Act2.「望んではならないもの」

3/4
前へ
/332ページ
次へ
「変なことって?」 「例えばそうね……あの雲が“何か”に見えているとか」  夢子は秋空を見上げ、夕陽に金色の鱗を輝かせ悠然と飛ぶドラゴンを見る。涼しい息遣いが前髪をそよがせた。神秘的な生き物の、壮大な冒険への誘いに、夢子は目を瞑る。 「うん、層積雲に見えるね」 「……ならいいのよ」  紫が夢子に対して唯一否定的になる時。それが、夢子が現実にはありえない空想の世界、夢物語を語る時だった。夢子にとって、それらはとても魅力的で楽しいものであるのに、紫にとっては嫌悪の対象なのだ。  夢子が夢想を口にすると、つまらない冗談どころか、不謹慎な言葉でも聞いたかのような反応をする。そして理不尽なまでに、頑なにそれらを否定する。  紫のそんな一面は彼女の育ってきた環境に起因するのだろうと、夢子は解釈していた。  詳しい事情は、紫が聞けば良い気分にさせないからと言うので聞いていない。それはつまり話したくもない家庭環境だということ。高校三年生の現在、親が健在しているにも関わらず、紫は小さなアパートで一人暮らしをしている。  きっと、紫の世界には夢物語を描くだけの色が足りなかったのだろう。彼女にとって空想とは、無意味な慰め。現実との落差を痛感させるものでしかない。歪んだ近道をして、大人になってしまったのだろう。……と、夢子は知った気でいた。 「変な空想をしていないなら、変な夢でも見たのかしら。夢子がおかしくなったのは、居眠りから目覚めてからだものね」  紫の白く細く冷たい指が、夢子の手首を捕まえる。爪が食い込む。瞳がじっと、入り込んでくる。 「もう、夢なんて見ては駄目よ。惑わされても、駄目」  睡眠時の夢なんて自分の意思で見る見ないを決められるものじゃない。しかし夢子は、何も言えなかった。こういう時の紫は意味不明で、面倒で……少しだけ怖い。  夢子が頷けば、ようやく紫はいつもの彼女を取り戻す。その手はするりと離れて、秋風に舞った。 「大切なものは、いつも目の前の現実にあるの。ありもしない夢なんか追いかけて、見失わないでね」  “ありもしない夢”  夢子はその言葉に息苦しさを覚えた。 (惑わしてくれるだけの夢があるなら、良いんだけど。かくもこの世は、紫の望み通りに退屈だ)  夢子はもうずっと、自分を騙し騙し生きてきたような気がしていた。  ――そして、彼女との帰路に平和が戻る。
/332ページ

最初のコメントを投稿しよう!

77人が本棚に入れています
本棚に追加