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Act1.「溶け出す世界と君」
ある日突然、世界が溶け出した。
雲一つない青空が、ぼたり、ぼたりと色をこぼす。チューブから絞り出した絵の具みたいに、粘性のある滴が落ちてくる。色が抜けたそこはぽっかりと穴が開いて、青一色に澄み渡っていた空は、あっという間に黒の水玉模様に変貌を遂げた。
太陽が砕け散り、破片がキラキラ宙を舞う。目に入りそうになり避けようとした。けれど身動きが上手く取れない。体を見下ろせば、既に膝上まで色の洪水に飲み込まれていた。
固まる前のコンクリートみたいな、ゴムみたいな、紙粘土みたいな、不思議な感触のそれは、様々な色をしている。空の青。森の緑。大地の茶色。柄に特徴のあるキリンやシマウマは、溶けてもその原型を容易に知ることが出来た。
――いつかどこかの、今のここ。
わたしを囲む三百六十度の世界が溶け出し、わたしを飲み込もうとしている。わたしは無気力の塊になっていて、そんな状況を静かに受け入れようとしていた。
混ざり合う色、抽象画の世界。もしくはただの子供のらくがき。
ここがどこなのか、今が何時なのか、さっぱり分からない。きっとこのまま、わたしが誰なのかも分からなくなるのだろう。
それでいい。空も、森も、キリンも、わたしも、みんな一緒のひとつになる。
わたしがわたしである限り、わたしを苛むのなら、わたしなど要らない。もう要らない。
わたしは瞳を閉じる。世界と一体化する為に、わたしはわたしを溶かす。
けれど、溶け出したわたしの意識を収束させ、輪郭を失いかけた手を掴んだのは――君だった。
「行かないで。きみだけが、ぼくのせかいのすべてなんだ」
重力なんてまるで無視して宙に浮いている君。色の洪水に胸元まで浸かりきっていたわたしを、力強く引き上げる。ばさりと広がる真っ白なレースの日傘。君の向こうで、お花の刺繍が咲いている。
繋がれた手は少し汗ばんでいた。その温もりが無性に愛しく思え、握り返す。すると君は嬉しそうに微笑んで、わたしの手を引いて一歩空へと踏み出した。ぬめりと、どろどろから抜け出た足はそのまま宙を踏む。
わたしと君は空を飛んでいた。
相変わらず上からは空が零れてくるし、下では色が洪水を起こしている。世界は混ざり合い着々と一つになりつつあるのに、わたしと君だけが孤独と孤独だった。
でも、もう一人ではない。忘れてしまうところだった大切な感覚。わたしがわたしで、君が君だから、生まれる感覚。
ふわり。傘が風に乗って、わたしと君をどこまでも運んでいく。笑ったままの君の頬にわたしは手を添え「なかないで」と言う。その手に、白く細い君の手が重ねられた。
「よく見て、ぼくはないてる?」
困ったように笑う、君。
「ええ、ないてるわ。ずっとね」
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