二人の音

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自然に目が覚める、幼い時からそうだった。いや、幼い時は皆、自然に目が覚めていたのかもしれない、一日の始まりに喜んで、寝室から出ようと、母に抱きしめてもらおうかと、父に頭を撫でてもらおうかと。 カーテンは半分、空けておく。そうすると朝日がちょうど顔をさすのだ。絃はそれを目覚ましにしている。これを自然に目が覚める、と表現して良いのかは置いておき、とにかくこの習慣を一人暮らしを初めて八年間、必ず行っているのだ。無論、冬と夏では少しばかり時間差があるのだが、在宅で仕事を行っているので困るほどでは無い。言うならば、夏は仕事の前に洗濯物も終わってしまうし、なんならのんびり朝食もとれる、といったところだろうか。 だが今はその逆、冬だ。いそいそと布団から這い出でると、洗濯機をまわす。簡単にメイクをして部屋着から着替えたらコーヒーを入れる。冷たくなった洗濯物達を部屋に干せば、もう仕事開始の九時になる。 パソコンを起動させ、決まったページにログインすれば出勤確認がとれる。朝は簡単な挨拶がある、といってもオンラインカメラで繋がる部長をぼんやり眺めていれば終わってしまう。そして昼休憩を入れてきっかり九時間、事務作業をするのだ。データ入力、デザイン、動画編集なんでもする。この九時間は絃にとって苦ではない。 仕事が終われば洗濯物をしまい、一人鍋をつくってのんびり食べるのだ。布団をなおし、長風呂からでたらそのまま寝る。一日はあっという間に終わってしまう。 だが今日は日曜日、布団からでるとのんびりと着替え、洗濯をして朝食をとる。朝の空気は冷たいが、日差しがあつい。ぼんやりとスマートフォンを眺めているとあっという間に十時だった、絃は厚手の上着を羽織り、お気に入りのイヤーマフをすると外に出る。 玄関の取手が冷たい。外の空気は顔を射して、痛かった。人通りの多いところにでるまで、マスクは顎にかけて歩く。顔全体で冬と戯れるのだ。 十五分も歩くと広い公園がある。ちびっこ広場、芝生、ベンチ、湖……この寒い中、絃よりもはやく着いていたであろう人々で賑わっている。 絃は目的地である日が当たるベンチに向かう。すぐ隣に木の影が落ちたベンチがある、夏になればそこが目的地となる。 ベンチの前には二組の親子と、一組のカップル、小学生らしき子が三人、皆、絃と同じ人を待っているのだ。 五分もしないうちに、男性がパイプ椅子を持ってやってくる。にこやかに頭を下げながら、パイプ椅子を広げ、またどこかへ行き、戻ってくると、組立式のパイプを手際よく組み立てる。そしてまたどこかへ行く…最後に電子ピアノを組み立てたそれにのせ、マイクを立てると、最初には置いたパイプ椅子に手書きの看板を立てる。 ー恥ずかしいので撮影禁止(笑)ー それを見て皆が柔らかく笑う。絃が一年間、日曜日にかかさず見ている、いつもの光景。 そして男性は歌い始める、楽しそうに。どこかのアーティストのように目をつぶって気持ちよさそうに歌うのではなく、自分を見る人達を見ながら、笑顔で歌う。可愛らしく例えるならば、保育園や幼稚園の先生のように見える。 絃はふと、男性のマイクの飾りを見た。いつも何かしらの飾りがつけられているそこには、赤と緑の装飾があった。 ークリスマスイブ……、絃はふと目線を動かして公園内を見渡した。街頭にはリース、ちかくのカフェの店内にクリスマスツリーが見えた。絃はこっそりため息をつく。今日はクリスマスイブだということに、今の今まで気が付かなかったことがなんだかとても虚しく思えたのだ。そういえばいつからか、イベント事に疎くなった自分がいた。 もう一度目線を男性に戻す。柔らかな笑顔が絃とぶつかり、つい、絃も笑顔を返した。体温が上昇するのがわかる。ベンチに座る前に顔を覆ったマスクを、こっそり片手で抑える。 彼に出会った一年前、普段散歩などしない絃は、何故かこの公園にいた。子供用の服ブランドの広告を頼まれ、何かヒントはないかと寒さに震えながら公園を歩き回っていたのだ。 寒風の中遊ぶ子供たちを見ても何かが浮かぶわけでもなく、ふと日差しの当たるベンチをみつけて腰をかけた。ぼんやりとしていると、子供らが集まってきて、絃の前にしゃがみこんだ。一体何が始まるのかと見ていると、彼が現れて演奏が始まったのだ。 彼と共に歌う子供らは実に良い笑顔だった。白い息を吐きながら、鼻の頭を赤くして歌う彼も、それは素敵な笑顔だった。 ただそれだけ、それだけで、絃は、自身が恋に落ちたんだと感じた。 それから仕事終わり、土曜、日曜日、祝日……絃はそこに足を運んだ。どうやら彼は日曜日の決まった時間にしか現れないらしいと気がついたのは一ヶ月たったあたりで、そこから絃の日常に彼はいるのだ。 皆の手拍子に合わせて絃も静かに手を合わせる。楽しそうに歌う彼の手は、寒さのせいで赤い。一時間ほどすると、彼は深くお辞儀をして曲を終えてしまう。