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Act2.「望んではならないもの」
「なにボーっとしてるの?」
椅子に座ったままの夢子を覗き込み、紫が優しい呆れ顔で笑う。切り揃えられた長い髪が、彼女の動作に合わせてパラリと揺れた。黒く茂るまつ毛が瞬きをすると、窓を少しだけ開けたように、清涼な風が心に吹き込んで温さを洗っていく。
紫の持つ涼やかで洗練された雰囲気は、いつも夢子を心地良くさせた。
「あれ……帰りのショートは?」
「今、終わったじゃない。いつまで寝惚けてるのよ」
教室には既に、教師の姿は無い。解き放たれた空間は放課後のざわめきで満ちていた。
「そうそう、さっきの居眠り中、あなたイビキかいてたわよ」
「……えっ! う、嘘でしょ!?」
「あと、よだれも」
紫は人差し指で口の横を差す。夢子は慌てて口の周りを拭うが、そこに湿り気は無かった。揶揄われている。
「つまり、イビキも嘘ってことか」
「そう思いたいなら、それでいいんじゃない?」
「……嘘だよね? ね?」
席の離れている紫に聞こえていたなら、前後左右のクラスメイトに聞かれていない筈がない。深刻な顔をする夢子に、紫はいじわるをやめた。
「ふふ。嘘よ、嘘。でもお陰で目が覚めたんじゃない?」
「どうもありがとう」
「この間も居眠りしてたわよね。その睡眠欲……コアラ?」
「ラッコ、コブタ。……なんか、最近すごく眠いんだよね。よく夢を見るからかな? 寝ても寝た気がしなくて」
「へえ」
「夢の内容はすぐ忘れちゃうんだけどね。目覚めた時の気分がすごく……アンニュイっていうか」
「ふうん」
「なんかね、アンニュイなんだよ。アンニュイ。ねえ、アンニュイって、」
「もはや言いたいだけでしょ、それ。別に可愛くもなんともないわよ」
「なんともニュイわよ?」
「はいはいニュイニュイ。それよりほら、帰るわよ」
ポンと背中を叩かれ、夢子はのろのろ立ち上がる。
「ねえ夢子。今日はバイト無いんでしょう? どこかに寄り道していかない?」
紫の提案を受け、夢子は短く思案した。
彼女との寄り道は好きだ。カラオケに、ゲームセンターに、ショッピング。しかしいつもなら魅力的に感じるその誘いに、今日はあまり乗る気がしなかった。何だかとても疲れている。
「喉が渇いたから、何か飲んで帰ろうか」と返すと、紫は夢子が遊びに積極的な気分ではないことを察し、「いいわね」と微笑んだ。
連れ立って教室を出る時、夢子は入口付近で溜まっていた女子グループと目が合う。お喋りな彼女達は気さくに口を開きかけたが、夢子の隣の紫を見ると苦笑いで「また明日ね」とだけ言った。
紫は、極度の人見知りだ。というより、他人への興味が極端に薄い。自ら人と交流をはかろうとすることは殆ど無く、話しかけられれば当たり障りのない返事はするものの、その返事でさりげなく会話に終止符を打つものだから、会話が続かない。加えて、少年的な凛とした声と鋭い瞳が、周囲に近寄りがたい印象を与えていた。
夢子は廊下を歩きながら、彼女の横顔を見つめる。高すぎない鼻と薄い唇が控えめな品の良さを感じさせる、その横顔。……しかし、視線に気付いた紫がこちらを向いてしまったため、じっくり見ていることは許されなかった。
「ねえ、駅前の新しいカフェにする? それともやっぱり、いつものところ?」
紫は夢子にだけは、本当に楽しそうな人懐こい笑顔を向ける。
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