Act4.「in hole!go go go!」

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「すごい、すごい! すごくすごいですよそれって。すごい!」 「そう連呼されると言葉の意味が分からなくなってくる。……ああ、凄い、ね――僕だって、実際に行くまではあんな世界が本当にあるなんて、半信半疑だったんだけど」  夢子は彼の言葉に頷きはしたが、ろくに聞いてはいなかった。頭の中は今向かっている不思議の国のことでいっぱいで、噛みしめるようにもう一度「すごい」と呟く。  だって、本当にすごい――自分を取り巻く普遍的な世界がコロリと表情を変えて、それはまるで突然で、実感が湧かないまま体だけが事実として受け入れ順応していくこの状況。語彙力が消し飛んでも仕方がないすごさだ。  気持ちが浮き立つ。楽しみな気持ちと、それを引き立てる少しの不安が心地よい。きっと舞踏会に向かうシンデレラもこのような感じだったのではないか。  夢子はいそいそとブラシで髪を梳かす。落下で全然髪がまとまらないが、不思議の国に辿り着く前に少しでも身なりを整えていこうと思ったのだ。  浮かれる夢子に、白ウサギは冷ややかな視線を向ける。 「随分と嬉しそうだね」 「え? 何か言いました?」  聞こえなかったです。と言う夢子に、聞いてなかったんだろ。と心の中でぼやきながらも、彼は首を横に振り、宙のポットを手に取って二杯目のコーヒーを注いだ。視界の端の少女はまた夢見がちな顔で、穴の中をうっとり眺めながら髪を梳かしはじめる。  嬉々とし心躍らせる少女は、恋する乙女のようであり、あどけない幼子のようでもあった。彼はその姿に少しだけ苛々する。 (暢気なものだな。これから自分が、何に巻き込まれるのかも知らずに)  だがまあ、それを巻き込む側の自分が気にするのはおかしな話か。と、彼は夢子を視界の端から追いやり、思考からも追い出した。  それからまた暫く落ち続けると、どんどん周囲が殺風景になり、ヘアブラシもコーヒーカップもみんな自然と手から離れて、上へ上へと片付けられてしまった。華やかだった景色はまた黒いだけの空間に戻る。  しかしすぐに新たな変化は訪れた。足元に何か小さな点が見えてきたのだ。白く小さな点はなけなしの光を集めていくように、本当に少しずつ少しずつ大きくなっていく。そこにあるのは恐らく……穴の底。マントルの向こう。世界の果て。 「あれって出口ですか?」 「ああ、うん」 「良かった。もしかしたらこの穴には底が無いのかもって、本気で考え始めてましたから」  だからその先にある不思議の国にも、永遠に辿り着けない。よって“不思議の国は存在しない”。夢見がちなアリスは永遠にどこにもいけず、モグラになってしまいましたとさ。――そしてその救いようのない物語から、人々は“好奇心は身を滅ぼす”という教訓を得る。  そういう結末だったら最悪だと思った。反面教師として消費されるはごめんだ。 「底の無いものなんて、どこにも存在しないよ」  何の気まぐれか、白ウサギが夢子の言葉に対して語りかける。 「底を知らなければ底が無い。でもまた底が無いことを確かめようもない、ということですか?」  気まぐれの気が削がれたのか、白ウサギは何も答えなかった。夢子も喋りすぎた気がして、黙った。  地面が刻一刻と近付いてくる。普通なら骨が折れるどころではないのだろうが、大丈夫だ、という根拠の無い確信が夢子にはあった。いや、根拠ならここに来るまでに得ている。  地球を何個分通過したのか分からない落下距離。落ちながらコーヒーブレイクを満喫していた白ウサギ。常識などまるで通用しない。ここは今までの世界とは違うのだ。それが、唯一にして最大の根拠である。  そしてその理論は、強制的に実証される。  夢子は、恐らく一番衝撃の少ない安定した着地方法はコレだろうと、格好は付かないが尻餅を付く準備をした。だがしかし、落ちた先が傾斜になっていることなど、誰が予想できただろうか。いや、間違いなく白ウサギは知っていた。  滑り台のようにもならず、無様にごろごろと転げ落ち、もうどこがどのように痛いのか分からなくなって、ようやくどこかに投げ出されて体の回転が止まり、全身が満遍なくとても痛いのだと分かった夢子。  その隣に、長い脚で器用に滑り下りてきた無傷の男を、夢子は睨んだ。白ウサギは飄々とした顔で、それでも落ち続けるのは流石に疲れたのか、肩や首をゴリゴリ回している。  夢子は文句を言うのも面倒で、諦めてそのまま仰向けになって天上を仰いだ。――黒々と茂る木々の間から……空が、見えた。  ほんのり桃色の交じる、透き通った紺色の空。夜の訪れが魅せる魔法じみた色合い。夢子が日常で見ていた空とは解像度が違う気がした。空気の質感も違うかもしれない。ここは多分本当に、異世界なのだ。 「こっちも夕方なんだ」と呟いた彼女が、まだ“この世界の夕方”を知る由もない。  夢子は草の匂いをいっぱいに吸い込んで、吐き出す。森の瑞々しい匂いだ。ザワザワと揺れる木々。ガサガサと草をかき分ける音。……足音だ。気付けば白ウサギの気配はもう隣になく、置いていかれるのは困る! と上体を起こした夢子だったが――  立ち上がることは許されなかった。  足音は遠ざかるもの一つではない。近付く複数のものがあったのだ。
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