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Act4.「in hole!go go go!」
昔から、常にどこかに入口を探していた。
鏡の様な水たまりにそっと足先から入ろうとしてみたり、大雨の後に雲が割れ、光の橋が降りてきた時には、近所で一番高い建物にのぼって手を伸ばしたりしていた。人気のない廃屋に忍び込んだり、閉園後の遊園地に隠れてみたり、今になって考えるととんでもなく危ないことも色々してきた気がする。
中でも一番強く記憶に残っているのは、小学生の頃。枯れた井戸の中に降りて行って、出られなくなった時のことだ。夜になってようやく発見された時の安堵と、泣きながら叱る母への罪悪感。後にも先にも、それ以上に叱られた事は無い。
……あの時抱いた感情が、わたしを少し大人にしたのだろう。夢まぼろしを追いかけて、危険を冒すことはなくなっていった。
(と、思っていたんだけど)
結局自分はあの頃から何も変わらず、危険を顧みない無謀なアリスだったのだ。夢子は追想をやめて、目の前の現実に向き直る。
マンホールに落とされた夢子はもう暫くずっと、深い穴を落ち続けていた。髪や肌を空気が掠めていくのは、風に吹かれるのとは似て異なる感覚で、受動的なものではない。自分自身が重たい弾丸となって空気を裂いていく感じがした。
(とりあえず、すぐ死ぬような危険性はないのかな?)
これだけ長時間落ちていて底に着かないのだから、普通の穴ではないだろうし、きっとこの落下も物理法則を無視している。落ちれば落ちるほど、速度が落ちているような気がするからだ。
平衡感覚を保っていられない独特の感覚は不快で、最初こそ吐き気を催すまでだったが、それも徐々に慣れてきている。子供時代の思い出を懐かしむ余裕さえ出てきたくらいだ。しかしそれは余裕だけでなく、暇を持て余している所為でもある。
隣を落ちている白ウサギは、腕組みをしてあからさまに話しかけるなオーラを放っている為、夢子はただ居心地の悪い沈黙に耐えながら黙々と落ちていくしかないのだ。
物語の初めは理不尽が定番だ。という自論で、前触れなく自分を突き落とした彼への怒りは無かったが、疑問は溢れるばかりなので、そろそろぶつけさせて欲しかった。夢子は何と声をかけようか考える。
その時、薄暗い穴の奥に、いくつかのぼけた光が見え始めた。よく目を凝らせば光の正体はランタンで、点々と浮かんでいたそれは奥に進むにつれて増えていき、少しと経たない内に夢子の周りはランタンの群れで埋め尽くされた。
穴の中がたくさんの灯りで満ちる。
暖かなオレンジ色の光に照らされる世界。光が映し出すものに、夢子は感嘆の声を漏らした。
「わあ……!」
ただ黒いだけだと思っていた穴の壁には、絢爛な額縁に囲われた絵が無数にかけられている。風景画、肖像画、抽象画、様々な絵が貼り巡らされていた。
と、思えば次は壁一面が本棚に変わる。分厚い本が隙間なく詰まっていて、人間に引き出されないよう強固に守りを固めていた。
さあ次は、なだらかなラインが美しい陶器の花瓶。大きな飾り壺。魔人が出そうな金のランプ!
美術館のような、図書館のような、博物館のような階層が目まぐるしく過っていく。その情報過多な景色に、夢子は胸が熱くなるのを感じていた。
コツン! 何かが夢子の頭にぶつかって、小気味の良い音を立てる。咄嗟に手に掴むとそれはヘアブラシだった。それもいつも夢子が使っているようなプラスチックの安物ではなく、一目で上等だと分かる艶やかな毛製のブラシである。コツン! 今度は片方だけ履いたままの靴が音を立てた。ブラシの次は金の手鏡。今度も中々大層な代物に見える。この階層はドレッサールームなのだろうか。
一体この穴の中はどうなっているのかと、夢子は彼に視線で問いかける。しかし彼は夢子には目もくれず、次の階層に変わった途端に近くの戸棚からティーカップを取り出して、落ちるテーブルの上で器用にケーキを切り分け、なんとも優雅なティータイムを始めた。今度はキッチンエリアらしい。
立ち上る湯気からは香ばしいコーヒーの香りが漂う。……ああ、ティータイムではなくコーヒーブレイクだったのか。よくこんな状況でくつろげるものだと感心しながら、夢子は何気なくその様子を観察し続ける。コーヒーがカップから零れないのは何故か。ケーキはもしかすると皿に貼り付いているのではないか。そもそも誰が穴の壁に食べ物や飲み物を補充しているのだろう。
すると、夢子の視線に気付いた白ウサギは近くの棚の引き出しを指し示す。開けてみろということだろうか? 夢子はようやく相手にしてもらえたことを嬉しく思いながら、素直に従う。開けてみると、中にはお菓子がぎゅうぎゅうに詰められていた。カラフルなアイシングクッキーに、マドレーヌ、ポップキャンディーに、ショートブレッド……。
そんなに、もの欲しそうな顔に見えたのだろうか。夢子は恥ずかしくなる。お菓子はどれも美味しそうではあるが、まだ飲食ができる程には落下に慣れておらず、食べられそうにない。夢子は引き出しをそっと戻した。
「お気持ちだけ頂きます。あの、この穴って、どこに続いてるんですか?」
夢子はこれは会話のチャンスだと、意気揚々と問いかける。白ウサギは億劫そうに、もくもくと頬張ったクリームをコーヒーで流し込んで口を開いた。
「はあ。さっき言ったでしょ」
「えっ……じゃあまさか、本当に不思議の国?」
そうじゃないかとは思っていたが、まさか。まさか、本当に?
そして彼は、頷く。夢子の胸が、高鳴る。
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