足は速かった。細い膝下をまっすぐに伸ばし、大股で歩く。華奢な肩を左右に振り振り、肉の巻く腰部を鷹揚に揺らしながら、一歩一歩、踵で土を踏みつけて、歩く。そのたびに、小ぶりの頭部から肩下までたれた、栗色のポニーテールが、軽快に宙を舞った。  パチンコ店を通りすぎるあたりで、フッと、女が消えた。見ると、左側に横道があった。隘路が一本、まっすぐ延びている。よく見ると、ずっと奥の方に、孟宗の竹林らしきものが青々と茂り、さながら、緑の回廊に誘う入口のようになっていた。たしか、女は、あの辺りで、虚空に消えた。はやく探しださなければ、ならない。
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