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空になったカップをこっそりコンビニのゴミ箱に捨て、身軽になった夢子は道路と歩道の間の平均台に乗り、少しだけ空に近付いた。橙色が混じる薄藍色の空には、鬱屈な電線が走っている。教室の窓枠に飾られた空の方が、完璧で綺麗だと思った。綺麗な部分を切り抜いた、絵本の絵みたいで。
「夢子、危ないわよ。歩車道境界ブロックなんかに乗って」
「え、なに、もう一回言って」
「歩車道境界ブロック」
「これ、そういう名前だったんだ」
平均台の方が分かり易いのに。と、夢子は心の内でぼやく。
「……日が落ちるのが早くなってきたわね」
「そうだね、秋だね。モンブランだ」
「ねえ、夢子」
紫が、静かに夢子の名を呼ぶ。どこか弱弱しいその様子に、夢子は黙って次の言葉を待った。しかし紫は「なんでもないわ」と言って、秋の味覚、イモ栗カボチャの話題に移ってしまった。
「じゃあ、またね」
二人の分かれ道。互いに名残惜しそうに立ち止まって、もう少しだけ話をしてから「バイバイ」と手を振り背を向け歩き出す。時折振り返りながら、その行動にまた笑って、また前を向いて。それを繰り返し別々の道を進んでいく。まるで小さな子供みたいだ。
……子供。いつまでこうしていられるのだろう。自分達は半年後には、高校を卒業する。例え二人が今のままでも、取り巻く環境は変わっていく。こんな時間はあと僅かかもしれないのだ。
艶やかな黒髪が道の向こうに消えたのを見届けて、夢子は大きな溜息を吐く。
まだ頭はぼーっとするし、全身の感覚も鈍かった。
(風邪でもひいたかな?)
帰ったらすぐに寝よう。そう思うのに帰ることさえ面倒で、慣性的に動かしていた足を止めてしまう。巡る怠惰感。自分が消えていきそうな不安定さ。こんな夢を、見たような気がする。
立ち止まる夢子の周りでは、見慣れた夕刻の景色が渦を巻いていた。ちょうど人通りの多い道に出たところだったからか、派手な色が多い。車のライトの黄色、街灯の黄緑、路地裏の赤。
――路地裏の、赤?
夢子は視界の端に流れかけたそこに目を戻す。道路の向こう、居酒屋とマンションに挟まれた狭い路地。その奥にちらつく赤色を、今度はしっかりと目に留めた。
それは何かの、誰かの、瞳だ。暗く全貌はぼやけているが、真っ赤な双眸だけは闇に隠されることなく浮かび上がっていて、間違いなく夢子を射ていた。こんなにも距離があるのに、瞳などという僅かな面積の色がハッキリ見えるのが不思議だった。
ふっ、とその瞳が見えなくなって、夢子はその人物がこちらに背を向けたのだと知った。ぼんやり見えていた影が、路地の奥へ吸い込まれていく。
「あっ、ま、ちょっと、待って!」
夢子はそんな風に慌てて声を荒げる自分が恥ずかしくて、不思議で仕方なかった。ただ本能だけが先走り、嘲笑を浮かべる冷静な自分を押し負かしてしまっている。
ぼやぼやと遠ざかっていた世界が、急激に鮮明さを取り戻し始めた。
色が、溢れる。ああ。世界が、世界が帰って来た。
世界が一気に押し寄せてきた!
赤い瞳はもう夢子を見ない。
追いかけなければ、追いかけなければ、追いかけなければ!
夢子は気付けば、車の行き交う道路へと身を投じていたのだった。
無謀な自分を弁明できる理由は見つからない。
ただ、何かが起きるような、物語が始まるような予感がしたのだから、仕方ないのだ。
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