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Act12.「Nameless」
雪降る森の薄暗い夕方は、夜との境界が曖昧だった。だがその闇は確かに濃くなっている。明るい内に探索を終えることが目標ではあったが、捕らえた味方をそのままにしておくことも出来ず、今晩は彼らが落ち着くのを待ちながら野宿することとなった。バグの亀裂から少し離れた場所に、一晩を越せるようなキャンプを築き直す。
錯乱していた者たちは皆、闇の中で眠りについていた。狸が、これまたコインを揺らすという古典的な催眠魔術を使い彼らを夢に誘ったのだ。以降は騎士達が交代で様子を見に行っている。目が覚めて正気に戻ってくれることを願うばかりである。
夢子は自分に割り当てられたテントの中で狼を休ませていた。何かと心細い夜、同性同士で一緒に居たかったというのもある。狼は幸いにも大きな怪我はなく、つい先程目を覚ました。そしてそれからずっと、毛布の上に無言で座っている。「何か飲み物でも」と声を掛けても小さく首を横に振るだけだった。……心細さは薄れたものの、窮屈だ。
(とりあえず……狼さんが目覚めたこと、狸さんに報告してこようかな?)
その時、外から空腹をくすぐる温かな匂いが漂ってきて、夢子は居た堪れない空気から逃げるように「何だろう? 様子を見てきます」とテントを出た。
外はもう明確に夜だった。キャンプの中心には大きな布がムササビのように張られ、それを屋根にして焚火が燃えている。その周りを囲むように立つ複数の三角テント。夢子が出てきたのもその内の一つだった。どうやら中央の焚火で、騎士達が何かをしているようである。……見れば、大きな鍋がグツグツしていた。彼らはそれをかき混ぜ、小皿に取って味見をし「なんか違う、なんか薄い」と微妙な表情を浮かべていた。
何だか平和だ。とても“楽しそう”などとは口に出来ない状況だが、だからこそそんな気持ちが大切なのではないかと、夢子は思った。……彼らは自分が出ていけば気を遣うだろうか?
煮える鍋、湯気の向こうから、狸のお面がにゅっと生える。騎士達は「うわ!」と驚きの声を上げた。
「料理なら任せてくださいよう。こう見えて自信があるんですう」
狸は“ニンマリ声”で騎士からお玉を奪う。そして懐から調味料と思わしき小瓶を取り出し、慣れた手つきでそれを鍋に投入し始めた。夢子は料理が得意だという彼に、以前キルクルスの街のカフェで調理場に立っていたピーターを思い出す。何だか随分昔の事のように感じられた。
(あの時のパウンドケーキ、美味しかったなあ)
その甘くてふわふわの思い出は、騎士達の叫びでかき消される。
「うわー! あんた何やってんですか!」
「まあ見ててくださいよう。これをこうして、」
狸の手がマヨネーズのチューブを握りしめ、卵色のそれが鍋の中に……
「あ、マヨネーズといえばソースですよねえ」
茶色のとろみのある液体がドボドボと……
「ううん、いい感じですねえ。あ、夢子さん! 味見しますかあ?」
狸の声に、騎士達も夢子の方を振り返る。その目は“この男をどうにかしてくれ”と物語っていた。夢子は拒まれない事にホッとしつつ、鍋の中に危機感を覚えて駆け寄る。
「な、なに作ってるんですか?」
「具材たっぷりスープですよう」
「マヨネーズとソース入れてませんでした?」
「あとケチャップと、醤油と、隠し味に蜂蜜とチョコレートも入れましたよう」
夢子は言葉を失い、鍋の中を覗き込む。色々な調味料が混ざり合ったその液体は茶色で、水っぽいビーフシチューのように見えなくもないが、分離して浮いているマヨネーズが食欲を減退させた。差し出された小皿に恐る恐る口を付けると……
「どうですかあ?」
狸の料理姿にピーターを思い出した事を申し訳なく思った。勿論ピーターに対してだ。
さあ、これをどうやって軌道修正するべきか。夢子が狸を押しのけて鍋の前に立つと、テントの一つから出て来た黄櫨が「手伝うよ」とやってきた。
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