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――ぐにゃぐにゃ、ぐねぐね、発散、収束。
暗い森の奥、夢子の目には何かが見える。白い影。幽霊の類かと肝を冷やすが、それとは少し違う気がした。不気味というよりは神秘的なのである。
白銀の長い髪。藤色の羽織、同色の着物。痩身な背はこちらに向けられていて、男か女かよく分からない。雪下駄の足元には……光り輝く水面。その人がそっと手を振りかざす。袖から覗く手は骨ばっていて、恐らく男なのだろうと思った。
「あああ~……」
「どうした!?」
突然沈んだ声を上げた夢子に、常盤が心配そうに立ち止まる。夢子はやってしまった……という様子で目を閉じ、眉間を解すようにぐりぐり押した。そして言い辛そうに告げる。
「幻覚が……思いっきり見えてます」
目を開けてもう一度見ても、その幻はまだそこに居続けていた。
足を止めた一行に、夢子は幻覚として見えているものを説明する。早速幻覚に惑わされている自分に、皆呆れるだろうと思ったが……返って来た反応は夢子の予想とは違っていた。意外にも最初に口を開いたのは黄櫨で、彼は勢いよく食い付いてくる。
「白い髪ってどんな? 顔は? どこで何してるの?」
「えっと、背中まである長い髪を毛先で結ってて、顔は、ずっと後ろを向いてるから分からない。湖みたいなところに居るみたい。……でもどうして? ただの幻覚じゃないの?」
「鏡は君の心にあるものしか映さない。その人物に心当たりはないだろう?」
常盤の言葉に、夢子は「はあ、確かに」とぼんやり返事をした後で……じゃあアレは何なんだとゾッとした。まさか本当に幽霊なのだろうか?
嫌な想像を膨らませる夢子。そんな彼女のケープコートの裾をギュッと握りしめ、黄櫨が消え入るような声で呟いた。
「それは……三月ウサギだよ」
「えっ? ヘイヤさん?」
夢子は改めて幻を凝視した。あの人が、自分達が探している人物なのだろうか? 狸は夢子の視線の先を追い、何もないそこを見つめてウウンと唸る。
「確かに、外見の特徴は一致してますねえ。夢子さん、その人の頭に何か気になるものはありませんかあ?」
「頭に?」
狸に問われ、夢子はそこを注視した。癖のない真っ直ぐな髪がかかっている、その天辺。確かに何かがある。短い突起のような何かが。
「少し膨らみ? みたいなものがありますけど、ウサギの耳って感じじゃないですね」
「ああ、間違いない。ヘイヤさんですねえそれは」
ヘイヤを知る者は全員、狸と同じ反応をする。夢子はどういうことかと首を傾げた。狸が言うには、ヘイヤは長い耳を“切ってしまっている”らしく、根本の部分しか残っていないのだそうだ。
事故だろうか? 反応に困って気まずそうにする夢子に、狸は「自らお切りになったんですよお。そういうことを突然、する人なんですう」と驚きの事実を述べる。
(自ら……耳を!?)
夢子はもっと、反応に困った。嘉月会には変わり者しか居ないのだろうか?
「なるほどなるほど。ヘイヤさんを知らない夢子さんがそこまで答えられるということは、やっぱりただの幻覚じゃないですねえ。それに“湖”というのも興味深い」
「何でですか?」
「この森には確かに、奥に湖があるんですよう。……もしかして夢子さんは、千里眼の持ち主だったりしますかあ? そういうのは黄櫨さんがお得意かと思ってましたけどお」
「僕は……まだ何も見えないし感じないよ。なんで夢子には見えるの」
感情の薄い平坦な黄櫨の声。しかし夢子は、責められているように感じた。黄櫨は自分に見えないもの、見たいものが夢子にだけ見えているということにもどかしさを感じているのだったが、夢子は黄櫨の気持ちが分からず戸惑う。
「夢子の目に入った鏡の影響だとしたら、ヘイヤもどこかで鏡と接触して……同じく呪いを受けているか、囚われているか……」
常盤が考え込むように腕を組む。恐らく独り言だろうそれに「囚われている?」と夢子が反応すると、狸が「鏡は人を中に閉じ込めてしまうんですよ。不可視世界と可視世界を入れ替えてしまう」と少し真面目な口調で、静かに説明した。常盤はその間に自分の中で考えがまとまったらしく、
「君は、鏡を介して鏡の中のヘイヤを見ているのかもしれない」と言った。
(ヘイヤさんが鏡に捕まっていて……鏡の呪いを受けているわたしには、それが見えているってこと? そ、そういうものなのかな? ……そういうものだと思えば、そうなるのかも)
ジャックが「また鏡かよ」とぼやいた。
「街での暴動も三月ウサギの行方不明も、裏には鏡を使う誰かが居るってことか。まさかそいつがこの雪も降らせたんじゃないよな?」
「さあどうでしょう。とにかく、夢子さんの見ているものはヘイヤさんのSOSサインかもしれませんねえ」
「じゃあ、湖に向かわないとですかね?」
「そうですねえ。この検知器もそっちの方面を指しているっぽいですしねえ。いやあ、目的地が明確になるのは素晴らしいことですよお! 夢子さんを連れてきて良かったですねえ」
狸の大袈裟な物言いに、夢子は恥ずかしくも思ったが……少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。居ても良いと許された気がしたのだ。
湖を目指すことに反対する者はおらず、目的地が定まったことで移動速度は上がった。しかし夢子は慣れない雪道にすっかり体力を奪われて、序所に先頭から遅れがちになる。そんな夢子を見かねて常盤が「休憩しよう」と提案した。
「まだ大丈夫です」と強がる夢子に、「私も疲れたんだ」と常盤は言う。それは気遣い半分、本音半分のようだ。黄櫨も小さく息が切れている。先を進んでいたジャックは、夢子や黄櫨の様子に今気付いたようで、すまなそうに休憩に同意した。
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