賽銭を渡そうとする人がいると、首を振って断り、周りにいた子供達と何か話し込む。片付けを邪魔されてもにこやかで、ピアノを触らせていた時もあった。 そしていつもその隙に絃は帰ってしまうのだ。お金を受け取ってくれるのならいくらでも払いたいのに、と思ったこともあったが、こうやってそそくさと帰れるならその方が良いのかもしれない。 それにしても寒い、彼の笑顔のおかげて心はあたたまったものの、寒いものは寒いのだ。セフルサービスの小さなカフェに駆け込み、カフェラテを買うと席に着く。両手で紙カップを包み込むと、じんわりと両手に感覚が戻る。 そのまま目をつぶって彼の横顔を思いだした。なんてあたたい笑顔をする人なんだろう…夏には、なんて爽やかな笑顔をする人なんだろうと思っていた。 これじゃ気持ちの悪いストーカーのようだとふと思いながら口元が緩んだ、その時、肩をトン、と、叩かれた。 店の人だろうかと振り返り、驚く。 彼だった。 鼻の頭がまだほんのりと赤い、そして困ったような笑顔で口を開いた。 あ。と、絃は戸惑い、なんだか泣きそうな気持ちになる。心臓が大きく動いて目の奥が少しばかり熱くなる。 落ち着くように自分に言い聞かせ、鞄からいつも持ち歩いているiPadを出した。 「私、生まれつき耳が聞こえないんです」 話しかけてきた人、ほとんどにそう返す文章を彼に見せる日が来るとは思わなかった。 彼は驚いた様子で何か言いかけると、iPadを借りても良いかと手を差し出す。絃は躊躇うことなくそれを渡した。彼の長い指がiPadを包み込み、真剣な表現で文字を打ち込んでいく。 途中、顔を上げて絃に困ったような笑顔を見せると、何か言いながら指で「あと少し」と合図をした。絃は頬が熱くなる感覚を察し、さりげなくマスクをかける。 彼の長い指が絃の肩を、今度はツン、とつついて終わったと合図をしてくれる。薄く笑みを浮かべたその顔は真っ直ぐ絃を捉えていて、iPadは丁寧に両手で返された。 読もうとする絃に、彼が隣の椅子を引いて指を指す。絃はそれに軽く頷いて、iPadに目を伏せた。 「僕は星野雷太と言います、突然すみません。去年の冬からあなたが来てくれていたことに気がついていました。実は何度も声をかけようとしたことがあります。ただ話してみたかったから。偶然今日、あなたがカフェに入ったのが見えて追いかけてしまいました。僕がここで演奏するの、一旦、今日が最後なんです。もともと海外の子供達がいる施設を回って演奏をしていました、また、その旅に出ます。二年間です。その前に、どうしてもお話したかった。耳が聞こえないこと、気が付かなくてすみません。」 絃は読みながら、内容が入っていくようななかなか入らないような、不思議な感覚に陥っていた。 隣に座る彼がただこちらを真剣に見ているのだ、集中できるはずが無い。 「そうだったんですね、私は宮本絃です。みやもといと。お話出来て嬉しいです。」 絃はiPadを彼に見せ、読んだ彼が受け取ろうとした手をやんわりと拒んで文章を付け足した。 「あなたの、ファンです。」 マスク越しで笑ってみせると、彼も照れたように笑った。iPadを受け取った彼は少し考えるような顔をして手早く文章を打ち込んだ。 「多分、僕もあなたのファンです」 そしてまた指を滑らせた。 「半年後、日本をでます。それまで、良かったら友人として、僕と付き合ってくれますか?」 絃が小さく頷くと、彼は嬉しそうに目を細めて「よっしゃあ」と言った。 ーいってきますー 覚えたての手話で雷太が言う。絃は頷くとーまたーと指文字で返した。騒がしい成田空港で、二人の空間だけが静かだ。 ー来年は……ー そう、手話で表してから雷太は首を傾げてスマートフォンを取り出す。その一連の動作を絃は笑いながら見ていた。 「二年後、俺が帰ってきたら、また俺の曲を毎日聴いてくれる?」スマートフォンにうちこまれた文章を絃は覗き込んで、うんうん、と、二度力強く頷く。それをみて雷太はまた何か打ち込むと、絃に見せようかと戸惑っているようだった。 ーなに?ー 手話で聞く絃に、雷太ははにかんだような笑顔を見せる、そしてスマートフォンをポケットにしまうと、ゆっくりと手話で話した。 ー次は、一緒に、来て欲しいー 緊張した顔で絃を見る雷太に、手話で返す。 ー私ね、あなたの歌は聞こえるのー 「え、なに?」雷太は目を細めてもう一度!と、ジェスチャーする。 「嬉しい、連れて行って。」 iPadにそううちこんで、雷太に見せる。ガッツポーズする雷太を見ながら絃は少し泣いていた。 絃の静かな世界の中に、雷太は入り込んできた。騒がしく、暖かく、絃の日常に繋がって、絃を変えていく。ーありがとうーと絃の喉の奥で微かに響く声を雷太はまだ聞いていない。雷太がつくりあげた絃の音を、雷太はまだ、聞いていない。
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