レースに包まれて

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レースに包まれて

レースのカーテンに手を伸ばす彼の指先を、静かに佇んだまま眺めていた。隣家のソメイヨシノの花びらが彼の家の二階のベランダにも舞い込んでくる。 窓を閉める前に、ベランダの白い手すりで眠るように横たわる花びらを、彼はそっと指先で一つだけつまみ取る。そしてその薄紅色のひとひらを、私の唇の輪郭をなぞるように、桜の花びらで濃いチョコレートブラウンの口紅を拭い取っていく。 言葉を交わさないまま、真剣な眼差しで微笑み掛ける彼。照れてしまったのは私の方。桜の花びらを小道具に使うなんて、気障な男。言葉を発することも見つめ返すことも出来ずに、ブルーグリーンの遮光カーテンの内側で明かり取りのために20cmほど残された白いレースのカーテンがゆらめく。風に揺れるカーテンで床には海の波打ち際のような光のさざ波。 抱きしめて唇を寄せようとする彼の気配で、やっと我に返る。両腕で強く彼の胸元を叩き、突き放して背を向けた。右手で左の薬指の指輪を隠すように、そこに指輪があることを確かめるように私は自分の手を握りしめて震えた。 彼はブルーグリーンの遮光カーテンカをぴったり閉めながら、その内側にあるレースの白いカーテンを乱暴にむしり取った。 カーテンレールから、留め具がカラカラカラと乾いた樹脂のビーズのように飛び散る。留め具の一つが私の爪先の目の前に転がっている。長年浴びてきた日光のせいか、色褪せてひび割れているプラスチックの樹脂。まるで乾いて餓えている私の心を見透かされているよう。 急に月日の流れの無情さが込み上げてきて、悲しさを抑え切れなくなった。彼の誘いから逃げるように、私はカーテンの留め具を拾い集めながら窓際から部屋の隅のソファにもたれるように座る。 彼は引きちぎったレースのカーテンをフローリングの床に絨毯のように敷く。そして、いつの間にかき集めたのか、両手一杯の桜の花びらを遮光カーテンで作った薄暗い暗闇に散らして見せた。そしてソファの隣に腰掛けて私に囁く。 「あの時、離れたくなかった。もう遅いか?」 昔からこういう男だった。女の心を揺さぶるツボをピンポイントで抑えてくる。落としたらすぐ飽きる癖に、気障で演出好き。私は人としての道を踏み外してしまう前に、大きな溜め息をついて髪をかき上げて立ち上がろうとする。 肩を捕まれて、テーブルとソファの間に敷かれたレースのカーテンの上に縺れ合うように転がっていく。レースの白波に浮かぶ薄紅色の花びらが部屋の小さな塵とともに白く弾ける。 (あの時って13年も前の別れ話を蒸し返して) 口説くときの演出が完璧に決まってるだけに、腹立たしくなってきた。もう同じ手には乗らない。不恰好に二人で床に横たわってじゃれているとテーブルの下の隙間が見えた。彼より少し小柄な私なら通れる、この幅だと彼はつっかえる。私は手練手管に落ちた振りをして、油断させようとした。彼が唇を寄せようと目を閉じて、再び静寂が訪れた。 今だ。私は仰向けのまま、テーブルの下を音を立てないようにそっと這い出る。 狭い木製のテーブルの下をくぐり抜けて、ゆっくりと身を起こして忍び足で逃げる。 静寂を破ったのは、彼の絞り出すような嗚咽混じりの途切れ途切れの言葉だった。 「もう…困らせたりしない。もう少しだけ…ここにいてくれ。…頼むから」 一回りも年上の四十路後半の大の大人が、子供のように膝を抱えて泣いている。三十半ばになって私は確実に老けてきた。昔は冷たく振った二十歳を少し過ぎた小娘に今は泣かされてる。小気味いいという意地悪な気持ちが半分。もう半分は…。彼の丸まった背中は、レースの白いカーテンの川にお椀一つで流された一寸法師を連想する。子供よりさらに儚く脆く小さい存在。守ってあげたい。 私はテーブルをぐるりと回って、膝を抱えて泣いている彼の側に座り抱きしめて、背中を、髪を、涙で濡れた頬を撫で続けていた。
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