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お腹の子
それは同棲中の彼女、綿美が晩ごはんの支度をしている時のことだった。
綿美は僕の子供を身ごもっていた。
はじめての妊娠で、喜びよりも不安が強いらしかった。婦人科の他に同じ病院内の精神科にもかかっている。
朝はわりと元気だ。
ただ、日が落ちる頃になると、少しヒステリックになったり、黙り込んだりする。医師の説明では、やはり1日の疲れが影響するとのことだった。
だから、晩ごはん作りは僕がやると申し出た。
だが彼女は、気分転換になるからやらせてほしいと言った。
それで、今も台所に立っている。
その綿美が、鼻をすすった。
「綿美?
辛いなら休めよ、無理することない。」
「ううん……そうじゃないの。」
それだけ言って、綿美は手を動かし続けた。
たぶん、会話も疲れになるのだろう。
そう思って、僕も黙った。
西日の入る部屋に、まな板の音だけが優しく響いていた。
ふと、その音が止まった。
そして綿美がふり向いた。
「あのね……」
「なに?」
「お腹の子供……」
「え、もしかして動き始めた?」
僕は目が輝いたのが自分でもわかった。
綿美は微笑んだ。
なぜか、悲しそうに。
戸惑う僕に、綿美は言った。
「動いたわ……
そしたらね……
子供がいるんだなって、あらためて思ったの。
だから……
言わなきゃいけないって……思って。」
「な、何を?」
「お医者さんが言った妊娠した日ね……
あなたとは、いなかった日だったの。
あなただって気づいてたでしょ?」
「え?」
僕は彼女の言ったことを理解するのに、時間がかかって、彼女の顔を凝視した。
もしかして彼女は、妊娠の日にちの算定法を知らないのでは?
僕が確認しようと口を開いた時、彼女が叫んだ。
「そんなに責めることないじゃない!!」
止める間もなかった。
綿美は持っていた包丁で、自分のお腹を刺した。
そして、顔を苦痛に歪ませながら、包丁を引き抜こうとした。
「やめろ!
引き抜いちゃだめだ!
血が……」
すでに刺さっている包丁を押さえて揉み合えば、傷がえぐられるかも知れない。綿美もお腹の赤ちゃんも、どうなってしまうかわからない。
僕は言葉で止めようとした。だが、言い終わらないうちに、血は噴き出していた。
後日、僕は綿美の両親に頭を下げた。
「申しわけありません。
僕がついていながら。」
きちんとした身なりのお父さんが、首を横に振って言った。
「あなたのせいじゃありませんよ。
それなりに心当たりがあったから、こんなことをしたのでしょう。
恥ずかしい娘で、申しわけありません。
死んでお詫びしたのがせめてもの救いです。」
父親とも思えない言葉に、僕は思わずキッとなった。
「そんなはずはありません!
綿美は、そんな子じゃないでしょう!
きっと……きっと、医師に告げられた妊娠の起算日が、僕のいない飲み会の日と一致したせいで……。
とにかく綿美の勘違いです!
正しい数え方を知らなかっただけです!
彼女は何も……何もわるくない!!」
僕は思わぬ運命に、また怖さを覚えた。
だが、二人はもう帰ってこない。
子供は、女の子だと聞いていた。
聞かされた日に、帰り道で名前を考えようと言ったとき、綿美はなぜか浮かない顔をしていた。いつもの抑うつ症状だろうとしか思わなかった。
名前のない、顔も知らないままの、僕の娘。
そんなことがあってから、僕は妙に静かな男になった。物静かとは違う。ただ……心がこの世に戻ってこなかった。何を見ても聞いても、何も感じなくなった。
それでいいと思った。
心だけでも、綿美と娘と共にあるなら、それでいい。
僕は死んだように生きた。
たまに遠い空に問いかけた。
僕の心に。
彼女たちのことを教えてくれ、と。
返事はなかったが、そうすることで、天国で三人仲良く暮らしている様が浮かぶのだった。
抜け殻の僕は、空の下で生き続けた。
綿美の主治医に紹介された、クリニックに通いながら。
寿命をまっとうしないと、天国には行けない……。
ある日部屋をノックした布教者に言われた言葉が、僕を生かし続けた。
それは少しずつ、楽しみに変わっていった。
綿美は寿命じゃなかったけど、あんなことで思い詰めるほど純粋な子だったから、きっと天国にいる。
なんの罪もなかった娘も、もちろん天国にいる。
二人は天国にいる。
主治医に寿命を待つのが楽しみだと話したら、一瞬難しい顔をされたが、「お薬をきちんと飲んでいれば、叶いますよ。」と言ってくれた。
死ぬ日を唯一の楽しみとして、僕は1人、綿美と暮らした部屋で寝起きした。
思い出は涙にはならず、ただあるだけだった。
病気のせいなのか、安定剤のせいなのかは知らない。
辛くはなかった。
日々は死に向かって過ぎていく。
まるで列車に身を任せているようだと、たまに思った。
列車に乗って
列車に乗って
遠い遠い幸せに会いにゆこう……
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