Act3.「路地裏の白ウサギ」

3/3
前へ
/332ページ
次へ
 何が、と問おうとしたその瞬間、彼の腕が見てもいない背後の夢子の腕を捕らえて、そのまま彼女の体も引き連れ、前に引っ張り出した。 「……え?」  夢子は何事かと困惑する間もなく、すぐに一歩先の足元に深い闇が待ち構えていることに気付く。そこにあったのは、十二分に人が入り込める大きさの丸い穴だ。そして、これから何が起こるのか分かってしまった時には既に遅く、白ウサギの手が夢子の背を闇に押し出していた。夢子は形容し難い声を上げながら、何とかして穴の淵に留まろうとつま先に力を込めたのだが、それも無駄な抵抗に終わり、体は闇に誘われるように――落ちていった。 「わっ、」  キャアー! とか、ヒャアー! とか。ジェットコースターでしか出した事の無い自分の悲鳴が、頭上に吸い込まれていく。違う。自分自身が穴に、吸い込まれている。落ちながら振り向いた“入口”には、丸く縁取られた路地裏の空。表情の無い白ウサギ。 (なんだ、これ。夢?)  ああ、ちょっと路地裏に足を踏み入れただけでこんなに不思議なことがあるならば、もしかすると退屈でつまらなかったのは、凡庸な少女ただ一人だったのかもしれない。  胃が浮かんで、脳が突き抜けていきそうで、叫び声も尽きた頃、夢子はどこかで誰かの悲痛な声に呼ばれたような気がした。だがそれはきっと、風を切る音に騙されでもしたのだろう。  *  嫌な予感がした。否、していた。  今日、彼女の様子がどこか変だと感じ始めてから。違う、本当はもっと前から。ここ最近ずっと感じていた。ただそれを認めてしまうことが怖くて、いつも通りの平和な日常が続くものだと信じていたかっただけ。  けれど彼女と別れてから、小さな予感が胸騒ぎに変わり、頭の内側から割れるような警鐘が鳴り響いて、悠長に構えている暇は無いのだと悟った。だから追いかけたのに……一歩遅かった。  そこに辿り着いた時、残っていたのは彼女の悲鳴の名残だけだった。そして、彼女を突き落とした男はこちらの存在に気付きもせずに、自身も穴へと飛び込んでいく。  間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった!  生きた心地がしない。よろよろと覚束ない足で縋るように、彼女を飲みこんでしまった穴に近付く。だが、それはもうただの蓋の開いたマンホールで、人があんなに簡単に落ちていく大きさでもなく、底には仄暗い水の気配があるだけだった。  誰も居なくなった路地裏で、車や人の行き交う音を遠くに聞きながら、ただ目の前の現実に愕然とする。……日常が壊れる音がする。なぜ、どうして。  強く噛みすぎた唇から鉄の味が滲んだ。どうして自分はこんなにも弱いのだろう。無力なのだろう。世界が温く滲んでいく。  ――ああ、ずっと大切にしてきたものが、今再び奪われようとしている!  桃澤紫は長い髪を振り乱し、懺悔するように地に伏して、彼女の名前を叫んだ。厚く重く息苦しい、怒りと悲しみと絶望。しかしそれは少女の声帯を通ると、高く細い悲鳴となって、灰色の空気に力なく消えていった。
/332ページ

最初のコメントを投稿しよう!

77人が本棚に入れています
本棚に追加